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声の出し方を忘れてしまったのだろうか。
声が出ない。
出たところで、なんと言ったらいいのかも分からない。
握り締められた手は熱く、微かに震えている。
真っ直ぐに向けられる瞳をそらしたいのに、囚われてしまったかのように、まばたきすらできない。
「緒方さーん?秋月さーん?」
遠くから柴田の声が聞こえてはっとする。
「呼んでるな…」
声の方を向いた為に目は逸らされ、握り締められていた手も解放された。
「秋月、行くぞ」
そう言って二本のペットボトルを拾い上げ、緒方さんはまるで何事もなかったかのように歩き出した。
ドッ…と汗が流れ落ちる。
離されたはずの手は震え、震えていたのは自分だったのだと気づく。
解放されたはずの目は、緒方さんの背中を追う。
「あ、そうだ!」
くるりと急に振り向かれ、肩がビクリと強張った。
「秋月ちゃんと休んでないだろ?これ飲んで顔洗ってから来い。一年には適当に言っとくから」
そう言ってペットボトルを投げて寄越した。
慌てて受け取ると緒方さんは
「ナイスキャッチ!」
といつもの明るい笑顔を向けて、また歩き出した。
緒方さんの姿が体育館の角を曲がり見えなくなると、カクンと足から力が抜け、崩れ落ちるように尻もちをついてしまった。
(どうしたんだ俺…)
浅く短い呼吸を繰り返す。
心臓は鳴り止まず、手の震えも止まらない。
混乱しているはずの頭の中は真っ白で、口の中はカラカラに乾いている。
なんとか立ち上がり、足を引きずるように歩く。
体育館脇の水道の蛇口をひねる。
小さな空気の粒を含んだ水が勢いよく、真っ直ぐに流れ出た。
芝生まみれになった手とペットボトルを洗い、言われた通りに顔を洗って、濡れたペットボトル中身を流し込む。
大きく深呼吸をすると、いくらか頭がすっきりとする。
(戻らないと…)
頬を叩き、目をつむる。
もう一度ゆっくりと深呼吸。
手が震えていないことを確認して、みんなの元へ戻る。
「秋月さん!」
柴田が駆け寄ってきた。
「監督と二人で話し合いなんて、なんかかっこいいですね!」
(……監督と話し合い…?ああ…)
緒方さんはそうみんなに説明してくれたのだろう。
「そんな大した話はしてないよ」
そう答えたところで、ふとマットの脇に置かれた一本のペットボトルが目についた。
芝生にまみれたそれは、封が開けられた形跡がない。
(緒方さん…自分だって休憩してないんじゃ…)
きゅっと胸が締め付けられるような、鈍い痛みを感じた。
(…なんだ?)
胸元を握り締めてみるも、痛みの意味も正体も分からない。
「秋月さん!次俺の番なんで見てもらってもいいですか?」
「うん。いいよ」
(とにかく今は集中しないと)
いくらかぎこちなさの抜けた柴田に、腕の振り上げるタイミングを教える。
緒方さんも身振り手振り、他の一年生を指導している。
しばらくは緒方さんの様子が気になって仕方なかったが、途中、芝生まみれのペットボトルを口にしている姿を見てからは、だんだんと先程の出来事は頭の隅に追いやられ、高跳びに集中していった。
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