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新たなトラブルにしおりをはさみました!
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新たなトラブル
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◇
「え、盆休みもねぇの?」
「ないよ」
目を剝く岡部に頷いてジョッキを煽った。いつぞやの居酒屋は浮かれたサラリーマンでひしめき合っている。
期末テストが無事に終わったかと思うと、あっという間に終業式が過ぎ、生徒たちは夏休みに入った。教師たちはと言えば、仕事に忙殺されるめまぐるしい日々を送っている。夏休みも休暇もないと言っていい。
「警備巡回っていうのかな、夏休みに浮かれ過ぎてる生徒がいないか、当番制で巡回する決まりなんだ」
夏休みになると羽目を外しすぎて校則違反やら条例違反やらをする生徒が多発するらしい。その対策として駅前や繁華街を中心に教員が巡回と監視を行う規則なのだ。明日からの盆休みはそれに食い潰される。
「はぇー……公務員ってマジ大変だな」
呆れているのか感心しているのか、岡部が奇妙な溜め息を吐いた。
「まあ、皆条件は同じだし。俺ばっかり文句言ってても仕方ないよな」
「さすが、達観していらっしゃいますねー。もうほんと、尊敬しますよ」
らしくもなく丁寧な口調で言う男に苦笑し、軽くジョッキを触れ合わせる。
「巡回って一人ですんの?」
「いや、基本は二人一組だよ」
巡回は危険を伴うこともあるのだ。ゲームセンターや漫画喫茶に入り浸る程度の校則違反ならまだ可愛いものだが、中には暴走族やヤンキーなどといった厄介な人間に目を付けられてしまう生徒もいないことはないらしい。
万が一にもそういった危険な場面に出くわした場合は教師同士で互いに連携し、しかるべき対処をしなければならない。
「お前の相方ってどんな先生なん?」
「優しい先生だよ。もうベテランだから、新人の俺には頼もしいかな」
今泉の顔を思い出しながら答える。彼女は『心配しなくて大丈夫よ』と言っていたが、それでも緊張はしてしまうものだ。
何事もなければいい。そう願いながら追加のビールを注文した。やがていつものように仕事の愚痴を垂れ流し始めた岡部に適当な相槌を打ちながら、ぼんやりと思考を逸らす。
(そういえば、あの二人も今頃どっか巡回してんのかな)
久古と並んで歩くミス・マドンナを想像し、理由もなく眉間に力がこもった。
巡回のペアは誰が決めたのだろう。自分が今泉からその話を聞いたときには、既にペアは決定された後だった。校長か教頭辺りが適当に決めたのかもしれないが、どうにも引っかかる。
危険の伴う巡回業務が基本的に男女二人一組なのは理解できる。こういう言い方はよくないかもしれないが、いざというときはやはり男の方が強いからだ。女性はどうしても力では男に敵わない。
(それは分かるけど、何で久古先生と中村先生がペアなんだろ……)
ただでさえ人目を引く容姿をしている二人なのに、ワンセットになんてして大丈夫なのだろうか。並んで歩いたら目立って仕方ないと思うが。
悪事をしている生徒は目聡い。教師の姿を見つければまず間違いなく逃げてしまうだろう。そういう点からしても、あのペア決めをした人物に疑問を呈したい。それが当事者二人でなければの話だが。
もしかしたら、二人が作為的にペアを示し合わせた可能性もある。それが一番納得いくようであり、いかなくもあった。久古が公私混同をするとは思えないが、あの二人が学校でもちょくちょく顔を合わせているのも事実だ。
(付き合ってんのかな)
下世話な詮索思考がもたげ、慌てて首を振る。自分にはまったく関係のないことだ。
久古が誰と付き合い、どんなプライベートを送っているかなど。自分にはまったく関係ないし、知りたいなんてこれぽっちも思わない。喉元にせり上げてきた不可解な感情を、思考ごとビールで強引に飲み下した。
「あのぉ、さっきからオレの話ちゃんと聞いてますぅ?」
不満げな声を耳にして我に返る。至近距離から岡部に顔を覗き込まれていた。さりげなく顔を引きつつ笑みを繕う。
「ああ、ごめん。聞いてるよ」
「うっそだぁ。だって今『ごめん』って言ったじゃん。聞いてないって認めたじゃんよー」
「ごめんって。ちょっと考え事してたんだ」
拗ねたように絡んでくる面倒な友人に苦笑を返し、機嫌を取るため焼き鳥串を五本追加注文した。
終電近くになって、千鳥足の岡部と駅前で別れ、自宅へと戻った。明日は九時過ぎに一旦学校へ行き、それから今泉と巡回に出る手はずになっている。どうせ学校に行くのなら、溜まったレポートを片付けるためにもう少し早く行こうと決め、簡単にシャワーを浴びてからベッドに横になった。
