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いぬ
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その細い指で 指で、形をなぞって。
示された指は、言われた通りに輪郭を辿っていく。たどたどしく下着の上からなぞられた感触にニィと笑った。それを見て、地べたに仰向けで寝転がった犬飼の上に跨がっていた修は静かに唾を嚥下した。
冷たいリノリウムの床、大小さまざまな資料で埋まり見えない壁。4メートル四方、正方形の倉庫。そこには、鉄製の本棚と住人である資料たちの他に、ふたりの人間が居座っていた。
今日は何処まで冒険しよっか?
偶然廊下ですれ違ったときの、そんな、犬飼のふざけた一言から、人気の多い廊下の一角に設けられた部屋に飛び込んだ二人。
各隊長、隊員たちには『犬飼先輩に/メガネくんに助けを呼ばれた』なんて嘘に程近いそれをつき、もつれあうように服を脱いで。
「ん……っ、ふふ。きもちいいね」
「犬飼先輩、そろそろ、」
ぶるり、震えた修は、殺風景な資料庫とは裏腹に、鮮やかな皮膚を曝し艶然と笑う。犬飼は、肌を焼け石で押されるように暑さとうすら寒さを同時に感じて、ピンと張った糸を釣り上げるように唇を歪ませた。
「お望み通りに、してあげるね」
「っハぁ、ん、ンッ!」
重ねられた身体はほぼ一緒に、びくりびくりと跳ね、欲を吐き出しながら果てる。いつもどおりに。
「メガネくん、うまくなったねぇ?」
コソ練した? と、続けることはできなかった。犬飼は、その言葉を彼に伝えることを最近とても嫌う。理由はわかりきっていて、でも、意識したくもない。
はだけたシャツを調え着直している修が、犬飼の魂胆などわかりもしないという風に首をかしげた。それを憎らしく思いながらも、犬飼はとうに乾いた隊服を――さきほどまで夕立が降っていたのだ――着てから、壁より資料を取り出して、修に渡す。
「これは?」
「言い訳、必要じゃないの? 俺はどうとでもなるんだけどさ」
嘘つき。と、修をあいする白い隊員に罵られたことは犬飼の記憶に新しかった。修と犬飼との関係に余計な詮索をされぬよう、打てる手は打っておかなければ。
ボーダーが独自に調べた新聞記事のファイリングされたそれを、修はパラパラとめくり、成る程。とつぶやく。お気に召したようだ。
そうして埃なんかをスラックスやネルシャツから払うと、壁の本棚に重心を傾け立った犬飼を素通りしていこうとした。
「待って、メガネくん」
犬飼の蚊の泣くような声は思いの外四方に響いた。修がかけたドアノブの手のひらはすんでのところで止まる。金属特有のキィという音が共に止まり、犬飼はもう一度、自分に背を向けた修の名を読んだ。
実のところ、犬飼と修の関係というのはそこまでハッキリとはしていない。恋人というには遠すぎて、友人というには、爛れすぎた。
「ねぇ待って、」
釘抜きで釘を挟むように、修の痩せた腕をつかんだ。眼鏡の内側から寄越される視線には、恋の情熱は感じられず、犬飼は、こめかみがジクジクと痛むような苦しさを味わうだけ。
やっぱり怖いな。などと内心うそぶきながら、その手を引っ張って自分のほうに引き寄せる。
軽い躯はいとも容易く犬飼へと向かい、近づき、くっつきそうになるふたつの唇。けれど、目を見開いた修はキスを拒んだ。歯をくいしばり、首を振って離れようとする彼に、ああまたか、と安堵するような悔しいような気持ちを抱く。犬飼から修へのキスが一度も成功したことがないのは、ふたりの関係を明確に表す線引きと言えた。
「行きますよ。……あまり籠っていると怪しまれます」
「……あーぁ、メガネくんったらつれないなぁ」
瀋む夕日が資料庫の小さな格子窓から漏入っていた。それに染まった修と犬飼は、するりと視線を交わせ、反らして、扉から出る。そして、左右に別れて歩きだした。
てんで晴れない空が、渡り廊下に重苦しい影を落としていた。うつむいて歩く犬飼は、蛍光灯の淡い光を背にして影法師が廊下に長く映って揺れているのに気づきもしない。
かわいい花を踏み潰しちゃったなぁ。
ぼんやりと少女の顔を思い浮かべる。一個下の後輩、それも男に思い人を、その心を奪われる気持ちとはどんなものだろうか? 昼休み、ベタに校舎裏へ犬飼を呼び出し、ほどほどの自信をたたえながら告白をした少女は。
「ごめんね、好きな人がいるんだ」
犬飼の無情な一言に、泣いてはいなかったか。付いてきていた親切な女生徒たち――おそらく友人だろう――に、慰められていたかもしれない。
なんにせよ、すべてが曖昧で、少女は犬飼の恋心どころか興味も関心も得られずに失恋したのだ。
「同情ってやつ? はは、笑える」
