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罪と代償1
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ーー残念ですが、仕方がありません。早坂先生とはまたの機会に。…それでは、30分後にお迎えに上がります。
野川に反論の隙を与えず、車を出した。
この後大学に戻る可能性も考えて、ついその様に言ってしまったものの、既に帰り支度も済ませてきた野川を、そこまで本気で疑っている訳ではなかった。
但し、送り届けたからと言って、身体を休めてくれる保証もないが。
…本当の事を言えば、今日は早坂に是非とも会いたかった。
野川の今の状態を尋ね、体調管理に関するあらゆる事を把握しておきたかった。
しかし、それらを今日確認するには野川同席の下でなくてはならず、すると結局、満足な情報を引き出せないであろう事は自明であった。
GW前の月曜日。時刻は、午後7時を回った。
自分はこの後大学へ戻る。
…ポッカリと出来た自由時間、せっかくだから少しでも気を紛らせようと、ずっと運転しているつもりだったが。
先程は、野川の事を考えていて、信号の色が変わった事に気付かず、後続にクラクションを鳴らされてしまった。
結局、今運転するのは少し危険だと判断し、時間潰しのドライブは諦めることにして。
今は、病院から10分以内のコンビニ駐車場でコーヒーを啜っている。
熱いコーヒーが車内に、リラックス効果を持つとされる良い香りを漂わせるも、残念ながら今の自分には魔薬と言う他ない。
何故ならば、コーヒーの香りは。
味も香りも違いのよく分からない自分にとっては、野川の研究室の香りそのものであるのだから…。
そういう訳で、コーヒーのアロマに対するほのかな期待は、あっさりと裏切られてしまった。
…それにしても。
久しぶりにきちんと、愛しい声を聞いた。
言葉を交わして、目を合わせて…。
満足すべき、なのだろう。
あんな罪の重い事をやらかしておいて、目を逸らされる、とか、視線が冷たい、とか…、言えるわけもない。
電話の声につい聞き入って、言葉に詰まって。
横顔を見ただけで、胸が一杯になって。
いつもの優しげな微笑みに、見つめていながら焦がれて。
ふぅ、と苦しい息を吐き、口元を手で覆う。
「出入り、禁止って…。」
また一段と胸がぎゅっとなった。
「ハァァ…。」
苦しくなって息を吐き、きつく目を閉じて、コーヒーの香りを、肺の底まで吸い込んだ。
思い浮かぶのは、研究室での野川の表情、共同研究を打ち切りにしても構わないと言ってしまった時の、あの顔だ。
眉はぐっと寄せられ、震える睫毛の向こうでゆらゆらと揺らぐ瞳は、少し潤んでいる様にさえ見えた。
わななく唇と、声も…。
最低な事をしたのにあんな風に傷ついてくれるなんて、…まるでこの仕事を、自分と同じ意味で、大切に思ってくれているかの様で…。
いや、野川はただ、一度始めた事を中途半端に投げ出すのが嫌なだけであって。
もちろん、それくらい分かっている。
しかし。
傷ついて…、傷つき過ぎて怒った表情に見えた。
…そう見えたのだ。
「は…っ。」
笑い飛ばそうとしてできず、髪を苛々と掻き上げ、そのまま握り込む。
決して失くせないものを、手放してしまおうとして、上手くできずにまだ期待して。
見苦しい事だ。
一体どこまで、自分の勝手に野川を巻き込めば気が済む。
野川からしてみれば、こんな人間消えた方がマシだろう。
ーー出てって下さい。今直ぐです。
あんな悲しい顔は、初めて見た。
いつもなら、直ぐに感情の読めない面差しに戻ってしまう人が…。
「…?」
あの時。
ーー貴方がそう言うなら、そうしましょう。
野川は確かにそう言った。
あの、京都の博物館で聞いたのと同じ言葉に、ハッとしたのだ、間違いない。
睫毛が震えて、悲しげで、そんな所もあの時と同じだった。
あの時は、一緒に回りたい気持ちを隠して嘘を。
「…え?」
では、今日は。
今日も…、本心を隠して、嘘を…?
“Pililili…”
その時、スタンドの携帯電話が、けたたましく着信を知らせた。
画面表示を見て、思いも寄らなかった名前に、文字通り目を剥いた。
「え! 橘先生!?」
あんまり驚き過ぎて、スタンドに立てたままにしていた携帯電話を慌てて取ろうとして、座席下に落としてしまった。
「! しまった…。」
慌てているとなかなか手に付かないものだ。
しかし、何とか取り上げ、画面に指を走らせた。
「お待たせしました…! 申し訳ありません、今その…、運転中でした。」
機嫌を損ねない様、ここは上手くごまかしておく。
「遅い。」
相変わらず渋いバリトンを不機嫌そうに響かせ、文句を言う。
一連のやり取りが懐かしくてつい、ふっ、と笑ってしまった。
「待たせておいて笑う奴があるか。」
呆れた顔が目に浮かぶようだ。
「懐かしくて。…すみません。」
正直に答えれば、全くしょうがない奴だ、と笑い混じりの声がした。
どうやら、今日はご機嫌が良いらしい。
「橘先生、今日は、何の…?」
「オイオイ、随分だな。先月電話してきたのはそっちじゃないか。また掛け直すと言うから待っていたんだぞ。」
そう言えば確かに。
野川に連絡をマメに取るように、と諭され、次の日直ぐに電話をかけた。
その時は出なかったから、留守番電話にまた掛け直すと伝言を残しておいたのだった。
「失礼致しました。色々あって、すっかり失念しておりました。」
橘が最優先だった日々からすれば考えられない失態だ。
それを、全く意に介した様子なく流してくれるなんて。
本当に今日、橘は、余程機嫌が良いらしかった。
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