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叡知
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曖く、苦楽の溜まった闇のなかで、びかり、と懐中電灯を当てた。目を見開いたのは、年端もいかぬこどもだ。どうやら、敵の策に落ちたうえで生き延びた幸運な――悪運の強いこども。ぱち、ぱちりとあどけなく、僕を見詰める。
「アンタ、は」
「へぇ。普通に喋れるんだな。僕は安室透。公安だ。きみは」
「………………工藤。工藤新一、探偵さ。
今は、こんな姿だけど」
いっとき、顔を歪め自分の姿を確認してから、こどもはまっすぐに僕に名告る。どこかで聞いたような名乗り文句だが、僕が信用に値すると思われたのか、はたまた、公安の肩書きを?
どちらにせよ、このこどもが聡意ということはたしかである。
こども、……工藤くんは、散った布をかき集めて、ブカブカと余るズボンの裾を持ち上げ顔をしかめ、えいっと勢いよく、脱いだ。
動きにくい、なんてぼやいているからそういうことなのだろうけど。
見知らぬ男の前でずいぶん無防備なものである。先程痛い目に遭わされたばかりだというのに。
「立てるかい? 手を貸そう」
手を差し出してやる。それは、躊躇いなくこどもの手につままれた。無防備というよりもむしろ、剛毅なだけか。感心していると、小さな体は慣れないのだろう、フラついていた。懐中電灯がぱかぱか点灯する。電池が切れかかっているようだ。
そのこどもを見つけたのは本当に偶然だった。何か図ったというわけでもなく、ちょうど居合わせたのだ。
といっても、黒の組織の幹部連中をつけていたという点では、同じだが。……なんということはない、組織の取引を目撃してしまったのだ。殺されるだけ。
達観した風に、未来ある高校生の死を悼もうとした。ここで僕が口を出すのは、組織の一員としてあまりにも危うかった。仕方の無いことだと。
しかし、どうだ! ジンが高校生探偵に呑ませたのは、時間を巻き戻す薬、アポトキシン4869。彼は一命をとりとめる代わりに年相応の姿を失った。
茫然自失のこどもに声をかけたのは、運命のようなものを感じたからか、ただの気紛れか。可愛そうなこどもを救ってやろうかという、警察の一員として許されざる、いささか偽善的な、それだったのかもしれない。
ある地下駐車場に工藤くんをつれてくると、彼は僕の愛車をまじまじ観察した。元の目線と全く違う目線に、先程から興味を隠しきれていない。
別段見られて困るものは乗せていない(見えていない)から良いけれど。
「きみ、警戒心というものが欠けているんじゃないか。僕が誘拐犯ということもあるんだぞ」
「そうですか? そんなことはないと思いますけど」
こどもの成りをしていても、こうして話していれば彼はただの高校生でしかない。いや、ただの高校生、ならば簡単だった。相手は工藤新一だ、なかなかに、会話の駆け引きが楽しいことは僕とて自覚している。
青白く光る蛍光灯が彼の上に落ち、艶やかに照らした。
「銃を持った誘拐犯なんて、早々見かけませんけど……それなら引き付けておいたほうが安全、ですから」
「……これは、驚いたな」
銃を胸に収納していることくらい隠し通せる自信はあったが、その慧眼には見抜かれてしまうらしい。
僕がまだ見ぬ犯罪者だったとしても、それを止めようとする勇敢さに、自分の表情が緩くなるのがわかる。
彼が、合わさった視線をそらすことなく、心の扉の穴に目ををくっつけてのぞくみたいに、僕を見た。
「あなたが公安だというのが本当なら、連れていって欲しいところがあるんですが」
「ふむ、どこだい」
「博士……アガサ博士という人物がいます。その人なら、この事態もどうにかしてくれる」
よほど信頼しているのか、声の形が丸くなった。博士、というならこういう薬に理解のある人物か。まさかマッドサイエンティストということもあるまい。
先にRX-7の扉を開けて彼を促す。工藤くんは、俊敏で、しなやかな身のこなしで段差を飛び越える。しっかりとシートベルトを装着し、彼の正確なカーナビのもと阿笠邸への道を急いだ。
一般的な家より大きめの、白くまろやかなフォルムの二階建て。
「ここです。……少し待っていていただけますか?」
「構わないよ。僕はここにいるから、いつでも呼んでくれ」
