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18歳以上ですか?
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北上(シローside)
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故郷の湖水地方よりさらに北上すると、森深いヴェール地方に出る。
汽車が止まると、身の回りの簡単な物だけを詰め込んだ革のボストンバッグ一つを手に、霧がかったホームに降り立った。
冬間近の秋風が、切り裂くように頬を撫でていく。
故郷より確実に5度は気温が低いように思えた。
勤め先の屋敷は標高の高い山の中腹にあるため、ここよりさらに気温が低いことが予測された。
新しい勤め先に移って早々、体調を崩したのでは、主の信頼を得るなど夢のまた夢だ。
やはり冬支度をしてくるべきだったかと、いささか後悔しながら、駅馬車を見つけ、声をかけた。
「ローズウェル家の屋敷まで頼む」
馬主が明らさまに、表情を曇らせた。
「……お客さん、あの家に仕えるんですかい?」
「何か問題でも?」
馬主が言い渋った。
わずかな金をつかませると、左右を見回し、小声になりながら耳打ちしてきた。
「何でも主が、変わり者なんだそうで」
詳しいことはわからないが、次々と人が辞めるので有名で、土地の者もあまり近づきたがらないらしい。
やはり訳ありかと内心でため息をついたが、予期していただけに落胆は少なかった。
通常、伯爵家の執事といえば、採用条件として少なくとも10年以上の執事経験を問われるものだ。
一方、ローズウェル家の雇用条件は、男性であること、および18歳以上の、二項目のみ。
どう考えても異質だった。
だが、推薦状もない見習い上がりの執事を雇ってくれる先は、多くはない。
執事派遣場で紹介された幾つかの勤め先の内、ローズウェル家を選んだのは、即日採用の文字に惹かれたからだ。
噂が届かない程度に故郷から離れていることも、都合がよかった。
ローズウェル家の評判はともかく、日暮れまでに徒歩でたどり着ける距離ではない以上、馬車を逃せば野宿もありえた。
執事派遣場で渡された地図に書かれた金額に大幅に上乗せした額の紙幣を手渡すと、馬主はため息をつきながらもようやく、馬車のドアを開けてくれた。
裾の長い燕尾服に注意しながら、後部座席に乗り込む。
普段は至って寡黙な質だが、情報収集が目的ととあれば、話は違う。
見習い上がりとはいえ仕事である以上、幼い頃から厳しい父の元で培われた美学やプライドにかけて、可能な限り完璧に職務を遂行したかった。
「ローズウェル家の噂を聞かせてくれ。どんなことでもかまわない」
「……新しく来たお人に、あまりこういう話をするのもねぇ」
気が進まなげに前置きをしながらも、多額の運賃に気を良くしたのか、馬主はポツリポツリと、屋敷とその主人にまつわる噂を話してくれた。
霧深い場所にたたずむ屋敷は荒廃に近い状態にあり、一部では幽霊屋敷と呼ばれていること。
ローズウェル家の家系はすでに途絶え、数年前に遠縁の青年が後を継いだものの、未だその姿を見た者が一人もいないこと。
執事以外の雇い人がいないこと。
その執事も一月ともたず、全員が病で辞めていったこと。
夜毎、男娼を買っている噂があること。
「これ以上は、単なる悪口になりそうで……、まだ、聞きますかい?」
「……いや、充分だ」
なるほど、派遣場の職員が難色を示したのも頷けた。
自分としては、社交界から遠く離れた場所に行けるのなら、どこでもよかったのだが。
華やかな世界は、性に合わない。
何より、十年以上も想い続けた彼に会ってしまう危険性が高すぎる。
身を切るようにして捨ててきた、恋だった。
貴族の子息と、執事見習い。
しょせんは叶わないと、わかってもいた。
単なる幼馴染として見られるようになるまでは、会わない。
覚悟して出てきたのだ、今さら投げ出して逃げ帰れるものかと、馬車の窓から泣き出しそうな空を見上げた。
標高が上がるにつれ、樹木が密生し、ますます霧深くなっていく。
心が沈んでいくような鬱々とした土地だが、行き場のない初恋の墓場としては、ある意味、ふさわしいかもしれないと、別れの痛みを押し隠し、そっと静かに目を閉じた。
門の見える場所でいい、気の進まない仕事をさせて悪かったと言い置いて、小雨の降る中を、傘も差さない燕尾服の背中が、遠ざかっていく。
まぁずいぶんと品のある、若いが立派な執事さんだ。
馬主はしばし馬車を停めたまま、ほぅ……とその後ろ姿に見惚れた。
控え目だが、凛と整った顔。
何より上背のあるその立ち姿の、美しいこと。
落ち着き払っているばかりでなく、気遣いがあり、礼節もきちんとわきまえている。
執事服さえ着ていなければ、どこぞの貴族の若主人と思ったろう。
……あまり苦労をしないといいが。
若者の前途を案じつつ、馬主はゆっくりと馬車を反転させた。
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