携帯が鳴ったのはちょうど、うとうととまどろみ始めているときだ。着信を確かめ、知らない番号だと訝りながら通話のボタンを押す。
「……もしもし?」
『あ、お世話になっております。わたくし、四谷警察署少年課の真辺(まなべ)と申します』
警察、という単語を一瞬理解できず、沈黙を返した。
『こちら夏井爽太さんの携帯でお間違いないでしょうか?』
「え、ええ……」
次第に脳が覚醒し、手のひらに嫌な汗が滲む。
『先ほどですね、歌舞伎町付近で未成年者同士の喧嘩が起きまして。里中亜美さん、ご存知でしょうか?』
聞こえた名前に耳を疑った。里中亜美は、あの里中亜美なのだろうか。
『もしもし?』
「え、はい。知っています。あの、うちのクラスの生徒です」
『あ、ではやはり副担任の方でいらっしゃいますか。失礼ですが、学校名は?』
答えるべき質問なのだろうが、とっさに返答ができなかった。この質問が来るということが何を意味するのか、二通りの予想が頭を駆け巡る。一つは確認のため。もう一つは、亜美が黙秘を続けているがゆえに、こちらに問うしかないという可能性だ。
真辺と名乗った彼は自分が里中亜美の副担任だということを知っていたが、普通こういう場合に、学校や担任教師をすっ飛ばして副担任の教師に連絡を入れたりはしないはずだ。それでも自分に連絡を取ってきたのは、亜美が口を閉ざしているからではないのか。
こちらの逡巡を見破ったかのように、電話口で真辺が溜め息をついた。
『本人がですね、どうしても学校には伝えないで欲しいと言っていましてね、学校名も教えてくれないんです。親御さんにも連絡がつかないので、誰か迎えに来てくれる人はいないのかと聞きましたら、あなたの携帯番号だけ教えてくれました。副担任だと』
亜美が自分の携帯番号を知っていたのは別段不思議ではない。生徒たちには夏休みに入る前、学校と担任の菊谷、そして副担任である自分の連絡先を伝えてあるのだ。緊急のときには連絡をするようにと。
『とにかく、今から四谷警察署までお越しいただけませんか。もう時間も遅いので家に帰したいのですが、彼女、家の場所すら教えてくれないもので』
電話越しにも、彼が相当に困っているのだと知れた。
「分かり、ました……すぐ行きます」
頭の中は混乱したままだが、何とか声を絞り出す。通話を終え、慌しく家を飛び出した。途中でタクシーを捕まえ、行き先を告げてシートに背中を預ける。
携帯を握り締め、少し迷った。自分一人で何とかできるとは到底思えない。ほんの十秒ほど悩んだあとで、思い切ってアドレスを開く。
前に、〝何かあったら俺を呼べ〟と言われた。その言葉を信じて通話ボタンを押す。
深夜過ぎだというのに、相手はたったツーコールで出た。
『どうした』
「久古先生……」
繋がったはいいが、まったく心の準備ができていなかったため、うまく言葉が出てこない。しどろもどろに警察から呼び出しを受けたことを説明すると、久古は端的に『分かった』と返してきた。
『俺もすぐそっちに向かう』
「はい……。よろしくお願いします」
久古が来てくれると分かって、ほんの少しだけ気持ちが楽になる。大丈夫だと自分に言い聞かせながら電話を切った。
ウィンドウガラスに頭を預けて深く溜め息をこぼす。
(一体、何があったんだろう……)
こんな時間に、あの清廉潔白な印象を持つ里中亜美が歌舞伎町の近くなどという危険な場所にいた。そのことにも衝撃を受けたが、何より彼女が警察に補導されるほどの喧嘩をしたらしいというのが気がかりだ。
しかも真辺は「親にも連絡が取れない」と言っていた。彼女の両親は確か、父親が銀行員で母親は専業主夫だったはずだ。深夜間近なこの時間に連絡が取れないというのはどういうことなのだろう。
「本当に、何があったんだよ……」
拳を握りこんで呟く。どんな事情があるにせよ、彼女は自分を頼ってきた。その事実だけは確かで、だからこそ一刻も早く彼女に会わなければならない。
幸い、道は混んでいなかった。四谷警察署の前に降ろしてもらう。走り去っていくタクシーと入れ違うように、黒のセダンが滑り込んできた。運転しているのは久古だった。
「夏井。何があった?」
車を降りてきた久古に問われて困窮する。
「それが、まだ何も分からなくて……」
「そうか。とにかく行くぞ」
まともな返答もできない自分を情けなく思ったが、久古は責めも叱りもせず淡々と頷いて建物を示した。
不安に押し潰されそうになりながら、久古と並んで警察署に足を踏み入れる。受付で名乗るとすぐに真辺がやってきた。
「夜分に申し訳ありませんでした」
三十代後半と思しき男は、猫背を無理に伸ばすような仕草で頭を下げる。ひょろひょろとした外見とは裏腹に、瞳だけは警察特有の鋭さを持っていた。
「里中亜美さんですがね、まあ彼女もだいぶ反省していますので、今回は厳重注意だけということにしたいと思うんですよ」
署の奥へと案内されながら、その言葉に少しだけ緊張を解く。閑散として物音一つしない廊下は、節電のためなのか妙に薄暗い。
