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囚われの身
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隣の席ですっかり寝入っている姿を、切ない吐息とともに見つめた。
今朝。時間ぎりぎりに降りて来た野川は、潤んだ目元を腫らして、顔色も悪く気怠げで…、とにかく一目見てすぐに分かる程体調が悪そうだった。
…それまでは第一声に何と声を掛けようか、その前に声を掛けて良いものか、と散々悩んでいたのが一瞬で消し飛び、大丈夫ですか、と慌てて駆け寄った。椅子に掛けさせ、鍵を取り上げ、チェックアウトを済ませて、タクシーを呼び…、そうして気持ちばかり早い新幹線を取り直して、食事も取らずに早々に座席に落ち着いたのだった。
しばらくこちらを気にしていたが、昨夜はきっと、ろくに眠れなかったに違いない。いつ目を閉じたのか、気付いたらもう深い寝息を立て始めていた。
「…。」
上着も脱がずに眠っている身体は、少し震えている様だ。
遠慮しながら、そっと額に手を当ててみた。
…今はさほど熱いと感じないが、ひょっとすると、これから上がるという事かも知れない。
実家で甥っ子が熱を出した時、そんな会話を耳にした様な気がして、迷った挙げ句、さっき脱いだ自分の上着もそっと掛けてやった。
心配で目が離せないまま、背中を軽く座席に預けて、深呼吸を一つ。
…驚くべきことに。野川は、体調以外はいつもと殆ど変わらない様子であった。
声を掛けるとその都度、大丈夫です、迷惑をかけてすみません、等と言って応えてくれた。
まるで昨夜自分が言った事を実行しようとするかの様に、だ。
ーー今夜の事は、全て、忘れてください…、なかった事に。
そんな事できるわけがない。我ながら残酷な事を言ったと思う。
そう言っておけば流石の野川も自分を、…見限ることが出来るだろうと…、思ったのだ。
しかし元々は野川の為だったつもりが、誰より自分がほっとしているとは…。
野川の限りない優しさに都合良く甘えて縋るなんて、何とも情けない。
…たとえば野川本人が許したとしても、自分のやった事は決して許される事ではないにも拘らず。
「…っ!」
苦しさに、顔を歪めた。
野川は、密やかに寝息を立てている。
先程掛けた上着を、肩まで上げてやりながら、ふと、眼前に昨夜の野川の、目が眩む様な色気を晒す姿態が浮かんだ。
めちゃめちゃに巻かれた帯で戒められた手首に、浴衣の袖まで絡みつき。下着も剥がれて背中から膝までは一切纏わぬ姿。華奢でたるみも無い、白く滑らかな肌が、背中から腰のラインを綺麗に強調していた。
柔らかい唇、甘い舌、互いの湿った肌の匂い、背中の曲線を辿った味、普段とは違う切羽詰まった淫らな声までが如実に蘇り、今は静かに眠るその人からサッと視線を外した。
我知らず居ずまいを正す。
良くも悪くも、自分は男だ、強か思い知った。今迄生きてきてこんなにも身勝手で凶暴な雄の感覚を自覚したことはない。
それだけ本能に近いところで野川を求め、獣と同じに成り下がってしまう危機感に喘ぎ通し…、しかし結局そうなってしまって。
勿論野川に分からせたかった。
自身の身の危険も、隠したいのに伝えたいこの思いも。
それに、少し期待していた部分もあったのかも知れない。
野川は男だ。体格は違っても体の作りは自分と同じ。着ているものを剥いで仕舞えば、この焦がれて腫れあがった思いも萎んで…、つまり自分も萎えて用をなさなくなるかも知れないと…、何処かで。
だけど実際にはどうだ。
右手は、生々しく野川の感触を憶えている。
この手にいい様に嬲られ、感じて震え、昂り…。
その愛しい記憶を忘れたり、なかったことにするつもりはないし、出来るはずもない。
寧ろ自分だけでも…、自分だけは、憶えていたい。
淡く触れただけでこんなにも、いや、より一層のことハマってしまった。
これから何度も、思い出しては狂おしい気持ちで自分を慰めるだろう。昨夜、室を移ってからの自分と同じに。
深く穿がって、めちゃめちゃに泣かせてやりたい。そうして上がる乱れた声で煽って欲しい。
首に手を、腰にも足を廻して、埋め込んだそれごと、自分を誘い、引き摺り込んで、捕らえて離さないで欲しい。
深淵を覗いて魅入られ、沈んでもがき、独り取り残され。なのにこのままここに囚われていたいなんて。
一体何の病だ。
それでも、その唇も、肌も、髪も、他に知らない。…他は要らない。
愛している、どう足掻いても。
苦悶の表情で思わず片手で頭を抱えたその時、野川が身動ぎして、完全にこちらに背を向ける格好になった。
同時に眠りが浅くなったのか、呼吸のリズムも少しだけ乱れた。
車窓から日がまともに差し込むのが気になり、シェードを下げてやると、気のせいか、険しい表情が幾分和らいだ様に感じた。
…傍にいることが、一番大切なことだったはずなのに。
守りたいだなんて…よく言う…。
指の背で頰を撫でようとして、辛うじて握り込んだ。
何と言い訳しようと、自分本位の欲に負けたに過ぎない。
触れたかった、ただ、それだけだ。
ーーこんなことをしたら、貴方がっ、苦しむことにッ…。
苦しい息の合間、野川が怯え切った声で必死に紡いでいたのは、こちらを心配する言葉だった。
信じられない。とんだお人好しだ。
どこまで気高くて美しい人なのだろう。
共同研究なんて言うに及ばず、もうあの綺麗な眼差しを受けることも出来ない…。
そんなことを考えて、盛大に溜め息を吐いた。
…野川の傷ついた心を心配するより、自分の事にばかり手一杯になっているこの醜い心。
本当に、最低だ…。
そう思っていながらなお、もうあの好意が自分に向けられる事は決してないと考えると、まるでこの身も心も車裂きに引きちぎられる様な心持ちだった。
自分もシートに沈み込む。
顔が見えなくなったことが残念なのかホッとしたのか…。
いや、やはり残念に思いながら、その背を眺め、常に複雑な野川への思いを、東京に着くまで延々持て余し続けた。
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