アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
淡雪の魔性
-
車を横着けして見上げ、驚いた。
初めて目にする野川のマンションは、とても綺麗で、何というか、いかにもマイホームな雰囲気なのである。
聞けば、6年前結婚した時、新居として購入した家だそうだ。小夜子が実家に戻ったため、そのまま住んでいるという事だった。
野川自身は3年間の結婚生活で、この家に彼女との思い出はそれほど無いらしく、本当に酷い男ですよね、などと言って自嘲した。
対して黒木は、何と言って良いか分からず、ただ野川をそこまで酷いとも思えなかった。
と言うのも、野川は元々結婚生活には向いていなさそうだからだ。
自分はまだ見たことはないが、研究に没頭し出すと、寝食も忘れて研究室に住んでしまうこともあると、石倉に聞いたことがある。
研究第一の野川に、所謂‘普通の’結婚生活が難しいことは容易に想像できた。
…隣をそっと窺えば。
外の灯を映してうるうると揺らめく瞳も同じく、物言いた気にこちらを見上げていた。
本当に心臓に悪い。
それだけで、こちらは釘付けになってしまうというのに。
何とか顔の筋肉を動かして口角を上げ目尻を下げてはみたが、笑顔がぎこちないのはどうしようもない。
ロビーで野川を見つけてからここまで、余りに忙しく浮き沈みを繰り返した黒木の心は、完全にオーバーロード状態になっていた。
「あの、ありがとうございました。今日は助かりました。でも…、貴方に送迎なんてさせてしまって…。…本当に、恐縮です。」
お互い最後は必要以上話さずいた為、車内は何となく気まずい雰囲気である。
野川がいつもより更に控え目な声で言うのを、とんでもない、と間に合わせの笑顔で受けた。
「車を運転するのは好きですから、気になさらないで下さい。」
少しでも間を置くため車を降り、助手席に回ってドアを開ける。
「お疲れ様でした。今日は、…色々ありましたし、どうかゆっくり休んでください。」
恐れ入ります、と車を降りる野川からも力の抜けた笑顔が返って来た。
「そうですね。今日は確かに、疲れました。」
今、きっと互いに全く同じ思いで苦笑を浮かべている。
…ふと、また視線が重なり合った。
黒木は、いつもの如くその深い漆黒に恍惚と目を奪われ、瞳の奥にいつもあるはずの、自分に対する静かで優しい親しみの情を探した。
瞬間、驚きに息を止めた。
その目は、今まで見たどの目とも違っている。
何かそこに、危うい色を、感じた気がしたのだ。
腰の辺りから腹の底を通り抜ける様に、じわりと熱がせり上がってくるのが分かった。
しばらく無言で見つめ合い、知らずに顔を寄せ、瞳の奥のさらに向こうへとジッと目を凝らす。
“バン!”
車のドアが勢いよく閉まる音がしたのは、その時だった。
ビクッと肩を揺らし目をやれば、進行方向の少し先に停まっていたバーガンディのコンパクトカーから、人が降りて来たところで。
それが誰か分かった時、黒木は、えっ、と声を上げそうになって、慌てて唇を引き結んだ。
まるで極上の夢から覚めたように胸を痛めながらも、かろうじて、目の前に立って会釈したその人物にこちらも黙礼を返した。
「小夜子…?」
驚いた声で。
愛しい唇からその名が零れ、黒木は、自らの心に大きな亀裂が走る音を聞いた気がした。
自分が真っ直ぐ立っているのかわからなくなって、車のルーフを頼った。
もうやめると言ったのに何故? 何をしに? これから家へ?
疑問は次々浮かび、だが、自分には何も無い。
来るなとも、帰せとも、家に入れるなとも、そんな事を心で思う資格も、それを得る権利すら…。
「黒木先生…?」
遠慮がちな呼びかけにハッとして、微笑んだ。
「では、私はこれで、失礼します。今日は、…出来るだけ早く休んで下さい。」
もう一度小夜子に会釈をし、表情を保っていられるうちに車に戻った。
ノックされ、仕方なく下ろした窓から、野川がもう一度礼を言った。気をつけて帰ってください、とも、お疲れ様でした、とも…。
精一杯優しく微笑んで野川と別れ、後はどこをどう走ったのか…。
何とか、大学へ戻る途中の適当なコンビニに車を停め、紙のカップに注がれたコーヒーで体だけでも温まると、やっと少し緊張が和らいだ気がした。
ここまでおよそ10分弱、放心して殆ど無意識下だったにも拘らず、道路交通法を遵守した自分を褒めてやりたかった。
「野川先生…。」
また、あの鈴の鳴る様な美しい声で、“由仁さん”と…?
