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何度か訪れたマンションのエントランスをくぐり、中央に設置されたオートロックの前に立つ。朧な記憶を頼りに、部屋番号である数字を打ち込んだ。
二分ほど待ったが、応答はない。
諦めきれず、何度か呼出をしてみるが、反応が返ってくることはなかった。
家に帰っていないのだろうか。それとも……自分と会う気がないのか、どちらかだろう。
肩を下げて、声の返ってこないオートロックに視線を落とした。深く、長いため息が零れる。
自分の気持ちにようやく素直になろうと決めたのに、そう上手くいかないものだ。ただ単純に帰っていないだけかもしれないけれど、もう会ってはくれないのかもしれない。
ともかく斎に会って、きちんと話がしたい。自分の気持ちを、素直な気持ちを伝えたい。
たとえそれが、斎に受け入れてもらえなくても──。
ため息を短く吐き、斎の帰りを待つことに決める。
マンションの敷地にある低木が植えられた花壇の縁に腰を下ろした。突風がびゅうと吹いて耳元で乾いた葉がさわさわと揺れる。
気が急いて忘れていたけれど、芯の冷えるような寒さが襲う。アウターは祐也の家に置いてきたままだった。
トレーナーの袖口に、冷えすぎて少し痛む指をしまい、口元に寄せて息を吹きかける。多少はマシだ。かじかむ指先がじんわりと温かくなる。それでもやはり小手先の誤魔化しにしかならなかったようで、ガタガタと身体が震えだした。
腹がひくりと痙攣したのち、首裏まで寒さが拡がっていく。
その時だった。一台の白い車が、地下駐車場に入るのが端目に映る。
「あれは……」
斎の車だ。そう認識するが早いか、すでに駆けだしていた。
追いかけるように地下駐車場へ続くと、ちょうど車から降りたところだったのだろう。すらりとした長身が際立つ斎の姿がそこにあった。心臓がうるさく跳ねる。
「斎……っ!」
上擦った声が出た。その声を辿るように視線が重なると、認識した途端に鋭いものに変化する。
胸が傷んだが、いまの自分に向けられる眸として相応しいものだと納得させる。
それでも立ち止まってくれた斎にややほっとして、そばに駆け寄った。
「斎、さっきは……ごめん。俺、なにも言えなくて……」
「……別に構わない。それより何だその格好は。上着はどうした」
「……祐也の家に、忘れた」
一拍空いてから、「そうか」と短い返事が返ってくる。
目前の斎が、グレーのロングコートを脱ぎだした。
そのコートが凪の肩に掛けられる。ずしりとしたウールの重み。また、甘やかな品のいい香水の香りに包まれた。背中に感じる人肌の名残は、まるで斎に抱き締められているような錯覚を覚えて───。
抱きしめられたい……そう思った。
なのに、すぐに冷たい言葉が頭上に降り注ぐ。
「それを着て帰れ」
一切声音を変えることなく斎は端的に告げる。
心が、痛い。ナイフが心臓に突き刺さったみたいに胸が傷んだ。
ふるふると力強く首を横に振る。ここで帰るわけにはいかない。まだ何も伝えていない。だから、必死に首を横に振った。
その様子を見て、斎が呆れたように溜息を零した。この溜息は、どういう意味だろう。面倒だと思われているのだろうか。でも、それでもいい。斎とこのまま終わってしまうよりは、面倒だと思われたほうが、全然いい。
長い沈黙ののち「少し付き合え」という予想外の言葉が降ってきた。
その言葉に、俯いていた顔をあげ、目を丸くする。
斎は早々に踵を返し、車に乗り込んでいる。ハッとして、あとを追いかけるように車に乗り込んだ。助手席に座るか、後部座席に座るか悩んだが、少しでも斎の近くに居たくて、助手席に座ることにした。ここに座るのは初めてだ。
シートベルトをして、左に座る斎を横目で見る。
しばらく眺めてみたけれど、人形のように整った横顔があるだけで、榛色の眸が自分に向けられることはない。