「あの、喧嘩の相手って……」
問い出そうとしたとき、前方から怒声が響き渡った。何を言っているのか判然としないが、男の声だ。
「ああ、お気になさらず」
こちらの顔が強張ったことに気づいたのだろう。真辺がさらりとした口調で言った。
「相手の親御さんがお見えになっているみたいですね」
怒鳴っているのは、里中亜美が喧嘩した相手の親らしい。
「これだからお前を引き取るのは嫌だったんだ! この恩知らず者が!」
近づくにつれて言葉の内容が耳に入ってきた。
「うるっせぇんだよっ! このクソジジイ!」
負けじ劣らぬ罵詈雑言を喚く若い声も聞こえてくる。ちょうど奥の部屋に差し掛かり、僅かに開いたドアの隙間から中の様子が見て取れた。痩せた身体には大きすぎる服を、あたかもファッションであるかのように着こなした少年は、父親と思しき中年の男と真っ向から睨み合っている。
「迎えに来てやっただけ感謝しろ! お前なんぞどこで野垂れ死んでも俺は構わないんだぞ!」
「まあまあ、お父さんもそのくらいで」
苦笑を浮かべた真辺が仲裁に入ると、二人は一瞬にして黙り込んだ。
「今回はもうお帰りいただいて結構ですから」
真辺が促すと、二人は揃って大人しく部屋を出て行く。少年はすれ違いざま、自分に歪んだ笑みを向けてきた。中指を突き立て、床を示してまた笑う。
まだあどけなさの残る瞳の奥に言いようもない闇を見た気がして、束の間息を止めた。こちらが臆したことを悟って満足したらしい少年は、悠然とした足取りで父親の背を追いかけていく。
去っていく親子の背中を呆然と見つめていると、零れるような呟きが耳に届いた。
「厄介な相手と揉めたものだな」
久古は無機質な表情を貼り付けたまま言う。口調こそ静かだが、その瞳の奥にはゾッとするほど暗い感情が滲んでいた。
憎悪とも、侮蔑ともとれる、底なしの憤怒――。
久古が刺し殺すような目で見据えているのは、少年ではなく父親の背中だ。
今、久古は何を考えているのだろう。こんなすぐ近くにいるのに、久古が分からない。
「大丈夫ですか?」
いつまで立っても部屋に入ってこない自分たちを怪訝に思ったのか、真辺が顔を出す。
「何かありました?」
「い、え……なんでもありません」
首を振って気を取り直し、真辺の案内に続いた。
「里中さん、学校の先生がお見えになったよ」
衝立の向こう側に通され、そこにいた少女を見て目を疑う。簡素なデスクと座りの悪そうなパイプ椅子ばかり並んだ空間で少女は俯き、肩を震わせていた。
「里中さん?」
半信半疑で問い掛けると、少女が怖々と顔を上げる。間違いなく里中亜美だった。だがその姿は記憶にあるものとは程遠い。
長く艶のあった黒髪を眩しいほどの金色に染め、清廉な顔にきつめの化粧を施した少女は、あの里中亜美とは似ても似つかない別人の様相を呈していた。胸ぐりの開いたノースリーブにはひらひらとフリルが散っている。露出度の高いミニスカートと網タイツは目のやり場に困るとしか言いようがなかった。
この子が本当に里中亜美なのか。未だ信じられない気分のまま、彼女の向かいに腰を下ろす。
亜美は爽太を見て僅かに安堵の表情を浮かべたあと、その後ろにいる久古を見て顔を凍りつかせた。だが、そんな表情もすぐに俯き加減に隠されてしまう。
「……ごめんなさい」
かろうじて聞こえた声は、いつもはきはきと利発に喋る彼女のものとは思えないほど掠れ、震えていた。
久古はおもむろに羽織っていた黒のジャケットを脱ぎ、震える亜美の肩にそれをかける。ぞんざいな態度だが、ひどく優しい手つきだった。
「ごめんなさい……っ」
「大丈夫だよ。大丈夫」
両手で顔を覆い隠してすすり泣く亜美に、自分が掛けられる言葉はそれしかない。彼女の爪に塗られた深紅のマニキュアを意味もなく見つめ、何度目かの問いを胸中に呟く。
一体彼女に何があったのだろう。
「ご記入いただきたい書類がありますので、少々お待ちいただいてもよろしいですか」
そう言って真辺がいなくなる。亜美が落ち着くのを待って、そっと声を掛けた。
「何があったのか、先生に話してくれるかな」
亜美は指先でいささか乱暴に目を擦り、小さな声で呟く。
「……何か、あったわけじゃないんです」
「でも、喧嘩したんだろう? さっきの彼と」
何もないのにそんなことが起きるわけもない。問い重ねると亜美は緩く首を振り、「ごめんなさい」と繰り返した。
羽織った久古のジャケットをきつく掴んで俯く亜美に困窮し、そっと久古と目を合わせる。久古は無言のまま僅かに首を振った。
今は何も問い詰めるなということだろう。
「謝らなくていいよ」
ここでは話したくないのかもしれない。そう察し、それ以上の追及をやめた。
真辺が持ってきた書類には責任者として久古がサインし、俯く亜美と三人連れ立って署を後にした。
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