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弐
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まだ薬液臭い濡れたフィルムをぶら下げで、海綿体で優しく水滴を拭き取る。
蛍光灯の光にかざして見えた景色は、先日撮影した運動部の生徒達。普段の練習の中で流れる汗やその眼差しを、ふざけて笑う姿を収めている。
カメラを意識しない被写体のその表情は、校舎ですれ違い見かける顔とは異なる。真剣な顔と気の抜けた顔とでは、まるで別の人であるかのよう。それを秋の文化祭で校内展示するのが、写真部としての主だった活動だ。ちなみに勿論個人での活動はそれだけではない。
良いと思う被写体に出逢いどんなにシャッターをきったとしても、授業のある日は時間的に一日一本現像するのがやっとだ。先生不在の場合は生徒のみでの化学準備室の使用が認められていないから、会議や出張で使えないことも多い。従って時間のかかる焼き付け作業は夏休みに入ってからになる。
対してデジタルは、加工もプリントも全てがエアコンの効いた部屋の自宅、PCと優秀なプリンターが有れば時間なんて関係なく制作することが可能だ。
御輿先生じゃないけれど、デジカメに移行しようかと考えたことがない訳じゃない。ただやはり作業も好きな僕としてはせめて在学の間は…と頑張れている。
もし仮に御輿先生が顧問ではなくなったら、僕は新しい先生に遠慮してカメラを買い換えるだろう。それこそ今のカメラを下取りに出して、二度とフィルムを触ることも無いだろう。
「ご苦労さん。あと何本だ?」
準備室の冷蔵庫からパックのコーヒー牛乳を僕に寄越し、自分は左手で開けた缶コーヒーに渋い顔で口を付けた。
内心そのコーヒーを羨みながらも、指折り数えてカレンダーと照合して答える。
「期末試験日以外の日はやらないと間に合わないかな」
それにまだを撮影するかもしれないし…と、ストローを差し込みながら付け加えれば、椅子に座った先生は肘おきに肘をたてて大袈裟に頭を抱えた。
「知ってると思うけど、加野君が居ると俺、点付け作業出来なくて残業になんだけど。」
吸い上げたストローから口を離すと、パックから妙な音が出た。
「空き時間があるでしょう?」
昨日までに現像していたぶら下がるネガを見ながら、再度ストローに口を付けた。
ピントの抜けたコマも合るが、いくつか使えそうなコマもあり無駄にはならずに済んだようだ。
「…本当可愛く無い。」
定着液を元に戻し、使ったリールやタンクを現像後の水洗い時に溜めていた水で洗い、洗った水と共に廃棄の薬液を流し捨てた。
「今日はもう帰ります。有り難うございました。」
御輿先生の横の席に置かせて貰っていた鞄を手にすると、お辞儀をした。
いつもの通り先生は僕の頭に手を置いて、ご苦労さん、さようなら、と呟いた。
この時の先生の顔を一度も見たことはないが、僕も先生にその時の顔を見せた事はない。
見せた事はないが、僕は下を向いたまま扉から出ていく。それまでどんな会話をしていても何も変わらないのに、最後のソレでどうしようもないほど気持ちが落ち着かなくなる。
気付いてないと良いけれど、どうやら僕は御輿先生の事が好きらしい。しかも今年で五年にもなる。
あと半年。僕はこの気持ちを伝えることなく卒業しようと決めている。
卒業して今より世間が広くなりそれなりに忙しくなって持ち歩くのも小さなデジカメになりさえすれば、きっと僕のこの治まらない気持ちも小さくなってくれるだろう。もしそれが出来なくても、会えなくなれば仕方無しに整理出来るだろう。
あと半年。あと、半年……。
窓の無い暗室は、換気扇が常に回っているはずだが、酢酸の臭いは簡単には無くならない。直す気の無い内向きの換気扇は通常通りカタカタと五月蝿い。いつか羽が飛んでくるんじゃないかと暗室を使い出した時からずっと心配している。
壁際の台に年代物の引き伸ばし機、パット三枚、順に現像、停止、定着液。そこにそれぞれ竹のピンセットを用意。流しには水を溜めておく。
今日焼くネガを用意して、引き伸ばし機にセット。確認のために付けたセーフライトの妖艶な色に染まる暗室にテンションも一気に跳ね上がり、準備は完了。
使用中の札をかけて扉を閉める前に、準備室の窓際に立つ御輿先生に声をかける。なにやら難しい顔をしていて、機嫌でも悪かったのかと視線をずらしたが他二名の先生は不在だった。
「…休みだそうだ。」
そうですか、と平静を装い改めて扉を閉めようとした矢先、御輿先生がロールのままのネガをこちらに向けてきた。
「…焼きましょうか?」
先生は苦笑いして首を振った。
「久々に俺も焼きたいんだけど、良い?」
「…暇なんですか?」
「言うようになったね。」
「じゃあパイプ椅子入れておきます。」
窓際の不機嫌そうだった御輿先生は何だったのか。
「じゃあ俺は、準備室の施錠しとかなきゃな。」
暗室の中は入口から流しまでおおよそ五歩もあれば移動出来る程狭い。ましてや御輿先生は、背も高けりゃガタイも良い。指導の時は何度もぶつかったり足を踏まれたりしたものだ。なんせチビの僕とは二十センチほども違うのだ。でも一年の時は今よりももう十センチばかり低かったから、……なんて考えても情けないのには変わらない。パイプ椅子は入口からすぐの比較的広い場所に置いた。引き伸ばし機のすぐ横だから、あまり好ましくはないが仕方ない。
「ドア締めるよ。」
「はい、どうぞ。」
改めてセーフライトを付けて、暗室はその本来の姿になる。
白色のパットや壁が妖艶に染まる。今日焼く予定のネガフィルムがカーテンの様にぶら下がり、その横で椅子に座った御輿先生の顔がピンクや黒に照らされている。
「じゃ、お手並み拝見。加野君やっていいよ。」
長い足を組んだ先生は、背もたれに盛大にもたれて腕を組んだ。
「久しく一人の作業でしたから、なんか違和感が凄いですよ。」
「まるで、顧問に文句言ってるように聞こえるよ。」
「そうですね。言ってますね。」
「可愛く無い生徒だな。」
先生の口癖。以前はそんなに言われてなかったのに、いつからだろう、最近は事あるごとによく言われている。僕が昔と比べ何でも言ってしまうから仕方ないんだろうけど、冗談でも少し寂しい。
「そうですか?こんなに先生になついているのに?御輿先生は贅沢ですね。」
暗室の妙なテンションに背中を押されて、気が付いたらそう言っていた。
「あーもう。分かった分かった。可愛いからさっさとしろよ。印画紙出すんだろ?」
自分らしくない発言に赤らめた顔を隠すようにそっぽを向いていたら、椅子から下りてしゃがみこんだ先生が僕の足を押した。
「確か引き伸ばし機の下の棚…あった。四ッ六ッどっちだぁ?」
四ッ切と六ッ切サイズの印画紙の入った箱を出した先生は、再び椅子に腰かけて自身の膝の上にそれをのせた。
「大丈夫ですからっ!僕一人で出来ますからっ!」
そう言って取り上げようとすれば、先生は僕の手をとって腰を叩いた。
「合図くれたら一枚ずつ出してやっから。ホラ、さっさと合わせろ。」
「は ハイ…有り難うこざいます。」
「……本当、お前との暗室も久々だな。」
それきり無駄口は叩かず、作業は坦々と進んでいった。
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