こっちを見てもらえたら、少しは安心できる気がしたのに。斎の傍に居られる可能性が少しでも残されている気がして、その眸に縋りたかった。実感が欲しかった。
期待したけれど願いは虚しく、すぐに車は発進して、マンションから遠ざかっていく。
ビルの隙間からどんよりと重い曇空が顔を出す。今にも雪が降り出しそうだ。高速で流れていく景色をぼんやりと眺めて、静かな空間に身を任せる。こんなときだというのに、斎といる空間は安らげた。ゆるやかに流れる時間の心地良さに、薄い瞼をゆっくりと閉ざす。心地良い波に揺られているようで、しばらくその波に浸ってから、瞼を開いた。ふと視線を感じて、糸を辿るようにバックミラーを見やる。
心臓がどくんと大きく脈打った。
斎が、じっと自分を見ていたのだ。切れ長の榛色の眸に籠る、熱を帯びた眼光。
──身体がじわりと、熱くなった。
待ち侘びていた視線に、自分でも浮かれているのが手に取るようにわかる。いつもなら恥ずかしくて、すぐに目を逸らすのだけど、いまはこの眸が自分に向けられていることが嬉しくて、ひとときも逸らしたくない。
そうしているうちに、なにもなかったかのように眸が逸らされた───ひどく、寂しくなった。
祐也と別れてからというもの、斎を好きだという感情がはっきりとした輪郭をもって主張している。
名残惜しく、ミラー越しに斎をじっと見つめたあと、ゆるりと視線を右窓に移した。
車が静かに走り続けてから、だいぶ経ったと思う。都会の喧騒は影もなく、どちらかといえば田舎を感じさせる風景へと移り変わっていた。防波堤が道路沿いに続き、先までの曇天に青暗さが色足されたような空だけが目に映る。もうすぐ、夕刻だ。
どこへ向かっているのだろう。考えていた矢先、車が減速する。少し拓けた路肩に停止すると、シートベルトを外した斎が外へ出ていく。凪もまた、斎を追うように外に出た。びゅうっと乾いた空気が吹きつける。
「さむ……」
斎に借りたロングコートに身体をしまい込む。目前の斎は、白いタートルネックのニットに、グレーのスラックスを穿いた、この寒さには明らかに心許ない格好なのにもかかわらず、寒さを一切感じさせない様子で歩き進めている。少し距離のある、広い背中を小走りで追いかける。
下へ続くコンクリートの階段が現れた。斎が中段辺りまで降りたのを追いかけようとして、ふと目に飛び込んできた景色を見て、足が止まった。
───海だ。
波音と潮の香りで、何となく海だと察してはいたが、いざ目にするとぐっと心臓を掴まれたようだった。
厚い雲は真っ青に染まり、海はくすんだ濃藍が地平線まで続く───それはあまりに淋しげに見えて。
何故だかわからないけれど、目に映る景色そのものが、斎に似ている気がした。
中程に腰を据えた斎の左隣に、同じようにして座る。寒空の下、波の音だけが二人を包み込んだ。この世界に二人だけが取り残されたようだった。
長い沈黙ののち、先に沈黙を破ったのは、俺だった。
「……斎、寒いだろ。コート、返すよ」
叩きつけるような吹き荒れる風に、斎のことが心配になった。コートに手をかけて脱ごうとすると、すぐに「いい」と低い声が返ってくる。
「でも」と言葉を足そうとしたとき、凪はその続きを呑み込んだ。
心ここに在らずといった表情で、遠くを見つめていたからだ。
触れたら粉々になって、この吹き荒れる風に流されてしまうのではないか。現実では有り得ないとわかっていても、そんな危うさがひしひしと伝わってくる。
いつもの俺様で、自己中な斎はそこにはいない。
「斎、俺……」
消えてしまいそうな斎を引き留めるように、謝罪の言葉を紡ごうと、唇を震わせたとき。遮るようにして言葉が重なる。
「俺は──母親が嫌いだった」
突如、薄めの唇から紡がれる告白に目を見開く。
「母親といっても一度もあいつのことを母親だと思ったことはないが」
そう自嘲した斎の眸が暗く翳っていく。
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