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文無き(あやなき)心
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“RrRrRr…”
「…!」
集中していたところへ内線の着信音が鳴って、野川は肩を揺らし、目を見開いた。
気を落ち着けようと吐息して、小さな液晶を確認したところで、思わず電話に伸ばしかけた手を止める。
発信元として表示されているのは、隣室の番号だ。
…苦しいのか痛いのか重いのか、何とも言えない鈍い痛みが、濃墨を零した様に胸に広がった。
「…。」
正直、居留守を使いたい。
だが、研究室のドア脇に掛かっている小さな名札は、在室である事を示す白になっている。
黒木は、分かっていてかけてきたに違いない。
大きく、深く、思い切るような溜め息を一つ吐き出し、やっと受話器を取った。
「はい、野川です。」
「…っ黒木です。あの、…お疲れ様です。」
電話の向こう、全てに躊躇いがちな声の様子が、胸に痛い。
手に自分でも驚くほど力が入って、受話器の当たっている左耳が、痛みを訴えた。
久しぶりにちゃんと聞く、黒木の声だ。
緊張で乾いた唇を舌でそっと湿らせ、切ない心を隠して、お疲れ様です、と同じ言葉を返した。
「野川先生に、お話ししたい事があって…。とても、大切な事なんです。…これから、伺っても宜しいでしょうか?」
時計を見れば、午後6時を少し回ったところだ。
月曜日は、以前まで持っていた講義を黒木に引き継いだため、時間的にも精神的にも少し余裕がある。
彼の事だから、そこまで考えての事かも知れない。
やはりいないふりをすれば良かった、微かに震える唇を一瞬引き結んだ。
「あの、…野川先生…?」
「分かりました。では、…お待ちしています。」
電話を切り上げ、何度か深呼吸をした。
思いついた様にマグを手に取りコーヒーを口に含んだが、残念ながらすっかりぬるくなってしまっている。
京都から戻ってきたあの日から、黒木とはまともに会っていない。
大事な話。
それが何なのか、嫌な予感しかしなかった。
即ち、今後共同研究を…どうするかという…。
“コンコン…”
ドアをこんなに近くに感じる事もそうはない。
ノックの音がやけに耳に迫って聞こえて、思わず机上のPCに向けて視線を逸らした。
「…どうぞ。」
「失礼します。」
そこに現れたのは、横目で見ても眩しい、スラリとした長身。
…彼はいつも、存在する空間を丸ごと支配してしまうと思う。
勿論その中にはこの身も含まれていて。
あたかも彼を中心とした画の、風景の一部になったかのように。
こんな風に感じるのは、決して自分だけではない筈だ。
不思議と嫌な気にならないのも。
「お話というのは?」
時間が惜しいのは本当で、仕事に集中する素振りは嘘で。
全神経を黒木に集中させていながら、PCから視線を移す事もせず言葉だけ投げる。
入り口付近より深くは入ろうとしない遠慮がちな黒木を、可哀想なくらい素っ気なくあしらった。
「…はい、その…、…。」
人懐っこい彼が、これまでになく緊張している様だ。
言いづらい事を言いに来た証明だろうと思うと、ズシリと悲しみが胸を塞いだ。
あっさりと。…何とか心を悟られないで、白紙に戻す事を了承してやらなくてはなるまい。
…密かに肚を決めて時を待つ野川に届いたのは、しかし、予想外の言葉であった。
「野川先生に、何とか少しだけでも、お身体を休めていただきたくて…、お願いに上がりました。」
意外過ぎて、ついそちらに目をやり、あまつさえ瞳まで見つめ返してしまった。
その余りにも必死な表情に、慌てて視線を外す。
苦笑いを浮かべるのは簡単だった。
この内心の狼狽えぶりを自分で笑ってやれば良いだけだ。
「ちゃんと…休んでいますよ。食事も睡眠も、少しずつでも取れる時に取っていますから、心配は要りません。」
「野川先生っ…。」
遠慮がちで緊張していた声が、咎める様な調子に変わる。長い脚がこちらへ大きく一歩踏み出したのを見て、苦笑のままに口を噤んだ。
「今、一体何本論文を?」
黒木が極めて心配そうに尋ねた。
あれから。
今年は見送ろうと思っていた、大学紀要への参加を急遽決め。…すると、原稿が6月締め切りになるため、大急ぎで手元の論文の仕上げにかかって。