それにはやるせない気持ちすら浮かんでくる。のだが、それでも犬飼が少女を好きになる余剰は一ミリたりともない。彼がむなしく思っているのは、名も知らぬ少女に重ねた自分の恋なのだから。
放課後の空き教室で、犬飼は携帯端末を弄りながら時間を潰していた。ぷらりぷらり、揺らされた足は時折机の脚に引っ掛かる。
『ねぇ早く来てよ』
単直なメールを送ると、座った椅子に背中を預け、そのままぐだりと後ろ手を組んで枕にして、目をつむった。修だけに設定した着信音は鳴らない。
代わりに、木々の影が更紗のようにさざめき、待ち人の蓬莱を告げた。がらり、立て付けの悪い引き戸が開く。
犬飼が、修とのこの幻じみた関係を始めたとき。その時に思っていたことは、単純に、その、細い声を声をもっと、もっと聴かせてほしい。それだけだった。
それが今は。
空き教室に透き間風が入り込み、二人の露わになった肌をするすると冷やす。
フゥ、と犬飼は息をつき、考えないようにしようと目の前の肢体に集中する。目を耳を、触覚を食覚を――研ぎ澄まして。重なる影と、荒くなる吐息は容易に犬飼を煽った。
「……今日は遅かったね」
「ぁ、ふ……お、そかった? ……んっ、ぁそう、でしたか。すみません」
謝りの言葉がほしい訳じゃない。
犬飼は、自分がつけたのとは違う種類の、歯形にも似たキスマークを上からなぞった。
「んぅっ、っは、いぬかぃせんぱ、」
「メガネくん、きもちいい?」
「はぃ」
「……そ。そりゃあ、良かった」
知っている。この歯形が、誰のものかなんてわかっている。彼とはもっとシてるだなんて、気が狂いそう――犬飼の心は嫉妬に燃え、逆に興奮もしていた。
一途に修を思うことになろうとも、享楽的な根本は全く変わっていなかった。ぞわぞわ心臓をわし掴まれ揉まれるような感覚と、現実で乱れ犬飼の名を呼ぶ修の赤い頬、身体。心の内とリアルとのギャップは犬飼を魅了してやまない。
質感の柔らかい木の床、修の背後には同じく木製の学習机がずらりと固められていた。事を終えあらかたその場を片付けたら、その一つに注目してみる。
修の持っていたポケットティッシュが空っぽになって捨て置かれた上板に、近づいて見てはじめてわかった落書きの跡。元々あったのであろう古い傷痕(三角形と、その真ん中に一本線が引っ張ってある単純な図形)の左右に、誰かは知らぬが男女らしい名前。よくある男の名と、隣り合わせになったのは花をかたどった女らしい名前だった。
「何をみてるんですか?」
見れば見るほどお似合いに見えてくる平凡なカップルの痕跡に、着替え終わった修も気付いた。
「相合い傘……ですか。ぼくはこういうのはやらないんですが、クラスの娘がやっていたような気もしますね」
「へぇ。まぁメガネくんは真面目だし、机に傷つけたりなんかしないよねぇ」
すると、彼は不思議そうに首を捻って犬飼を見てから、否定の言葉を切り出した。
いえ。それは。
「え、なに。メガネくん、こういうの書くの」
正直に言うなら意外であった。犬飼はこの少年が高校生になって自分と同じ高校に入っても、なんだかこども特有のあどけなさをもっていると――色情にまみれた生活をしているというのに――思っていたのだ。もしくは、凄烈なほどに清い心を。
「もちろん、公共のものに傷をつけるのはいけないと思いますが、そういうのは伝統のようなもので、いまさら、でしょう。
だから、そういうわけではなくて……」
「なくて?」
「ぼくの好きな人は女の子じゃないですから。こんなところに書いてしまったら、迷惑になってしまいます」
がつん。
脳を直接揺さぶられたような痛みを伴って、犬飼の心は揺れた。
机を元の位置に戻しながら犬飼を見やる修。彼の硝子のレンズには自分が写っているというのに、瞳は、自分を見ていない。誰か、他のものを――――『女の子じゃない』誰かを。
「……はは、そう」
「どうか……しましたか?」
夕焼けが迫りそろそろ終了のチャイムが鳴ろうとしている。校庭には部活をする若人すらもういない。静まり返った校舎に、二人ぶんの息が響いている。
修の今を、独占しているのは犬飼だ。だというのに、思わせ振りに彼が告げる相手は、犬飼ではないのだ。
女の子じゃない。
相手は男で、自分と同じように彼の体を開いていて、修の、週の半分ずつを犬飼と分けている。同じ男だ。
犬飼は、修が、その好きな人と自分との関係に圧倒的な違いを設けているのを知っていた。こんな、些細な差で負けてしまうのか。半ば絶望したような足取りで、犬飼に帰宅を促す修を見つめる。
「メガネくんさ、好きな人がいるんだよね」
「ええ、はい」
せめて傷を残してやりたい。
犬飼の思いはそれだけだった。
「……二番目でいいよ」
烏の鳴き声がやけに苦しげで切なげだった。窓枠が秋気にかたかたと震えている。
自分は二番目で良い。なんて本当は嘘で。けれど、修が不意を突かれたようにその身を固まらせるのが愉快で、犬飼はなおも嘘をついた。はっきりと、犬飼が二番目であることを彼に思い知らせることで、罪悪感でもなんでも抱けば良いと思った。
