アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
京都文化博物館
-
規模によるが、博物館や美術館を隅々回るのは、いつも一日仕事だ。
大体はいつも朝から入って、昼食は勿論、閉館時間までそこにいることになり、状況が許せば翌日にもう一度回りたい、となる。それでも常設展示までは追いつかないことも多い。
開館は午前10時。今回目的地はここだけだし、それを野川が楽しみにしているとあって、最も近いビジネスホテルと、朝早めの新幹線を予約した。
新幹線の中でも。また、ホテルに荷物を預けてからも。
ここに並ぶであろう古写本、古筆について語り続け、以前に見に行った時の感想なども延々と話し合っていたくせに、開館と同時に入っていざ展示を前にした後は、二人とももう黙り込み、時々一言二言、言葉を交わす以外は、2時間近くもただ静かに見入った。
ところがそこへ…先程は邪魔が入った。
30代くらいの女性二人に声を掛けられ、解説を頼まれたのだ。
野川は、嫌な顔もせず、見知らぬ相手に向けて丁寧な説明をしていて、彼女らに辟易していた筈の自分までもが、途中からその滔々たる解説に惚れ惚れして、得した気分になってしまった。
しかし、結局はナンパ目的だったのだろう二人の根気は10分と保たず、お礼もそこそこに、サッサと先へ進んで行った。
…野川本人はどう思っているか知らないが、一人は明らかに野川狙いだったと思う。
邪魔された上に余りに失礼な態度をとられ、腹が立って仕方無かったが、当の野川は、まぁまぁ、と言いながら優しく笑った。
「さっきの方々には、少し意地悪をし過ぎました。」
「…え? あ…、それじゃ…。」
わざと専門的な事を…。
「いつも通りの自分を隠さなかっただけなんですが。」
内緒だと言う様に、人差し指を口元にそっと当てる仕草と流し目が、いたずらっぽいのに色めいて、目が眩みそうになった。
「…なるほど。」
何もなかった様にまた順路を進み始める野川の背を、鈍い痛みと共に目で追い掛ける。
自分と同じ理由で追い払ってくれたのなら、どんなにか良かっただろう、と思いながらほんの一瞬眉を顰めて。
「あ…。定家筆の、『古今集』の写本ですね。今回は運良く後半展示で嬉しいです。」
前回は見られなかったので…、と野川が、目の前の展示に目を奪われつつ零した。
「あゝ…、本当ですね。」
肩を並べてうっとりと眺める。
藤原定家。日本の文学史上で、その存在は燦然と輝く恒星のようなものだ。その大いなる存在が、筆を執り、ここにある料紙に墨を走らせ…。
そう考えただけでふわふわと心が浮き立った。
今日はこんな調子で直ぐに顔がだらしなく緩んで困る…。
「…? 」
また、だ。
ここへ来てから、やたらと野川の視線を感じる。
その視線がどういう意味のものか分からず落ち着かないというのもあるが、それよりも、野川が、楽しみにしていたはずの展覧会に集中できていない様子であることが、気になって仕方なかった。
「…。」
また。…何がそんなに気にかかるのだろう。
何か言いたそうなのに、目を合わせようとすると逸らしてしまう。
…これは、最後まで知らぬふりで通せそうにない。
休憩を口実にベンチを勧めて、二人で掛けながら、おずおずと切り出した。
「私と一緒で気が散るという事でしたら、…別々に回って、後で合流することにしましょうか…?」
「え…っ?」
野川が、絶句して黒木を見つめた。
その揺らめく瞳を見ていられず、膝に置いた手元に目を遣る。
自分で言ってはみたものの、せっかく二人で来たのだから、できれば別々は避けたい。
胸が音を立てそうな程軋んでいるが、しかし、野川が集中出来ないのが自分のせいであるとしたら、それはそれでとても辛い事だった。
「あ…、貴方がそう言うなら…、そうしましょう。」
声が僅か動揺しているように聞こえて、反射的に向き直った。
そして思わず首を傾げる。
…何度も瞬きする瞳がやけに悲し気に見えた。
「えーっと…、いえ…。」
…どういうことか、理解が追いつかないが、一先ず、別行動を取りたがっているわけでは無さそうだと分かって、ほっとした。
仕方なく言い出した訳を説明すると、野川は心底意外そうに目を丸くした。
「すみません、そういうことではありません。これは…学生の頃からの癖で…。」
そう言って、目を伏せる。
野川曰く、こういう所に二人以上で来ると、大抵同行者を退屈させてしまい、苦情を言われるか、最終的には別行動になってしまうため、余程の理由でも無い限り一人で来るようにしているのだとか。
「なるほど…。」
やっと肩の力を抜いた。
「つまり、私が本当に楽しんでいるかどうか、気にしてくださったという事ですか?」