年末の学会発表に応募するため、8月末までにもう一本論文を仕上げようかとも考え、その資料も集めねばならず。
さらに紀要が出た後は、そこに載る予定の黒木個人の研究論文を元に、日本学術振興会賞の若手研究者に彼を推薦してやろうと、その手続きを調べて下準備をしてみたり。
その上で、来年の紀要に合わせての共同研究のプランニングと…、後は日々の業務で。
…ざっと説明すると、黒木は唖然として、開いた口が塞がらないといった様子だった。
「学術振興会賞って…。」
「ご存知でしょう? 44歳までの若手研究者に…、」
「それは勿論知っていますが…。」
「私自身は興味が無かったんですが…。」
最後まで言わず濁した。
これまで学会賞などにも…、あちこち狙って応募するなりしていれば、賞が獲れないまでも、少しは名前も通って箔が付き、組んだ黒木の足しになったかも知れない。
こんな事を考えるなんて自分が一番意外だが、せめて本人を推してやるくらいは、先行く者の責任として…。
「野川先生…。」
黒木は見るからに驚いていたが、気を取り直す様に息を吸い込み、険しい顔をこちらに向けた。
「そのお話は、また改めて…。それより、これから早坂先生の所へ一緒にいらして下さい。」
突然早坂の名が出て、今度は野川が驚いて目を丸くした。
…どうも彼の決意は固い様だ。
ただ一心に、この身を心配してくれる真っ直ぐで純粋な目に、野川の胸はいよいよ軋み、言葉を失った。
この目に、今、吸い込まれて消えてしまいたかった。
「何故病院に、私が?」
「鏡をご覧になれば分かります。」
怯まないで真っ直ぐ視線を受け止め合う。
「…鏡なら、毎朝見ていますよ。髭だって剃らなければいけませんしね。」
おどけた調子でこれ見よがしに顎に手をやり、微笑んだ。
「…。」
黒木は、しばらくの間、嘘を探そうとするかの様に黙り込んでジッとこちらを見据えていたが、やがて背筋を伸ばして顎を引いた。
そうしてその切れ長の双眸をスッと細めた。
彼は、自分に、会うたび心を奪われると言っていたが。
…いつからか、分からない。
分からないがとにかく、それはこちらの台詞だ、と文句を言ってやりたくなった。
「無理に…、縄をかけてでもいらしていただきます。」
その目には、いつか二人で押し問答をした時と同じく、傷ついた色が揺らめいていたが、あの時みたいに弱々しくはない。
「黒木先生…。」
「病院までお送りします。」
そう言ってから、ハッとした様に一旦唇を噛んだ。
「…もしも、先生がお嫌でなければ…。」
ギュッと眉を寄せて苦しげにするのに、いつもと同じ一言でこちらを気遣う黒木に、つい眉尻を下げた。
「今日は、あいにく時間を割けません。今週中には何とか時間を見つけて、行けるようにしますから。」
優しいふり、集中しているふり、苦しくないふり、傷ついていないふり、仲が良いふり、気のないふり…。
我ながら嘘ばかりで反吐が出る。
こんな自分を、心配してここへ…来たのだ。
こんなに緊張して、こんなに傷つけられても、そう分かっているのにここへ来て、直ぐに病院へ行けと言う。
この一月余り会わないでいて、一体黒木のことを考えない時間が1時間とあっただろうか。
避けて、考えないようにして、仕事で埋もれようとして、自分の心を見ないようにする事ばかりに躍起になって。
こんな自分を、こんなにも彼は。
心が、どうしようもなく喜んで、同時にどうしようもなく痛んだ。
「野川先生に、どうしても時間的な負担をお掛けする様であれば…、」
「…?」
「共同研究を、保留…、いえ、打ち切りにしても、構いません。」
「…っ!?」
衝撃に、驚いて、目を見開いた。
「…ご自分が、何を言っているか、分かっているんですか?」
喉から直接出て来た様な、地を這う掠れ声に自分でもハッとしたが。
「野川先生…?」
頭に血が上り、目の前の景色がゆるりと回って。
何とか平常心を取り繕おうとしても、湧き起こる怒りはどうしても静められそうになかった。
…だってそうだろう。
一体どこまで自分勝手に人を振り回せば気が済む。
突然やって来て、勝手に共同研究を言い出したかと思えば…、突然恋心を打ち明け、それもまた直ぐに引っ込めてしまって。
今度は何だって?
