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一
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何を考えていたのか、私は目の前に立つ人物のクラッチバックを二本の指で手前にグイと引いていた。
その瞬間、降りかかってきた長い腕に頬を強打され私はそのまま地面に尻を預けていた。
自分が何を考えていたのかも分からなかった私は、何が起きたのかも一瞬分からなかったが、口の中に広がる鉄の味に現状をようやく理解したのだった。
先の外灯が彼の背中を照らし、その影となったせいでその人物の顔は見えはしなかった。
「金ならねぇよ」
去り際に地面と体の隙間に先の尖った革靴で一発、それから地面についたままの手の甲に彼の生暖かい唾が吐き捨てられた。
私は何故あのような行為をしたのかと考えながら、闇に吸い込まれるように去っていく彼を見送った。
深夜の住宅街の薄暗い路地を歩く者はなく、私は見えなくなった後もその一点を見つめていたが、どこからか聞こえてきたサイレンの音にようやく体を動かした。
その時になって、冷えた彼の唾の存在を思いだし引き寄せたその手を凝視した。嫌悪の極みの顔をしていただろう彼の顔は想像するに容易かったが、その顔をきちんと近くで見ていたかった。
どうしたらさらに憤怒した顔を見られるのだろうか。
私は手の甲に口を寄せた。そして彼の冷えたその置き土産を音をたてて啜った。
彼はどんなに顔を歪めるだろうか。そしてなんと罵るだろうか。それとも、声を出す代わりに拳を、革靴を履いたその足を私へ向けるのだろうか。
骨が折れるほどに執拗に、私を────。
つまらない人生を送っている。
パートナーと呼べる相手は、一年前から帰ってこないまま。部屋にはまだ片付けられないままで相手の私物が鎮座している。
仕事はそつなくこなしているが、それに面白味をなかなか見出だせてはいない。肩を叩かれリセットされるのだけは回避したくて、営業成績は上の下。
早く帰りたい訳もなく、かといって遅くまで仕事がしたい訳でもない。
会社の近くの蕎麦屋で食らい、暖かくなってきた夜の風に気分をよくした私は駅の近くの花壇に腰をおろした。駅へと急ぐ群れから視線を反らし、形を崩した煙草の箱から百円ライターと最後の一本を取り出した。
『あなたの健康を損なう危険があります』
その文言を読んでから火を着けるようにしている。
加えたまま吐き出す煙は、スーっと空気中で更に薄く引き伸ばされていく。
こんな風に私もなれたら良いのに。
人生を悲観している訳ではない。ただ煙のように留まらない存在を羨ましく思っているのは確かだ。
煙草をふかす。煙草を吸う自分と、居なくなったパートナーの影を重ねたいだけだ。いつだったかこの同じ場所で煙草を吸って待っていてくれた。花壇にはパンジーが咲き並んでいたが、彼には花は似合いはしなかった。
私の座る花壇は、もう誰も花を植えてはいないのだろうか。ビニールに入ったゴミが二つ三つと捨て置かれているだけだった。
吸い終わった煙草を加えたまま、私はその白いビニールを掴み上げコンビニの前のゴミ箱に押し込んだ。それから加えた煙草を灰皿に落とした。
「アンタさぁ、この煙草、吸う?」
横で携帯片手に吸っていた男が差し出してきたのは、女が好みそうな細くて軽い煙草だった。
「俺にはこの煙草の良さが解らねぇ。やるよ」
返事をする前にスーツのポケットに突っ込まれ、見上げた先には鼻にティッシュを詰めた男が居た。
「俺も机に向かう仕事にすれば良かったかな」
そう言った彼は、こちらを見ることなく立ち去って行った。
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