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肆
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『ゴメン』と言った声の主は、体勢を直すとネガをかけ直して暗室から出た。
僕の体は椅子から滑り落ちて、先生の背中を目だけが追う。
ゆっくりとした動作で床に落としていた電子タバコを拾い、化学準備室から出ようとしている。
「ちょ、先生っ!」
「…焼き付けしてて良いよ。鍵は外からかけとくから。」
こちらを見ようともせず、先生は部屋を出て施錠した。すりガラスに映る先生のシルエットはすぐに見えなくなった。
いつのまにか立っていた体を再び椅子に預けた。椅子はギシッと音を出し少しだけ回った。
酢酸臭い暗室の中をセーフライトの光が妖艶に照らす。五月蝿い筈の換気扇も今はあまり気にならない。吊り下げられた印画紙から落ちた水滴が水面を叩いた小さな音は、何故だかしっかりと僕の耳に残った。
暗室は妙なテンションになりやすい。
セーフライトの光はどこかエロティックで、水音は何かのスイッチ音の様に脳内に響く。
連日の猛暑で疲れきった脳が、間違えたのかもしれない。例えば───
「恋人と間違えた?、とか。」
勢いよく立ち上がり椅子の背を押し歩く。
御輿先生の横に椅子を戻して、置いたままだったゴミ袋を化学準備室の出入り口にある蓋付きの大きなゴミ箱に突っ込んだ。
僕の気持ちもこんな風に簡単に棄てられたら良いのに。
ふと床に目を向けると丸くなったネガが落ちていた。僕の使う富士フィルムではない。施錠のついでに忘れてしまった例のネガなんだろうかと気付いてスルスルと伸ばしてみた。予想していた風景写真ではなく人物写真。それも見覚えのあるカメラを手にした───
もつれそうになる足を無理矢理走らせ、引き伸ばし機にネガをセット。明る過ぎる化学準備室の光を遮るために暗室の扉を乱暴に閉めて、ピントを調整した。
台に写し出されのはCanon Eos55と、それを構える僕。まだ僕が中等部だった頃、高等部写真部の撮影会に同行させてもらった日。御輿先生と初めて話した日。先生を好きになったあの日の僕がいた。
コマを動かして分かったのは、全てのコマに僕が写っているという事。そして作品の被写体としてではないその構図、絵にならない僕の表情に動き。
……たまらなく顔が熱い。顔だけじゃない。首も腕も足も。全身がくまなく熱い。吹き出た汗が顔を流れ、顎を伝った汗が投影された僕の上に落ちた。
恥ずかしいのは、知らない内に撮られていたからだけじゃない。先生を隠し撮りしていた僕のネガとソレが重なって見えたから。先生の事が好きな僕と同じ様な撮り方をしていると気が付いてしまったから。
「……いや、まさか、そんな訳!」
僕は隠していたネガを戸棚から出した。
展示用の焼き付けが終わってから焼こうと思っていた御輿先生を写したネガ。撮影は最近ではない。
現像をしている時には焼き付けなんてしないでマウントに仕上げて持っていようと思っていたが、家のライトボックスで見ている内にどうしても写真として一枚は残したいと思ってしまった。カメラ目線ではないが、限りなくこちらを見ているように見える先生の視線が、いつになく鋭く凛々しくて……僕はそれに欲情した。
暗室の扉に使用中の札を掲げ、僕は扉を閉めた。
流しの水をゆるく出して、パットの中をそれぞれ静かにかき混ぜた。
ネガをセットして台に投影しピントを合わす。
再びセーフライトだけの明かりの中で四ッの印画紙を一枚出した。セットした印画紙に僕は深呼吸して、スイッチを入れた。
タイマーが動き出す。投影された人物は今から約五年前。無精髭なんて生やすわけもない新人教師。短く切り揃えられた髪。
カチッと切れたライトの音にハッとして印画紙を台から外した。露光した面を裏返し現像液に静かに沈める。端から竹のピンセットで含んでしまった空気を押し出す。印画紙の端を赤いゴム先のピンセットで優しく持ち上げて裏返す。浮かび上がる先生の表情が濃くなっていくのをスッと持ち上げて静かに停止液に沈めた。青いゴム先のピンセットを使って端から優しく押して裏返し、また先生の目をみる。何を見ていたのだろう。それとも何かを考えていたのだろうか。青いゴム先のピンセットで持ち上げた印画紙を定着液に沈める。白いゴム先の着いたピンセットで印画紙を端から押して沈めて手を離した。
再び引き伸ばし機に戻りネガを取り替える。
愛機Eos55から顔を覗かせて笑う五年前の僕。周りよりも一回り以上小さく、実際今より十センチほど小さな僕。
カメラの使い方すら満足に分からなくて静止した風景ばかり撮っていた僕に、人物写真の撮り方のコツを教えてくれた御輿先生。ファインダー越しにしか被写体をみない僕に、そうじゃないと教えくれた先生。写真はまさに、それを実行している五年前の僕。
「四ッに焼くのは勿体ないな」
苦笑いしながら印画紙をセットして深呼吸をした。
スイッチを押すと同時にタイマーが動き出した。五年前の僕は幼く、自分で言うのもおかしいけれど無邪気に笑っている。
カチッと切れたライトに急かされるように端を持ち上げて現像液の水面を切るように沈めていく。赤いゴム先のピンセットで空気を押し出して裏返す。黒い愛機のロゴがハッキリと白く浮かび上がり、僕の顔も鮮明に浮かび上がるのを確認してその端を持ち上げた。
停止液に沈め青いゴム先のピンセットがソレを押さえていく。空気の塊が印画紙の右側から逃げていく。もう一度端から押してから裏返した。揺れる水面下で僕は笑っている。
青いゴム先のピンセットは定着液のパレットにソレを沈めた。白いゴム先のピンセットで、端から押さえて──
「ホント可愛くない!」
印画紙の入る袋を丁寧にしまい、箱を大事に戸棚にしまう。引き伸ばし機から外してネガを巻くと暗室の扉を開けた。
そのまま化学準備室を横切り、出入り口とは違うもう一つの扉の鍵を開けた。
黒いカーテンが揺れる先の床に座りこむ長身の男が電子タバコを加えていた。
一瞬だけ驚いた顔を見せた御輿先生は、すぐに苦笑いして頭をかいた。
何かを言いたげな視線を睨むと、先生はダルそうに立ち上がってタバコをポケットに片付けた。
「写真部の顧問・御輿先生として、ちょっとこっちに来て下さい。」
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