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この望みを叶えるのに
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早坂が去り際、ウォーターサーバーから水を注いでくれた。貰った薬を早速喉へ流し込み、空の紙コップをぼんやりと眺める。
自分なんかとは早く友達をやめた方が良いと心底思うが、早坂は、何かと気にかけてくれるのをやめようとしない。
夫を苦しめている人間なのに、深雪まで自分に優しいから、いつも二人には申し訳ない気持ちだ。
数年前、来るのをやめてみた事もあったが、往診だ、とか言って職場にやって来て…。
野川は、その時の事を思い出して一瞬表情を緩めたものの、直ぐにまた深刻な顔になった。
今日ここへ来てしまった事を激しく後悔している。
早坂なら、その後悔こそが友人関係に邪魔なものだと言うだろうが。
しばらく市販薬で凌げないことも無かったのに、今日ここへ来てしまったのは、自分の早坂に対する甘えの表われなのだろうと思うと、酷く自己嫌悪した。
…本当に、心配ばかり掛けて。
今度のことでは特に…言葉の端々から早坂の迷いが伝わって来た。
聞きづらい事を聞かせ、言いづらい事を言わせ、なのにまともな答えも返さないで…。
ふと、鏡に映った背中の痕を思い出し、独り目を泳がす。
これを目にした時の早坂の驚き、戸惑い、焦りや苦悩を思うと、一層申し訳ない気持ちになった。
黒木は、背中なら見つからないと思っていただろうか。
…それにしても、こんなにくっきりと痕を残しておきながら、忘れて下さい、とは…。
ーー野川先生、好きです。…愛しています…。
耳の奥に根付く様に残る低音がまた響いて、思わず首を振った。
矛盾した行動の真意は何処にあるのだろう。
忘れて欲しい。
忘れたい。
忘れても良い。
どれもが正しい様で、どれもが違う様で。
…そっと溜め息をついてベッドに横たわった。
自分とて、未だ着いて行けていないのだ。
國廣のパーティーから今日まで一週間と一日、少し前の自分と今の自分、置かれた状況が余りにも変わってしまった。
パーティーでは、自分を一生懸命探してくれた。
見つけた時の必死な表情をハッキリと憶えている。
上着を掛けてくれ、温かい安心をくれた。
旅行だって、本当に楽しかったのだ。
無理をしないから、もっと望みを教えて欲しいと言ってくれた。それが方便だったとしても、そんな事より。
自分でもぼんやりとしか分からなかった気持ちを、真っ直ぐ掬い取ってくれた事にただ驚いた。
それ以外にも、他にも数え切れないほど。
そうやって。
自分が今一番戻りたいと願うその場所は、常に黒木の痛みや、苦しみの上にあったのだと、今更ながら痛感していた。
彼が、必死で大切にして守り、見せてくれていた、幻想。
二度とは巡り会えない夢。
それを図らずも壊してしまったのは自分だ。
あの時、彼を引き止めなければあるいは…。
「…っ。」
息がまた苦しくなって、深呼吸をした。
土曜の夜…、黒木に嫌われていると勘違いした時の自分の心が不思議だった。
あんなにもショックを受けて、おまけに触れない様に見ない様に避けて。
そうまでして行かせたくない自分の気持ちを、どうしてもコントロール出来なかった。
思いを告げられた時もそうだ。
嫌われていたんじゃないと分かった…その安堵というだけでは片付けられない、心の底からうねりを持って沸き起こる感情。
これまでに感じたことのない正体不明の激情が次々押し寄せ、まるで溺れているようだった。
この気持ちが何なのか、言葉にして考える事すら憚られ、それこそ“なかった事”にしたいと願って、野川は、また瞳を揺らした。
もしも、それが男女の仲なら、その先に肉欲的な事象が含まれるのは寧ろ自然だ。
だが自然というなら、主導する側の自分を思い浮かべるのも自然な事だろう。
相手を押し倒して、唇で舌で翻弄し、指で乱れさせ、身体の芯のもっと奥までも深く震わせるのは、本来、自分の方なのだ。
なのに、あの夜の自分はと言えば。
…唇を合わせて中まで優しく愛撫されると、何も考えられなくなるほど頭が真っ白になって。
直に流し込まれた打ち消しようのない愛情に…、初めて見る黒木の熱に、惹き込まれ。
舌と吐息の甘さに酔い痴れて…。
「…!」
そこでハッとして、思考を停めた。
また思い出している。
こうして繰り返し辿ってしまう事で、忘れるべき記憶が、心ごと溶かす様に更に深く浸み込んでいく。
野川は、目をギュッと瞑って、額に手の甲を押し当てた。
…たとえ…、愛情を向けられても、受け入れることは選択肢に無い。
永遠に、だ。
ここで、自分がもしも女性だったらどうするかという仮定は無意味だと思う。
自分は男だ。だから応えられない。
その理論はそれ自体で完成していて、完結している。
野川は、身を縮めて壁に寝返りをうち、眉間に苦しみを刻んで、毛布を手繰り寄せた。
…今の自分が、黒木に望んで良い事があるとするなら。
研究者としての自分の存在に関心を持ち続けて貰う事…。
ほんの少し先行く者として追い掛け続けて貰う事だろう。
実力差は今の時点で経験の差に過ぎない。いつまでも保つものではない。
今後、その様に在り続ける努力を、不断にし続けなければならなくなるだろう。
『直ぐに追い越されるよ。』などと、いつかの様に笑ってはいられないという事だ。
だが、そうする事でしか、現状を変えない、というこの望みを叶えることは出来ない。
それでもただ手をこまねいてその日を迎えるよりは、ずっと気が楽だと思えた。
今後も胸の痛みは消えなくても。
二度と思う様に息が出来ないとしても。
側にいる事、それ自体が、互いの心を擦り減らす結果に、なるとしても。
「…なかった事に。」
…割り切れない感情を形にしないままに流す作業には慣れている。
大丈夫、やっていける。
自らにそう言い聞かせ、野川は潤みかけた目を無理に閉じた。
そうして、今直ぐにでも帰って仕事に取り掛かりたい気持ちをなんとか抑えこみ、やがて薬の効果に吸い取られる様に意識を手離すまで、じっと息を殺して、身を焦がす様な焦燥と胸の痛みをやり過ごした。
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