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零れ落ちる
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ーー…住の江の人は…、貴方です、野川先生。
掠れた声で、告げた。
思えば、あの時、彼を行かせてやれば良かったのだ。
この関係が元の関係に戻る、最後のチャンスだったのだから。
それが、間違いだったと今気付いても、もう遅い。
自分はただ、あのまま離れたくなかった。
胸が痛かった。
話したかった。
たとえ、あのまま行かせたとして、後から彼がとったシングルルームを訪ねずにはいられなかっただろう…。
「…っ…。」
これまでだって、彼のことを考えると泣けてくる様な気持ちになることは、時々あった。
しかし涙を流すのは、今夜が、初めてのことだ。
いや、そんなことを言ったら、両親が死んだ時すら、涙なんて出なかった。
怖かったのも勿論ある。
熱めのシャワーを浴びている今だって、微かな震えが止まらない。
同じ人間同士、やめてくれる様に必死になって頼めば、通常ならやめてくれないなんてあり得ない。
そこにあるのは、ただ異常だ。
しかし、何より痛いのは、彼を追い詰め、あんな重大なことを、させてしまったことだった。
何も知らなかった、では済まされない。
何故ならば、彼はちゃんとタネを明かし、自分を守りたいから室を出て行く、そう言ったからだ。
それに、彼はただ欲を抑えられずにあんなことをした訳ではない。
それは、この身が肌で感じたことだった。
この身の中心に触れる手は、どこか優しく、最後まで冷静さを保とうとしている様にも思えた。
最初に手首に巻かれた帯も、知らぬ間にあっさり解けていた。
決定的だったのはわざわざ自分を仰向けに戻して、落とされた口付けだ。
優しい、恋人にする様なキスだった。
それ以上先へ進む気が最初から無かった、ということなのだろう。
本当にその積もりがあったなら、あのうつ伏せの体勢のまま強行すれば容易かった筈だからだ。
きっと、わざと。
自分に分からせるために。
もっと言うなら嫌わせるためだったのかも知れない。
彼が本当に自分を好きなのであれば、それはどれ程辛い決断だろう。
『野川先生…』『愛しています』『貴方が、好きです』
背中越しに、ずっと掛けられ続けた声が、まだ耳元で聞こえる様な気がして、目をぎゅっと瞑った。
手首に残った赤い痣のヒリヒリとした痛みと、ベッドから落ちてぶつけた肩と背中の痛みが、唯一、自分と現実とを結んでいる。
ーー今夜あったことは、全て、忘れてください…、なかった事に。
ーー私が、した事も、言った言葉も、全て…。
ーー忘れて下さい。
…いや、遅くはない。
彼に言われた通り、全て忘れてしまえばいいのだ。
された事も、言われた事も、その時感じた感情も、鮮やかに残るこの心身の痛みさえも。
ぎゅっと握った拳を、額に押し付け眉を寄せた。
だけどあの時は…、彼の言葉が唯一の救いだったのだ。
愛していると言ったあの言葉を、それも忘れろというのか。
…いや、そうすべきなのだろう。
黒木はきっと忘れたいと思っている…。
自分だけはそれが出来なくても、飲み込んで忘れたふりをすればいい。
得意分野じゃないか…。
胸の痛みはますます酷くなり、次から次へと溢れてくる涙を、止める事も、認める事も出来ず、だからシャワーを止めることも出来なかった。
苦しく痛む胸を、いっそ取り出してしまえたら。
勝手に与えられ、勝手に取り上げられてしまった烈しい愛情の全てを、本当になかった事に出来たなら、どんなに楽になれるだろう。
独りきりの部屋、身体を清めようとしてバスルームに入って、もうどれくらいの時間が経ったのか…。
どうせ眠れないからとぐずぐずして。
ただ、黒木によって、既に何も無かった様に整えられた室内を思い浮かべると、今は、…まだ戻りたくない。
野川は、胸一杯の溜め息を吐き出した。
…これからこの関係がどうなってしまうのか、全く想像出来なくて、その分だけ、これまでの二人の時間が、余計に美しく恋しい。
その掛けがえの無い時間が、今、この水の流れと同じく、指の間をすり抜けてキラキラと零れ落ちていくのを、野川はジッと感じ続けた。
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