「…すみません、顔色を窺ったりして。」
まさか自分のためだったとは。
自己嫌悪からか項垂れる野川の姿に、胸が一杯になる。
「高校までは、早坂が色々フォローしてくれたんですが。」
その言葉で一気に現実に引き戻された。
早坂、という名には憶えがある。野川がいつか昼食前に服用していた薬の袋に、たしか‘早坂医院’とあった。
野川の主治医で親友だという、忘れもしない例の…、電話の相手。
あの時電話に向けていた優しい笑顔を思い出して、胸の奥がジリジリと焦げる感覚がした。
「私といる時まで、そんな心配は要りませんよ。」
努めて柔らかく言って、俯いた横顔から視線を外した。
今自分はどんな顔をしているだろう。
優しい微笑みは、どうやって作れば良いんだったか…。
目の前の人が愛しくも、憎らしくてたまらなかった。
与えられる幸せも苦しみも全てが綯交ぜに、ドッと湧き上がる胸の痛みに変わる。
もう隠しておく自信がない。
ーーそんなにわかりやすくて、どうするの。
いつかの三崎の呆れ顔を、必死に思い浮かべた。
「貴方だから…、きっと気にかかるんです。」
「え…?」
「これまでは、別行動で寧ろ都合が良かった。でも貴方とは、私が、一緒に回りたいと思…、!」
珍しく必死な瞳をしていたかと思うと、ハッと目を見開き、言いかけた言葉を飲み込んだ。
疑問に思う間もなく、もうその顔から表情は消えてしまった。
「野川先生…?」
「余計な事を言いました。…忘れてください。」
「いや、しかし…、」
「聞かなかったことに。」
無表情。口調も静かだ。ただ、睫毛だけが震える様に忙しく瞬いている。
今すぐに…抱き締めたい衝動をどうにも抑えあぐねて黒木はギュッと拳を握った。
暗転から一筋ピンスポットの光が射す様に、今は野川しか見えなかった。
全身全霊が、どうしようもなく真っ直ぐ野川に向かい。
その獰猛な烈しさで、野川その人をも刺し貫こうとしている。
こちらがどんなに我慢しても、どんなに痛みを堪えても、そんな風に。
「どうして貴方はそうなんだ…。」
野川には聞こえない様に言葉を噛み殺した。
「…え?」
黒木は、視神経だけでも野川から逸らそうとして、少し離れたガラスの向こうへ虚ろな視線を放り投げた。
「聞かなかったことには出来ません。凄く…嬉しかったので。」
そしてまた、切ない溜息をごまかして微笑みかける。
「あの…、」
「野川先生が、ご自分の望みを明かさないのは、周りが無理をしてでも叶えようとするのが嫌だからなんですか?」
「…っ!」
息を呑む気配がして隣へ向き直ると、今度は野川が、逃げるように顔を伏せた。
「…でしたら、絶対に無理はしないとお約束します。だから、私には貴方の希望を聞かせていただけませんか? 知りたいんです、もっと。」
貴方の事がもっと知りたい、…今はもう、そうは言えないから。
「黒木先生…。」
野川が呆然と、しかし、微かな期待の込もった響きで自分の名を呼び見つめ返してくるのを、心底嬉しく思うのに。
胸の痛みは耐え難いほどに増して、息も継げない。
一緒に回りたい思いを相手のためにそうは言い出せず、別行動と言われたら、すんなり了承してしまうなんて…。
それは逆に言えば、すすんで側にいてくれない相手なら、自身がどんなに痛かろうと、その存在を思い切ってしまうという事だ。
展覧会のチケットを持って来た時、研究室の前でおろおろしていた背中がパッと思い浮かんで、胸がさらにギュッと絞りあげられたように痛んだ。
やはりあれは、誘おうとして。
…誘えなくて。
思っていたよりもずっと野川は、哀しい嘘をつくのに慣れ過ぎている…。
そう感じて黒木は愕然とし、目の前の、優しくて、頑なで、寂しがりで、嘘つきな瞳が愛おしくて堪らず、もう目も逸らせぬまま、ただ吸い込まれるように。
「か、考えておきます…。」
…しばらく、浮かされた様に絡み合った視線が解けたのは、野川の目が狼狽えたせいだった。
そこで我に返って見回せば、朝一番は疎らだった展示室内も、今はさざ波が立つ様にあちこちから観覧者の囁き声が聞かれる。
さり気なく確認した壁の時計は、いつの間にか12時半を大きく回っていた。
「もうこんな時間なんですね。そろそろお昼にしませんか? 下のコーヒー店で。」
わざとらしくならない様に注意しながら腕時計を見た。
「…ええ、良いですね。そうしましょう。」
野川も応じ、気を取り直して小さく微笑み合う。
黒木は、消えない痛みに胸を重く塞がれたまま、なけなしの食欲を頼りに、野川と共に一旦展示室を後にした。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
42 / 86