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若手による若手のための
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「乾杯ー。」
音頭を取ったのは何故か、黒木と同じく今年度から清明に勤める事になった、非常勤の柴だ。
近くの女子大に籍を置く彼は、清明の教授らと以前から交流があって仲が良く、勝手知ったる何とやらである。
本務校が違うと、こうも気楽になれるものかと羨ましいくらい、いつも涼しい顔で愛想良くしている。
「今日の最年長は、佐藤先生でしょう?」
面白がってツッコミを入れると、小柄な柴は、見かけに違わず何とも言えない愛嬌ある笑みを浮かべ、つまりは笑ってごまかした。
「黒木君は固いなあ。僕は最年長とか、そういうのはいいよー。」
佐藤は、ぽっちゃりとした体格も含めてまるで子熊のような可愛らしい風貌で、小さな目を細めた。
三崎をチラリと窺えば、いつもながらスマートな色気を醸し、ちゃっかり三名を見守る体でいる。
4月も下旬になり、忙しい中隙間を縫うようにして集まったメンバーは、柴と黒木の歓迎会を改めて行うという建前で飲み会を開催しているのだった。
いつかの黒木の歓迎会と同じ場所であるが、黒木としては懐かしむような余裕もなく最後まで、鮮明に残る野川の記憶を必死に抑え込みつつの参加になりそうだった。
…とはいえ、ここ最近昼時になると申し合わせたように合流して会話を弾ませてもいた面子の、気楽な会だ。
野川を除く、国文学科の若い順の四人である。
「新年度はどう? 新入りさん。」
口元の泡を拭いながら、柴がニヤリと笑った。
自分とて新入りのくせに、と本人含め皆が一様に同種の笑顔になる。
「そうですね、ありがたい事にとても忙しいです。その分充実していますが。」
我ながら当たり障りのないつまらない答えだ、と思っていると、柴も同じく、つまんない答えだね〜、とふざけて首を振って見せた。
「聞いたよ。黒木君の基礎Ⅰのゼミ、希望者が殺到したんだってね? しかも女子学生ばかり。一年の間はまだ学科で自由にゼミを選べるからって、本当、モテる男は大変だね。」
斜向かいに座った柴は、清明にはゼミを持たないからお気楽そのものだ。ニヤニヤと身を乗り出してくる。
ビールを吹きそうになるのを何とか堪え、引きつった笑顔を作った。
「メインテーマに『源氏物語』を掲げましたからね。学科での人気は、ある意味当然ですよ。」
このメンバーで、巧く逃げようとしても土台無理な話だが、せめて自分から建前を崩してしまうまいと、注意深く言葉を選んだ。
「さすがは黒木先生。我々への気遣いを、どんな時でも忘れませんね。」
今度は向かいの三崎が、眉を上げ言った。
全く、にこやかに身も蓋もない事を言わないで欲しい、と思わず乾いた笑顔を向けた。
「…そういう訳では。岸田先生が“源氏”を譲って下さったおかげだ、と言いたかったんです。」
岸田も同じく中古文学が専門で、黒木からすれば実績も年も全てに於いて大先生である。
「あ〜、岸田先生ね。」
他三名の声が重なり合った。
「岸田先生はホラ、“光の君”がお嫌いだから。」
佐藤が苦笑すれば、モテるからでしょ、と悪戯な笑みで柴が受け、そうそうー、などと二人して笑い合う。
それ自体は皆の共通認識であろうが、衝立があって小声とは言え、さすがに学科職員馴染みの店で話すことではない。
少々人目を気にする素振りをしてみるが、二人は気にする様子もない。それどころか、その割に君は嫌われてないよね、とさらに言葉を重ねる始末である。黒木は再び引きつった笑みを浮かべた。
三崎は相変わらず静かな微笑を湛えている。
「そう言えば、あの概論と文学史の講義、結局黒木君に回ってきたんだって?」
目の前の肴をつつきながら、隣から佐藤が気の毒そうに言った。
「…ええ。」
「え! あの面倒なヤツ? かわいそー。」
店の者に酒のおかわりを頼みながら、柴は明らかに面白がった。
「てっきり今年も野川君がやると思ってたよ。若手担当が慣例だとは言え、もう10年は彼がやってるんだから、ずっとやれば良いのに。」
佐藤が不思議そうに首を傾げた。
「野川先生はそう言って下さったそうですが、石倉先生が、折角講義を無理言って見学させていただいたのだし、是非おやりなさい、と仰って。」
「石倉先生、黒木君に少し当たりがキツい気がするよね。」
野川君には甘いのに、と続けて佐藤は不満げに溜め息を吐いた。
そうでしょうか、ととぼけてみたが、そうだよ、とまともに言葉が返り、苦笑する。
「僕は野川君の事…嫌いとまでは言わないけど、余り好きになれないよ。学生思いだってみんな言うけど、僕らだって考えてない訳じゃない。高い学費が研究費になってるのくらい分かっているし、その分を学生に返していかないとならないのは当然だ。」
柴は、新しいグラスを受け取りながら、また始まった、と呟いている。
「彼のように自分を顧みないで身を削ることが、そんなに美しい事かな。研究者が人間らしい生活を送ることが、まるで悪みたいにさ。」
そう言えば、佐藤は酒は好きだが回りが早いのだった、などと考えながら、柴とともにまぁまぁ、と宥めにかかる。
「野川さんは別に、やりたいようにやってるだけでしょ。つまり、ここにいるみんなと一緒ですよ。」
柴が言うと、佐藤はぐっと一瞬言葉を詰まらせた。
「んー、それは分かっているつもりなんだけど…、若さに任せて無理をされたんでは、こっちの立場もあるでしょう。」
