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「………!?」
俺は思わず飛び起きた。腕時計の時刻を確認すると、7時30分。いつもなら既に出勤している時間だ。
「寝過ごした!?」
数少ない経験に、俺はひとりあたふたとする。今から準備をして家を出ても、8時には間に合わない。
まずはどうすべきだ?
遅れると断りを入れるべきか。
否、部長への電話だ。
ベッドから降りて、昨日から一度も開いていないカバンを探る。
「…あった」
慌ててスマホを手に取り、電源をつけた。
パッと画面が明るくなる。
しかし、画面に大きく表示されていたのは(土)という文字で。つまり、今日は土曜日だ。
俺は何を勘違いしていたのだろう。
どうして、曜日感覚なんか忘れてるのか。一ノ瀬くんが関わってから、生活のペースが崩れてきているのかもしれない。
「…なんだ……良かった……」
途端に緊張感が切れ、スマホを握ったままその場に座り込む。この年にもなって寝坊だなんて、洒落にならない。
そして俺は、もう一度スマホの画面に視線を落とした。
「あ……」
結構、一ノ瀬くんからLINEが来ている。
『お疲れ様でした。』から始まり、何件か。
『明日空いてますか。』
『もし空いてたら、一緒に出掛けませんか。』
とりあえず、この2つには絶句した。
これは昨日送られてきたものだから、明日イコール今日という事になる。今日出掛けませんか、と誘いが来ている訳だ。
でも、少しくらい休憩が欲しい。
そう思うが、昨日は本当に申し訳ない態度を取ってしまったから、簡単には断り難かった。
そう言えば前から謝ろう謝ろうって、結局謝ってないし、この機会にしっかり謝罪するのがベストだろう。
今更ながら、一ノ瀬くんに返信した。
『おはようございます。返事が遅れてしまい、すみませんでした。今日は用事が無いので、出掛けましょう。』
それからしばらくは返信が無いと思い、スマホを適当にベッドの上に置いて、俺は着替えを始めた。
変な態勢で、しかもスーツのまま眠ったから、色々と身体が痛い。スーツにはしわも付いてしまっている。
「……と」
とりあえずジャケットとベストを脱ぎ、昨日ベッドに放置していたネクタイも手に取る。そしてそれらは、ハンガーに掛け、クローゼットの中に入れておく。
その後は、適当に服を引っ張り出してきて、乱雑にベッドの上へ投げる。ここ数年、遊びに出掛けるということが少なかったものだから、お洒落な服というものがあまり無かった。
「着替えるか」
そう思い、シャツのボタンを順に外し始めた時。
~~♪
LINEの通知音が鳴る。
早速スマホを確認すると、やはりそれは、一ノ瀬くんからだった。
『おはようございます。いえ、全然構いませんよ。ありがとうございます。佐伯さんは、どこか行きたいところなどはありますか?』
そう来たか。これは返信に困るやつだ。
「うーん……」
とりわけ行きたいところも無い。と言うか思い付かない。部下と一体、休日にどこへ行けばいいと言うのだろうか。
返信が遅いのも迷惑かと思い、俺はすぐに返した。
『一ノ瀬くんの行きたいところでお願いします。』
すると、すぐに一ノ瀬くんからは返事が返って来る。
『では、映画館と図書館どちらがいいですか。』
映画館と図書館か。何と言うか……微妙なチョイスだ。一ノ瀬くんは、そういう静かなところが好きなのだろうか。
『図書館に行きたいです。』
映画館は苦手だった。
隣に男性がいることに堪えられないから。仕方無く行かなければならない時は、上演時間ギリギリに人のいないところに席を取る。
その後で俺の隣に席を取られたら、俺はもう映画を見ない。というのが、俺の常識だった。
まあ、そんな機会も滅多にあるものではないが。
『分かりました。佐伯さんの家分からないので、佐伯さんに俺の家に来てもらうか、どこかに集合するか、どちらがいいですか。』
俺が上司だからか、一ノ瀬くんは、色々と俺に決めさせてくれる。優しさ、とでも言うのだろうか。
『俺が一ノ瀬くんの家に行きます。』
絶対に、外での待ち合わせは出来ない。
『分かりました。いつでも来ていただいて大丈夫です。』
でも、一ノ瀬くんの家に行くのも嫌だな。一昨日の出来事を思い出すと、部屋には入りたくなかった。
『着いたら連絡しますので、外で待っていてもらってもいいですか。』
図々しかっただろうか。
『分かりました。』
「………」
けれども、彼はまた了解してくれた。
一ノ瀬くんは俺の言葉を否定してくれない。何でも承諾してくれる。
少しくらい断ってくれても構わないのに。
だけどそれをしないのは、俺が上司だから?