一体何を話しているのだろう?
二人で新婚生活を送ったというあの家で…?
「…!」
ドロドロとしたドス黒い感情が次から次へと湧いて肺を埋めていく。
3月初旬の日曜、時刻は午後8時を回った。
彼女はいつからあそこに車を停めて待っていたのだろう。
実のところ、野川は彼女を家の中には入れないだろうという気がしている。
あの二人はもう終わっているのだ。少なくとも野川の中では。
小夜子がどんなに望んでも、きっとその決意は変えられないに違いない。そう考えると、彼女の分まで胸が疼くようだった。
ただ、黒木が今思い悩むべきは何も小夜子の事ばかりではない。
今日、口を滑らせてしまった我が身を寒々と省みて派手に溜め息を吐く。
“姫”と言う気持ちが分からなくも無いとか、“淡雪のような人”だとか…。
もう殆ど愛の告白ではないか。
…野川の言葉にも振り回された。
男に好きだと言われてもちっとも嬉しくない、などと言って置いて、貴方の様な素敵な人に言われたら揺れたかも知れない、とか何とか…。
一体何なんだ。
そもそも、こんなにも傷をつけないように気を配り、大切に大切に守っている人を、國廣の様なセクハラ教授に無遠慮に触られ、簡単に傷つけられてしまうなんて…。
あゝ、頭の中がグチャグチャだ。
シートに背を投げ、目を閉じて、苛々と髪を掻き上げた。
自分が今、泣きたいのか、怒りたいのか、そんなことすらわからなくなっている。
助手席に好きな人の呼吸を感じている間中、自らその激情の渦に呑まれてしまいそうで黒木はひたすら苦しく、恐ろしかった。
最後はもう口を噤んでいないと、思いが止めどなく溢れ出し、表情も声も言葉も、行動までもが乱れてしまいそうで。
そうなれば、きっと腰に手を回すくらいでは済まない。
あんな最低な男と同列以下に並ぶなんて絶対自分を許せない、その思いだけで理性を繋ぎ止めていたのだ。
それなのに、あの目。
あの時、野川の瞳に浮かび上がった危うい色。
いつもは目が合うと直ぐに居心地悪そうに逸らしてしまうのに、あんな風に見つめ返されたら、自分は…。
小夜子が車から出て来るタイミングが、あと少しでも遅ければ、きっと口付けを止められなかった。
…野川の持つ魔性に、どれだけ翻弄されればいいのだろう。
手に入らないと分かっているのに、微かな希望でもまだ必死に拾い集めようとする貪欲な自分。
自分のものにしたい、などと…!
簡単に口にしないで欲しい。
ずっと恋をしていた、という國廣の、意外にまともな告白に、神経を逆撫でされた気持ちになり、奥歯をギリ、と噛み締めた。
自分は告げられないでいて、寝ている野川の唇を掠め奪った分際で、ある意味正々堂々と恋心を打ち明けた國廣に、何を言えると言うのだろう。
最低なのは自分の方だ。
それでもそっと中指で唇を辿る。
そこに、あの時触れた感触を探した。
一人きりで作った思い出を、一人大切に抱き締めているとは。
なんて自分勝手なのだろう。
ーー京都行きを楽しみにしています。
別れ際の野川の言葉をもう一つ思い出しながら目を伏せる。
…これまでは、今の位置がベストな距離だと信じていた。
どうする。
どうしたい。
どうすればいい。
吊り橋は揺れ、切れるのは時間の問題だ。
これ以上なく大切な二人の関係が、いよいよ破綻に向かって加速し始めている。
黒木は身を削られる様な焦燥感に駆られて、きつく眉を寄せ、目を左右に迷わす。
行くか。
留まるか。
二つの心が鬩ぎ合っている。
見るともなくルーフを仰ぎ見て、そこに浮かんだ優しい微笑みを直視できず、フロントガラスの向こうに意識を逸らした。
此の期に及んでもなお、この想いを棄てられないということだけはやけに心に鮮やかで。
愛しています、野川先生…。
声には出せない鮮烈な想いを、心で密かに、祈る様に呟いた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
37 / 86