佐藤は、自分の言っている事がただの我が儘だと自覚があるようで、表情を少し和らげている。
ホッと胸を撫で下ろした。
「学科で特に若い者として、我々も、フットワークに期待されるのが常ですから。」
そんな風に自分を含めたフォローもすれば、佐藤はとうとう表情を崩して笑い出した。
「野川君も、黒木君くらい気持ち良く喋ってくれればね、もう少し好きになれるかも知れないな。」
「っそんな…。」
絶句して思わず黙り込むと、さらに笑われた。
話を換えるため仕方なく呼び鈴を鳴らし、やって来たスタッフに飲み物をオーダーした。
「ジンのロック?」
三崎が驚いた声を上げ、胸がヒヤリとする。
「…ええ。何か…?」
「いや、いつか野川さんが飲んでたのを思い出して。」
投げ込まれた石が水面に波紋を広げる様に、心に波が立った。
三崎が野川を自分より知っている事も、今ここに求める姿がない事も、相変わらず強く激しく想う心も、全てが自分を飲み込もうとして大きな渦を作り始める。
こんな時はいつも、その中心へ一つ、また一つと、小さく削り取った恋心を放り込んでやり過ごす。
渾身の笑みを浮かべた。
「…ええ。奈良出張で御一緒した時、真似をして飲んでみたら美味しかったので、それ以来時々。」
「…そう。」
三崎が静かに頷き流してくれたのとは対照的に、他の二人はさらなる驚きの声を上げた。
「野川君と飲んだ!?」
「二人で飲んだの?!」
声はほぼ同時で。
「え…、ええ。」
戸惑いながら答える。
…危うく酒を吹き出しそうになったらしい二人を見て、三崎は呆れ笑いを浮かべ、黒木は苦笑とも自嘲とも言えない複雑な表情をした。
出張どころではない、一泊旅行にも行ったのだ、そう言っったら、二人は腰を抜かすだろうか?
…あれ以来、野川とはまともに会っていない。清明での初めての教授会で見かけたきりだ。
その時の野川の様子を思い返すと胸が痛かった。
一度考え始めたら、会いたい気持ちが止め処なく溢れ出し喉元を焦がす。
そっと、静かに深呼吸した。
お互いに少しずつ生活時間をずらしていけば、会わずにいられてしまうのだと知った。
会わなければ、少なくとも問題を先送り出来る。その間は共同研究を続けていられる…。
我ながら卑怯で嫌になるが、それが野川の為と知っていても、自分から辞めるとはどうしても、言えなかった。
それに、向こうから断られるならともかく、今こちらから中途半端に投げ出す様な事をすれば、野川の事だ、きっとまた傷付き、悲しんで、今度こそ本当に視界にすら入れてもらえなくなる事だろう。
眉を顰めてしまわぬ様、眉間に力を込めた。
「黒木君って、ポーズでも何でもなく、本当に野川君と仲がいいんだね。」
学内ではまだ、二人は仲が良い事になっている。
その方があらゆる意味で都合が良い。そう心に言い聞かせて無理に微笑んだ。
佐藤が不思議そうに呟くと、柴も頷いた。
「本当に不思議な組み合わせですよね。共同研究もしてるって聞いたけど、それって凄い事だよ。三崎さんが何年口説いても落とせなかったのに。」
「えっ!?」
今度は黒木が驚く番だった。
三崎も野川も、そんな事は今まで一言も言わなかった。
「あー、いやいや。黒木さん、もう随分前の事だから。」
黒木から無言の圧力を感じていながら、三崎はサラリと言ってのけた。
言うつもりじゃなかったんだけど、と苦笑いして。
…胸を、掻き乱される。
そんな言葉だけが頭の中を流れ過ぎていく。
しかし、まるで毒そのものの様になってしまったこの心は、そんな生易しい表現では表しきれない。
全く黒木の手に負えなかった。
「ぶっちゃけ、野川君と共同研究なんて絶対無理だと思ってたよ。」
佐藤が神妙な顔つきで言った。
「と言うのも…野川君、以前一緒に研究してた人に出し抜かれて酷い目に遭ったんだって、石倉先生が言ってたんだよね。僕もそれを聞いた時はさすがに同情したなぁ。本人は決して何も言わないけれど、だからこそ余計に、ね。」
うわー最悪、と柴は驚きに任せて呟いたが、三崎は知っていた話なのか驚かなかった。
自分はと言えば、もちろん驚いている。
他でもない野川に関して、新しく知る事が多過ぎて、頭がついていかない程に。
「…。」
三崎はあの日、野川に“友情を感じている”と言っていた。
ただそれだけだと思い込んでしまっていた。
彼が自分と利害が衝突する立場にある可能性を、今の今まで感じた事も、考えてみた事もなかった。
野川を好きだとか、触れたいだとか、そんなことばかりで…。
叶わない恋心に打ちひしがれ、自己憐憫に溺れる前に、信頼を得て、たくさんの事を知って、野川の研究のパートナーとして、一番のサポーターとして、もっと高みを目指すべき筈だったというのに。
一体何をやっていたんだ、と甘っちょろい自分に対する苛立ちで、軋むほど奥歯を噛み締めた。
「年下の私を、面倒見ないと、って思って下さったのかも知れませんね。」
にこやかに言った。…そのつもりだが心許なかった。
自分はこんな時、あんな風に巧くは笑えない。
料亭にはそぐわないグラスを傾けながら、野川と二人で飲んだジンの方が美味かった、そう思い返して一段と胸が締め付けられた。
あの時は、こんな自分なんかの心を気に病んでくれていた。
優しい微笑み、悲しげな横顔、震える長い睫毛が頰に影を落として…。
「ちょっと、トイレに…。 失礼します。」
気が付いたら、そう言って思わず立ち上がっていた。
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