俺のことが気になっているとかって理由で?
それを一ノ瀬くんは、本気で言ってるの?
「分からない……」
色々考えてしまうが、結局は一ノ瀬くんの気持ちなんて分からない。
『お願いします。』
そう返して、俺は呆然と立ち尽くした。
▽ ▽ ▽
タクシーは黙々と進んだ。
隣に一ノ瀬くんがいる訳でも無いのに、行く先が不安で、身体がガチガチに緊張する。
また一昨日みたいなことがあったらどうしよう。
そう思うと、手に力が入った。
ふと外に視線を向けると、そこは最近見た景色だった。時間帯は違うが、一ノ瀬くんの住むマンションの近くだということは分かる。
「あ、のっ……」
外に出てから苦しくて、突然発した言葉が喉に引っ掛かった。僅かに裏返る声に、何とも恥ずかしい気持ちになる。
「…ここで、降ろしてください……」
俯きながら言うと、タクシーが停車した。
俺は料金を払い、どぎまぎした心臓でタクシーを降りる。
一昨日よりも少し離れたところにタクシーは停まったが、マンションはすぐそこだった。
平日の朝であれば道行く人は学生や通勤の人ばかりだが、平日の今日は私服の若者が多く歩いていた。休日は家にいることが多いから、何だか不思議な感覚だ。
「連絡…」
そうだと思い出し、ジャケットからスマホを取り出した俺は、スマホに電源を入れる。電話にしようかとも思ったが、それは躊躇われて結局はLINEで連絡する。
『もうすぐ着きます。部屋の前で待っていてもらえますか。』
送信しているうちに、マンションはすぐ目の前に現れた。
正直なところ、行きたくないという気持ちの方が勝っていたが、何とか腹を括りマンションのエントランスに足を踏み入れる。
▽ ▽ ▽
一ノ瀬くんの住む部屋が近くなってくると、当然部屋の前には一ノ瀬くんが立っていた。
「近付けない……」
自分から男性に近付くという行為には気が引ける。
文字で知らせると、一ノ瀬くんが通知音を消している可能性もあったので、仕方無く通話で知らせることにした。
「嫌だな……」
こっちに気付いてくれないだろうかと思うが、一ノ瀬くんは扉に背をつけて下を向いたまま動かない。
俺は覚悟して、何とか通話ボタンを押した。
音が鳴ったのか、スマホを手に取った一ノ瀬くんが顔を上げる。そして、耳に近付けた瞬間聞こえて来た声。
『もしもし。佐伯さんですか』
「そう、です」
『えっと……俺今、部屋の前にいるんですけど』
「…っ……」
どうしよう。思ってたより、距離が近い。普段、電話であれば、会社の男性でも大丈夫だった。だけどこれは、駄目だ。
頭の中が、白くなる。
『佐伯さん、今どこですか』
「…あの、一ノ瀬くんの部屋の近くまで、来ていて……」
電話くらい大丈夫なはずだった。なのに、一ノ瀬くんとの関係が恋愛なんかに発展してしまうのかと、そういう関係になるのかと思うと、息が苦しくなって。
近くで聞こえる一ノ瀬くんの声が、怖い。
『じゃあ、佐伯さんのとこまで行きます』
「エスカレーターの近くまで……来て、もらえますか……」
『分かりました』
「はあぁ……」
通話が切れると、全身の力が抜けて、しゃがみ込んでしまった。声も震えるし、どこにも力が入らない。
「…変、だ……」
いつまでもこんなことじゃ、本格的に一ノ瀬くんに呆れられる。もういいですって、見切られる。
絶対、今の電話で分かったはずだ。俺が男性を受け付けないということ。一ノ瀬くんを受け付けていないということが。
声色、トーン、話し方で、全部伝わった。
「…佐伯さん」
顔を、上げたくない。
「佐伯さん、どうしました?」
次は、顔を上げてくださいとは言わない。一ノ瀬くんは少し離れて、俺を見下ろしている。
何を、言われるんだろう。
「すみません、佐伯さん」
「っど……して……」
どうして一ノ瀬くんが謝るの?