阿笠邸を指し示したこどもは、安室がそのまま帰ってしまうとは微塵も思っていない。それはたぶん、信用とは違うのだろう。僕がどんな人物にしろ、送ってきた以上見届けるのが義理だ、といったところだろうか。
「……まぁいい。その博士とやらがどんな処置をするのかは知らないが、待っているとするか……」
ぐいっと伸びをしてから、アイドリング状態だった愛車を、道路の脇に避けた。
ふと時計を見て、すこしだけ笑った。あのからだでは、もう限界かもしれないな。眠気が。
ちょうど、時刻は深夜一時。
そのあと、彼に呼ばれて入らせてもらった阿笠邸は思っていたような堅苦しいものではなく、唯一博士の研究室のドアだけが侵入者を拒むように固い質感だった。
「そこを見るのは、まだです」
「……博士には逢わせてくれないのかい」
「ええ。博士はただの成人男性でしかないので。それより、どうですか」
「どう、って?」
「この格好」
わずかにはにかんで、柔らかい猫のような髪の毛を揺らつかせ、また猫のような身体のしなりを見せる。そのこどもの痩身は、たしかに色が変わっていた。
青のパリッと糊の効いたジャケット、揃いのショートパンツに真っ赤なリボンタイ。カシャカシャ、彼の目元で軽く音をたてているのは黒淵の大きな眼鏡だ。
「ずいぶんおしゃれをしたんだな」
「博士の発明品ですよ」
僕は工藤くんの前に膝をついた。上からでは見えなかった硬質な腕時計や、パンツをしっかり締めるベルト、これらがその、発明品なのだろう。内容は話してくれなかった。
僕は、内心で薄く笑う。
当の博士は安全のために隔離されているし、今も、工藤くんは研究室の方に目を配っているが、かなり順応力の高い人なのだろう―――。
「え、っ、え、江戸川コナンだよ!」
と、幾ばくの図書が集まった部屋にてのたまった彼に、驚かされた。彼と出会って次の日のことだ。
僕は、もう遅いから仮眠していってよという工藤くんの言葉に素直に頷いて一眠りさせていただいたわけだが、朝になって物音がしたからとっさに隠れた次第。その判断は正解で、僕が見つかっていたなら彼女の怪力(だそうだ)でブチのめされていたかもしれない。
なんでも工藤くんの幼なじみ(そして、わりあい良い仲なのだろう、見てからに)の少女は、いきなり消えた彼を心配してやってきたそうだ。本人は少女に、蘭ねーちゃんは外に出てて! と必死に繕った笑顔で言い募る。博士とお話ししていくね、言い残して出ていく彼女の足音が完全に消えてから、工藤くんは僕に出てくるように言った。
ドアとドアとのあいまから這い出ると、前髪をいじる工藤くんの傍による。
「蘭もいるし、脱出すんのは難しいか……安室さんも用事があるだろうし……」
ぶつぶつと言っているのが聞こえて、僕は声を出さずに笑った。特に今日は用事はないが、面白いので黙っておくことにする。
僕を今日中にここから出してくれるつもりらしい名探偵は、僕のことを彼女に話せば芋づる式に自分のこともばれるのを危惧しているだろう。なんとかして僕が出られる道筋を考えている。そのうち意識を戻して、僕を見上げた。
「……僕のことは、不審者とでも言えば良いんじゃないか?」
本を背に僕を見る彼に、にこやかな笑みを向けてやる。あえて、今日は時間があるからここに潜伏していても良いのだとは言わず。
「そうして欲しいんですか」
皮肉に、断定すら含んだ眼差しで返される。通報されたところで何ら問題はない(あるにはあるが、自分のいる組織はある程度融通が聞く)が、面倒だし避けたい。さてどうしようか。
彼を見ていた視線を、思案しつつもうろつかせると、シリーズ物の文庫本が目に入る。ホームズ。モリアーティ教授と長年の戦いの末に滝へと堕ちた男、名探偵と呼ばれた変人。隣に携えた相棒は、落ち着いた医者の、同じく男で、ちょっと不器用な性格の。
……なるほど、相棒か。
「工藤くん、」
「コナンと呼んでください」
「…………コナンくん。君は僕を信用してくれているのかな。それともまだ、誘拐犯だと?」
「いえ、……蘭が来た時点でなにもしなかったんだから、大丈夫かなと。」
蘭は銃弾も文字通り間一髪で避けますけどね。付け足されたにこやかな笑みには戦慄した。
「もし、あなたがタチの悪い犯罪者だっていうなら……放ってはおけませんし」
「なるほど? 自分が首を繋いでおけば安全だと」
僕は首を親指でなぞった。爪が伸びていたためだろう、ぴりりと熱い感覚がした。肌に小さな亀裂が入る。
