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ジャパニーズクラス
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2年生に上がって最初の授業は国語だった。
笠木は教室のドアの前に立ち尽くし、深呼吸をする。
彼にとっての初授業である。
教師人生を歩み続けてなかなかの長さとなるが、新規のクラスを担当するこの瞬間には慣れない。
しかも今回の受け持つクラスには問題児が大量に生息している。
最初が肝心だ。
ここはなめられないように声を低くして、注意を促しながら入ろう。
ルイルイなどというふざけたあだ名をつけたことを後悔させてやる。
もう一度呼吸を繰り返し、意を決してドアを開いた。
やはり何人か席についていない。
笠木は眉間にシワを作り、呆れた声を吐き捨てる。
「早く席について!授業はもう始まっているんですよ!」
「あっルイルイ先生眼鏡かけてたんっすか?」
きちんと席に座って教科書をセットしていたリョウが、柔らかに破顔した。
笠木は虚をつかれたように瞠目し、眼鏡の縁に触れた。
ひんやりした感触が指越しに伝わる。
「これですか?昨日は眼鏡を忘れてしまってコンタクトで来ていましたね」
「いつも眼鏡なんですかー?」
「仕事の時だけです。眼鏡はよく見えるのですが、目を痛めるので」
教室に入る前の厳格さは成りを潜め、そこにはただの淡い微笑を浮かべる青年がいた。
柔らかい物腰になった笠木に、生徒達は度肝を抜かれ黙りこむ。
「あっじゅっ授業を始めます!」
変な雰囲気になったと感じ取った笠木は、慌てて首を横に振り、また教師の仮面を装着した。
「いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の公達たすけ 船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、よからう大将軍にくまばや」とて…」
落ち着いた様子で教科書の文をつまることなく読んでいく。
所々に綴られている重要文章を黒板に書き写す音と、朗読する笠木の声だけが教室内に響き渡る。
もちろん最初の授業からテキストを進んでいくので、生徒の方にあまりやる気は見られない。
真面目に聞いているのは、一番前にいるリョウぐらいで、他の生徒は皆、笠木の目を盗み、好き勝手なことをしていた。
一応教科書だけは開いているサガラだが、当然彼の目は敦盛の最後が書かれた本でも黒板でもない。
斜め前にいるユツキの背中だけに注がれている。
ユツキが巻いている白いマフラーが風になびくのを、ただ眺めていた。
特にユツキの背中に髪の毛がついてるとか、ハエが止まっているとかではなく、ユツキだからこそサガラは眺めるのだった。
愛しい彼の凛々しい後ろ姿は、飽きることなくいつまでも見つめられた。
眺めているだけで頬が緩み、熱を持ち始める。
サガラの瞳も心なしか柔らかく潤んでいた。
敦盛など左耳から右耳に留まることなく流れていったが、サガラは何の後悔の念もなく、ユツキの背に熱い視線を送り続けた。
そのユツキはというと、教科書の長文にも目をやり、真剣な表情でしっかりノートにペンを走らせている。
笠木の講義に耳を傾け、書きもらしがないよう文章を綴る。
ユツキは比較的勉強に励んでいる方で成績も良い。
授業中は騒ぐことなく物静かに腰を下ろし、黙々と教師の発する言葉に集中すると言う、優等生の鏡的存在だ。
ユツキからすると、不真面目で愛らしいサガラのために分かりやすく美しいノート作りを実行しているだけなのだが。
授業中にまで相思相愛設定を持ち込むほど、彼らはいつもお互いを思っている。
アホで有名なシュウだが、彼も以外に話を聞いてノートを写していた。
たまに手が止まり、困ったような表情で先生を凝視しているのですぐついていけなくなるらしい。
やる気は十分。
理解力は不十分。
なんともバランスの悪いシュウだった。
ハルトはというと、頬杖をついたまま黒板の内容を吟味していた。
ノートなどは出してはいるが、ただのお飾りとなっている。
国語など聞かなくてもわかるだろう。
勉学に励む生徒の憤怒を買いそうなことを平気で思っていた。
数学なども公式を頭に入れれば満点に近い点数は余裕でとれた。
他の教科にすれば、テキストを脳みそに叩き込む非効率なやり方をする前に、それらは常識問題として扱った。
要するに聞かなくても全て理解できると言うことだ。
しかしとくにやることもないので、一応聞いているが、その顔つきはつまらなそうだ。
「では矢垣君。『また討ちたてまつらずとも、 勝つべき戦に負くることよもあらじ。』を現代語訳してください」
「はい!?」
春風が睡魔を運んできて眠りにつきかけてたシュウは、慌てて跳ね起きた。
意識はまどろみのなかにあったので何を質問されたか分からない。
笠木もそれを察したのだろう。
特に怒るような真似はせず、もう一度問題文を繰り返して言った。
「また討ちたてまつらずとも、 勝つべき戦に負くることよもあらじ。を現代語訳してください」
なっ何語だそれは!?
本気で笠木の口から飛び出してきた堅苦しい日本語にシュウは翻弄される。
昔の言葉なんて習って、何の役に立つんだ!
半ばやけくそのように胸のなかで叫び、うろたえながら答えようとするが問題文すら思い出せない始末。
リョウの心配そうな目と、サガラの馬鹿にしきった顔が視界に写る。
サガラ、お前もわかってないだろ!
生意気な友人にそう言い返したかった。しかし今は問題集中せねばなるまい。
いくら考えても一文すら読解できない。
「わっわかりませ…」
素直にギブアップのタオルを投げ込もうとするが、シュウの泣き声を隠すようなタイミングで涼とした声音が重なった。
「また、お討ち申さなく ても、勝つはずの戦に負けることもまさかあるまい
…次郎が軽い傷を負っただけでさえ、直実はつらく思っているのに、この殿の父が、討たれたと聞いて、どれほどお嘆きなさることだろう。ああ、お助け申したい」
指定された文章だけでなく、台詞の部分をポンッと訳せた生徒、ハルトに笠木は面を食らう。
必要以上の答えを、明日の日程を尋ねられたように何も見ず、平然と解いてしまうとは思ってもいなかった。
「正解です。よく熊谷の言葉を全て訳せましたね」
「お望みとあらば、最後まで朗唱できるが」
挑発的な目付きでハルトは言った。
はったりなどではなく、現代文を音読するように読める自信はある。
笠木は更に目を見開いたが、すぐに黒板に向き直ってハルトが出した答えを書いていく。
まるで最初からハルトがあてられたかのような雰囲気に、シュウは内心安堵して、秀才の幼馴染みに感謝の念を抱く。
それにしてもどうしたんだあいつ。自分から答えるとか滅多にしないくせに。
まっいいか!またヨーグルトでも奢ってやろうっと!
ハルトの本意に気づくことなく、シュウはノートに目をおとした。
「…面倒かけさせるなバカが」
ハルトの呟きは、窓から入ってきた薫風に揺られ空気に消えた。
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