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早坂の苛立ち
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物音を立てぬ様、そっと診察室に戻ってきた早坂は、規則正しい寝息を立てる野川を見下ろして、難しい顔で溜め息を吐いた。
「笑って誤魔化してんじゃねぇよ。」
恨み言をそっとぶつける。
ふと、壁を向いて眠っている野川の、目頭の辺りが濡れているように見え、ハッとした。
その瞬間、酷く傷付いた顔付きをして、さらに深い溜め息を吐いた。
「クソ…っ。ふざけんじゃねぇぞ…。」
…野川は先程、初めて明かした。
『黒木先生』とやらの名を、今まで隠していたのも無意識なら、ポロっと言ってしまったのも無意識だろうが。
全てはきっとその、黒木を守るためだ。
「馬鹿が…。」
野川はいつでも、自分以外を守ろうとする。
大切な人間を本当の意味で守ろうとするなら、自己をもまた守らなければならないのだと、いつまで経っても理解してくれない。
一体いつになったら、自身を顧みてくれるようになるだろう。
遣る瀬ない溜め息を吐き、ぐしゃっと髪を掻き上げた。
最初に話に聞いた時から、黒木という人物に、勝手に少し期待していた。
他でもない仕事を認められ、戸惑いながらも嬉しそうに見えて。
だから避けるなと言った。
あの時点で、野川から惚れ込む様な色恋に発展するなどとは夢にも思わなかった。
ただ、職場にも気の置けない友人がいれば、野川の胸に動かせないほど凍りついてしまった悲しみを、解かして癒す一助になるのではないかと思った。
…若いのか、馬鹿なのか、見事にこの目論見をぶち壊してくれたが。
また長い溜め息を吐き、苦い顔をした。
野川本人は至って静かなものだ。普通はきっと感情がグチャグチャになって、もっと取り乱している筈なのに。
…いや、そう言えば、あの反応は初めて見た。
じっと息を止めて、何かを思い詰めていた、あの顔。
「そんなに好きなのかよ、そいつの事が…。」
そう零して眉を顰めた。
黒木先生だけが悪いわけじゃ無いんだ、咄嗟にそう庇った。
最後まではいかなかったにしろ、心から信頼している相手に突如として牙を剥かれ、不当に傷つけられた、その衝撃や恐怖はどんなものだろう。
無意識とは言え恋心を抱いていたであろう相手に、男の身でありながら強引に組み敷かれ、それでも思い切れないほど。
そんなに愛しているというのか。
野川は、決して気持ちを認めないつもりだろうが…。
まだ、黒木への期待を捨て切れないのが何とも癪で、舌打ちを一つすると、早坂は、苦し紛れにティッシュペーパーを手に取り派手に鼻をかんだ。眼からは流さなかった涙をゴミ箱に投げ入れ、切ない溜め息を吐く。
「お前が何て言おうと俺は…、お前を思うことを、やめるつもりはねぇよ。」
そっと呟いた。
野川との出会いは、中学二年、同じクラスになった時だ。
最初は嫌いだった。
いつもヘラヘラ、相手が同年だろうが教師だろうが同じぬるい態度、言いたいことも言えない意気地無し、そう思って。
「あんま変わってねぇだろ、それ。」
思わず苦笑いした。
とにかく、成績優秀、品行方正、みんなに親切、優しい微笑み。
学級委員長や実行委員はいつも押し付けられ、教師の手伝いをさせられて。
みんな、いつも悪いなー、なんて思ってもない事を言いながらいつも野川を好い様にこき使った。
使う方も使われる野川も、大嫌いだった。
特に野川には、尊敬を集めるためであれ、内申点を良くするためであれ、何か目的があってそうするのだろうとばかり思っていたから、尚のこと。
ところがその年の三学期、明らかに体調悪そうなのに担任に用事を言いつけられている所を見かけ、つい頭にきて、
『オイ、いい加減にしろ。自分の仕事は自分でやれ。お前も! 馬鹿が、体調悪いならスパッと断りゃいいだろ。』
…思わず口を挟んでしまった。
野川の為なんかじゃなかったのだ、自分だって最初は。
あの時、気に入りの生徒の体調の変化にも気付けない担任に対して、腹が立って仕方がなかった。
勿論、体調の事を言えない野川にも。
そこまでクズではなかった担任は、こちらに逆ギレするでもなく心配して野川に平謝りし、野川はこちらに礼を言って儚げに微笑んだ。
まさか…そんな些細な事を切っ掛けに、自分の環境が激変するとは思ってもみなかった。
野川と言葉を交わし合う仲になった途端に、一匹狼ぶって突っ張っていた自分の周りにまで人が集まり始め。
元々成績が悪くなかったのもあって、教師達の態度も変わり。
成績は更に上がるし。
親は初めて家に連れて来た友人を泣きそうな程に歓迎した。(特に父親)
それからは、生活の何もかもがスムーズに運ぶようになって…何というかとても、生き易くなったのだ。
自分は何一つ変わらなかった。
野川の人望によって、周りの目が変わっただけだった。
…早坂家は祖父の代から小児科・内科の開業医で、親の代から掛かりつけだという人間が多く、名士とまではいかないまでも、この辺りでは知らぬ者はない。
誰もが、時には教師までもが、校医の息子を一歩引いた目で見た。
嫌気が差し、自分から先に周りを遠ざけるようになって。
少々荒い言葉遣いもそのせいで染み付いたものだった。
全ては今だから分かることだが、充分大人のつもりだったあの頃の恥ずかしい自分は、本当は孤独で、淋しかった。マイペースなくせに人から頼られる野川に、コンプレックスもあった。
自分から誰も寄せ付けないでいて、それでも近づいてくれる者を求めていたのだ。
親は可愛がってくれたし、この葛藤を理解して味方してもくれていたのに。
ただの甘ったれの自分と…、両親を亡くし、それでも周囲や家族を煩わせない様、微笑みを絶やさない野川と。
自分にないものを持つ互いへの尊敬は、やがて切れない絆に変わった。
「お前を抱きたいとか、信じらんねぇがな…。」
オエ、と顔を顰めた。
医者になんてなるつもりもなかった。
地域や、周囲から頼りにされ、アテにされる存在なんて、痒くて仕方がない、そう思っていた。
野川(の胃)が、自分を医者にしたのだ。
医者の道を選ばなければ、深雪に出会うこともなかった。
ついこの間、息子の成(なり)が、医者になると宣言したのも。
野川がいなければ、どう考えても今の自分はない。
この人生に豊かな色彩をくれた。
自信と、友情と、愛と、誇りをくれた。
野川が立ち止まって自分に振り返り、微笑みかけた時から、全ては始まったのだ。
本人は、馬鹿を言うな、そう言って笑うだろうが。
「なぁ、今度はお前の番だろ?」
自分が何とかしてやりたくても、残念ながらカテゴリー違いだ。
「黒木センセー、か。」
若くて、真っ直ぐで、眩しい…、間抜け。
アホでもいいな、と文句を言い、もう一度溜め息を吐いた。
この恋を何処まで、そしていつまで、見守れば良いか。
「せめて胃の心配くらいはさせてくれよ。」
心置きなく眉尻を下げて、いつもは出来ないいかにも心配そうな表情を野川に向けながら、まだ見も知らぬ黒木に対して歯痒さと苛立ちを募らせた。
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