昼休み。物理室に隣接した準備室には、あらゆる物が錯乱している。
青い、生臭いプールの匂い。そこだけ整然とした棚の薬品たちから漏れたものだろう。墨を塗りたくった実験台、机には飲みかけのカップのコーヒーや、小テストの解答がずらりと並べられていたり。床にそれらが落ちていたときはさすがに犬飼でも拾ってあげた。
準備室というだけあって狭いが、日の当たりの良いこの場所は、先生方の休憩所兼高校生たちの溜まり場となっている。
犬飼は、よくここでドリップされたコーヒーを、学年主任の女性教師(年齢層はやや高めだが)からご馳走されていた。そのおかげで、自由に部屋を使って良いとのお達しさえ出ている。
今日は修に会える日だったが、放課後まで待てなくて、今すぐ来てという旨のメールを送った。ここの場所を教え、待っているとの言葉さえ添えて。
それから数分経つ。返事は返ってきていない。犬飼は背中の無い、丸く小さい椅子に腰かけたまま目を閉じた。そうすると聞こえてくるのはくぐもった矯声。
「……ンッ……あっ……あ、ん、ぅ」
「…修……っ、……」
「んん! っ、……ふ……ぁ」
その小ささから、おおよそこの準備室に面する中庭の、植え込み辺りで居るのだろうと推しはかれた。犬飼は、その声がギリギリ届くか届かないかの瀬戸際で、頭を抱えて机に突っ伏した。
ふわふわが自慢の髪が萎んでしまっても気にしなかった。この髪を気に入って撫でてくれる修は、中庭で情に耽っている。同じ情事でも、彼が今しているのと、自分としているのとでは全く違うのだと、分かっていた。
机で頭があらかた冷えたら、そろりそろり窓に近付いて中庭のほうを見てみる。植え込みに隠れてはいるが、つながった躯どうしが陽炎のようにゆらめいている。
「……まぶしい」
犬飼には、それがどうにもきらきらと輝いて見えた。その二人は両方とも黒々とした髪をしていて、学ランは規定のもので、光る部分なんて無いって言うのに。
「いや、三雲くんの目は違うかぁ」
あの目は吸い込まれるように美しい。ああそういえば、相手の――――影浦雅人の眼も、金色にぎらついてある種の、野粗なうつくしさを持っているのだった。
窓枠に手をかけて目一杯ピントを合わせてみれば、修と影浦とが噛みつくようなキスをしているのが、見えてしまう。
「……何度目かな、二回、三回? いや、もっとだ」
この光景を見たのは。
火が出るぐらい激しく、影浦が修に被さるのを。
見るたびに胸が息苦しいほど甘美でいて、悲痛な気分に捉えられる。その痛みが、修がどう思っているにしろ、彼には自分なんてただのおかしな玩具なのだという事実を突き付ける。
窓の向こうで修は影浦の上にまたがって、影浦の硬くぼさぼさの髪を手にとっている。そうして、いとおしむように髪を撫でてから、手際よく自分の胸の内に導いた。影浦は馴らされた獣のようにその愛情を受け取りながら、吸い込まれるように、何の抵抗もなく修に身を預けた。愛慾だけでない、静かな、ゆるやかな情が見える。
修と影浦は、息を整えてから、複雑な図形を宙に描くようにゆっくり半身を動かし、身をくねらせた。黒いまっすぐな黒髪が、鞭を振るうように影浦の頭上でしなやかに揺れた。
犬飼を、修が撫でてくれることはあった。彼は犬飼の髪が好きなようだったし。けれど、今のように、包むような愛を向けてくれることはなかった。
お互いに快楽だけを貪っているんだと、気づいたのはいつだったろう。犬飼の気持ちには答えられないが、体を開くことには抵抗の無い修。彼が、犬飼を憐れむがごとく。
愛じゃない、恋でもない。修が、犬飼に向けているのはこどもの我が儘に付き合ってやるときのような優しいもの。
「三雲くんのアレは、平等に、全員に、与えられるものなんだ……それこそ、俺以外でも、頼まれればああやって」
犬飼の他に、それを望むものが居なかっただけ。
好きな人、影浦が、修の蛮行を許す懐の深さと、何をしても修が自身から離れないという確信をもっているだけ。
それならいっそ、断ってほしかった。そう言えないのは、犬飼が弱いからだ。修の望むがままに関係を壊してほしいと言えないのは。
「ばかだ、ほんとに」
滲んだ声は、散乱とした準備室に小さく落ちる。辛いのに、苦しいのに、『好きな人』にだけ与えられる嬌声を聞きたくて仕方がない。
昼休みの終わりを告げるチャイムがひとしく、犬飼と、かの二人に降り注ぐ。それを無視してまぶたを閉じると、視界は血の通った、沈む夕日の色に染まった。
「きみを愛してるよ」
コーヒーカップの冷めた液体だけがちらちらと揺れていた。戯れに口に出してみたことばになにかを返すものは居らず。
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