本当に謝らなければならないのは、俺の方だ。
一ノ瀬くんは、謝らなくたっていいのに。
「佐伯さんは昨日、LINE見てないですよね。今日見 て、出掛けようと言ってくれたんですよね。…多分、佐伯さんは俺に謝ろうとして来てくれました」
一ノ瀬くんは、微妙に間を置く。
「だけど、本当は嫌だったんじゃないですか、俺と出掛けるの」
なんで。
「………っ」
なんでそんなこと言うんだよ。
誘ったのは一ノ瀬くんだろ。
一ノ瀬くんは俺と出掛けたいと思ったから、だから誘ったんじゃないの?そうじゃなきゃ、男性恐怖症で上司の俺なんか誘わない。他に友達だっているんだから。
俺だから誘ったんでしょう?
それなのに、あんな失礼な態度取ったのに、嫌だなんて言える訳が無い。一ノ瀬くんは何でも分かりましたって言ってくれるから、俺だって断れない。
それに、嫌だって言ったら、一ノ瀬くんに嫌われる。
「………違う」
俺は首を振って否定した。
一ノ瀬くんは、相変わらず抑揚の少ない口調で続ける。
「俺は、佐伯さんが無理してるのは見たくないって、いつも思います。
会社で男性とすれ違う時とか、話している時とか、佐伯さん毎回ビクビクして、その後に辛そうな顔をします。気付いてますか。
だけど俺は、佐伯さんにそういう顔はさせたくないんです。だから、無理に近付きませんし、用も無く話し掛けたり触れたりしません。佐伯さんが、俺がいることで苦しいと言うなら、俺は佐伯さんの前から消えます。
でも、佐伯さんは無理をするんです。俺だって、佐伯さんが嫌だって言わないと、佐伯さんが何を考えているのか分かりません。
もし佐伯さんに、俺に謝りたいという気持ちがあるのなら、無理をする前に全部言ってください。怖いとか、嫌だとか、助けてほしいとか。俺、佐伯さんの嫌がることはしませんから」
俺の方こそ、一ノ瀬くんは無表情だから、何を考えているのか分からない。その無表情の裏で、一ノ瀬くんはそんなことを考えていたの?
「佐伯さん」
一ノ瀬くんと出会ってから、何度も呼ばれた名前。この低い声だって、何度も聞いた。
俺は、釣られるように頭を上げる。
「佐伯さんは、俺と出掛けるの嫌ですか」
また、真っ直ぐな質問だ。
『俺に謝りたい気持ちがあるのなら──』
もう、心の誤魔化しは利かない。
俺は、首を縦に、静かに首肯した。
「駄目です」
一ノ瀬くんが、近付いて来る。
「佐伯さんが、佐伯さんの言葉で、ちゃんと言ってください」
一ノ瀬くんは、一昨日みたいに俺の前に屈んで、そして首を傾げる。前よりも近かった。
やっぱり、近くて、怖い。怖いけど──
──逃げたくはない。
「嫌、だ……」
絞り出すような、小さな声。
「っ……?」
「そうですか」
一ノ瀬くんは、優しく微笑んだ。大きく冷たい手が、俺の頭に触れる。
「よく出来ました」
「………ッ」
だけど今度は、息も苦しくなかった。
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