「さて、あらためて……どうしましょうか」
頬骨を指の背でなぞる、子供らしからぬその子。重厚な椅子を引き寄せると、僕をその向かい側に誘った。
元々は茶色だったはずだが、年を重ねて黒曜になった椅子は、そこに座る子供を現実み無く演出する。
まるで、愛されるためだけに生まれた白磁のラブドールのようだと思う。実質、凶器を孕んだ、優秀なブレインをもつ戦闘人形だとは誰も思うまい。
「……まず、大前提として―――コナンくんは、僕、ひいては公安に協力すること。僕は、コナンくんがもとの姿に戻るのを、……あああと、黒の組織の壊滅だな。それに、手をつけることだ」
「…………いいでしょう。イーブンです」
彼は、即席の暗号(だろう)を、机の引き出しから取り出したコピー紙にさらさら書き連ねる。美しい英・仏語の筆記体がバレエダンスでもするように優美に、書面で躍っている。
それを折り目正しく畳むと、彼の背後の乱歩の一冊に挟んだ。他人に見られても見破られることはないと、知った上での行動だろう。自分と、小さな彼だけの暗号。
「けど、こんな約束をしていいのか? 君は、組織に縛られる人間じゃないだろう」
日本警察のメシア。しかし彼は警察に沿うてはいなかったはず。
手のひらの二倍もある小説を流し読みして、愛らしいご尊顔をこちらに向けた。
「縛るおつもりで?」
あなたにできますか。
そういう意図を溶け込ませた、悪魔か天使かという笑みだった。
ぞくり。肌が粟立って、僕は着ていた服にシワがつくのも恐れず唇の端をあげた。
孤高の名探偵は、その姿を変化させられてさえその魂を失うことはないのだ!
「いいや……公安は、君を一人の協力者として、対等に扱うことを約束しよう」
「そっちこそ、軽率なんじゃありませんか……そんな大切なこと」
「簡単にいっているように見えたなら良かったな。実際簡単なんだよ。それなりの立場にいるからね。
心配しなくても僕の紹介だとすれば疑われはしないさ。もしされても、そのうちに……理解してもらえる」
彼は、工藤新一の面影を十分もった、まろい頬をこてりと倒す。
「そんなにわかんのかな……どーやってごまかすか……」
ぶつぶつ呟いているのは無意識なのか。真相を隠すためには、その無意識の癖さえ矯正せねばならないだろう。
とりあえずは、凪いでいる水面に小石を放ってやる。予想外な提案を。
「君は新一くんに似ている。当たり前だね。それで彼の親類と騙った訳なんだから。……けど、いずれは周りも、君の特異性に気づくだろう。類い希なる際のというのはいつの時代も埋もれられないものだ。捜査現場なんかじゃあ、みんなピリピリしてるからなおさら。だから、」
少しだけ考えるそぶりをする。心の準備をさせるために、と思っていたが、彼の視線の鋭さにそれも必要なかったかと言葉を続けた。
「僕を君の親戚にしてくれ」
「…………っはぁ?!」
目を点にして、声を荒らげる。僕が微笑んだのを見て、ハッと恥ずかしそうに顔を赤らめてから、少しの間考えて―――納得が言ったのか、「ああ。」と頷く。
そうして、僕を観察し始めた。上から下まで。
「じゃあ、安室の『叔父さん』ですね」
今度はこちらが驚かされる番だった。自分の若々しさは、バーボンとして、ゼロとして利用するほどだ。立派に磨かれた武器を、こうも容易く。
やはり、ただものではない。
……しかし。この年とは言えど見た目のいとけない子供におじさんと言われるのは中々、きつい。
「出来れば、お兄さんがいいな」
「実年齢をごまかすのはどうかと思うよ! 透兄さん」
ぴよっと椅子を降りて、僕を通り越してドアを開ける。
呼び名については、妥協してくれたようだ。その上で演技がはじまっている。幼なじみの少女の前でやったときより冷静だからか、はっきりと子供らしい演技。虫も殺さなそうな無邪気さを全面に押し出して。
「ずいぶん演技力があるんだな」
「そうかな。透兄さんもなかなかだとおもうよ?」
「……君はまだ学生だろ」
「うん、小学生」
コナンくんが、いたずらっぽく笑って、彼の父母の話をしてくれる。設定として、知っておかなければいざというときに困るだろうと。
かくして、僕とコナンくんは、かりそめの、血の繋がらないきょうだいとなったのである。
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