共同研究を、どうすると?
…覚悟していた時には言わないで。
何故、今…。
「…分かりました。貴方がそう言うなら、そうしましょう。」
黒木が驚きに目を見開いているが、構ってなどいられない。
立ち上がり、足音も荒く歩み寄る。
「そういう事なら、貴方は今後、この室に一切出入り禁止です。」
自分がどんな表情かも、最早気にする余裕がなかった。
「出てって下さい。今直ぐです。」
「野川先生ッ…!」
こんな自分は知らない。
誰かに対して、個人的にこんなにも怒りを感じ得るという事を初めて知った。
怒り…? いや、そうではない。
…酷く傷ついている。深く。
後ずさる黒木に構わず歩を進め、ドアへと追い遣る。
そのまま追い出そうとして、黒木の背後から勢いよくドアを引いた。
しかし、
“バタンッ”
大きな手がドアを閉め、阻まれた。
振り返って見下ろしてきたのは、内心の悲しみを映して尚、一層煌らかに輝く瞳。
「良いんです…っ、構いません。っ貴方に…、今以上嫌われても、今日は病院に…、必ず、いらしていただきます、絶対に…!」
苦しげに何度も息を継いで話す様子に愕然として、立ち尽くした。
今以上嫌われても、と言った黒木の言葉が、信じられなかった。
的外れもいいところだ。
だって、自分は、こんなにも…。
「…。」
…ずっと見ていてしまいそうだったから、大袈裟に眉を顰め迷惑顔で溜め息を吐いて、視線を伏せた。
…何の準備もなく、早坂に小言以上に叱られるのが億劫で仕方がないが、これ以上は、無駄な抵抗だろう。
黙り込んだまま机に戻り、徐ろに鞄を取って。
さらに鞄のポケットから携帯電話を出し、番号を表示させた状態で、差し出した。
おずおずと歩み寄って来た黒木に、そのまま手渡す。
「? …あの…?」
今日のこの時間はまだ診療時間内だが、自分が行く前には携帯に連絡をするのが暗黙の了解である。
「早坂に直接繋がります。貴方が電話して下さい。」
戸惑う黒木に、直ぐに替わるのでご心配無く、と言葉を継いだ。
「後で本当に行ったのかと疑いを持たれるのは面倒です。」
「野川先生…。」
「…車もお願いします。タクシーだと、同じ理由で面倒ですから。」
「っはい…!」
複雑で有りながらも、素直に嬉しそうな返事をして、黒木はホッとした笑みを向けた。
真に優しい微笑みというのは、こういう表情を言うのだろう。
野川は、胸が潰れそうな痛みに耐え切れず、早く電話を、と冷たく催促をして、申し訳程度机を片し始めた。
内心では、すっかり制御不能に陥ってしまっている自分の心に途方に暮れていたが、少しでも身体を動かしていなければ、それこそ、小さく震える手も、動揺し切った心も、もう隠しては置けない気がした。
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