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胸の騒めき
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確かに、声を聞いて、顔をみて、話をして。
嬉しかったのかも知れないが、同時に胸を掻きむしりたくなる様な苦しみも感じていた。
会えないと、上手く息が出来ず。
会うと、息が止まりそうになる。
いつからだろう。
考えても、やっぱりよく分からなかった。
京都旅行から、とも言えるし、ひょっとしたら、面接の時には既にそうなっていた、とも言えるかも知れず。
とにかく彼は、出会った時から、自分には眩し過ぎて。
先程改めて自覚させられたシンプルで強い望みや、これまで敢えて言葉にして来なかった想い。
それら全てが自分に返ってきて、丸裸になった心をカマイタチの様に無遠慮に裂いた。
無意識でも、きっとこうなる事は分かっていて、だからこそ避けて。
しかしこれまで、どうやってこの気持ちを見ないでいられたのかは、もう完全に分からなくなっていた。
隣で運転する、少し思いつめた様にも見える真剣な眼差しに、心の最も深い部分を持って行かれる様な感覚を覚え、独り戸惑う。
シートに背中を預け、気づかれない様少し後ろから、黒木の横顔を掠め見ながら、野川は、それまで殺していた息を、そっと吐き出した。
「…はぁ…。」
…と、溜め息にピクリと肩を揺らして、黒木がこちらを振り返った。
「野川先生…?」
その瞳は、いつかの夜を思わせる熱と色を含んで、射る様に、探る様に揺らめき、距離が…じりじりと近くなって。
身体全部が心臓になった様に脈を感じていながら、何でもない様に静かに視線を外した。
溜め息が…。少し甘くなってしまったかも知れない。
気をつけなくては、と自戒する。
「貴方は、この後大学へ?」
声が震えなかった事にホッとした。
「…え、…ええ。野川先生のご期待に沿える様、頑張らなくては。」
無理な笑顔は、黒木には似合わない。
させているのは自分だと思うと、また更に胸がぎゅっと締め付けられ、居たたまれない気持ちになった。
いつの間に着いたのか、車が、以前送ってきてもらった同じ場所で、停車している。
どこをどう走っただろう。全く外の景色を見ていなかった。
自分に驚いて、呆れて、少し嗤ってしまった。
「野川先生…?」
「貴方にこんな事までさせて、本当に申し訳なく思っています。…心配を…、掛けてしまって。」
「とんでもない。私が、やりたくてやった事ですから…。こちらこそ、強引な事をしてしまいました。」
叱られた子供の様にシュンとなったが、謝ることはせず、ただ俯いた。
しかし次の瞬間、また、パッと顔を上げた。
「それで、早坂先生は、何と?」
気を張っていないと、いつもこの微笑ましい人柄に、どんな構えも取り払われてしまう。
「…もう少し、人間らしい生活を、と。」
今日早坂の言った事ならほとんど言えないが、言える事も少しはあった。
「具体的には?」
「食事と睡眠をしっかり取る様に、だそうです。」
「えー、と…、 他には。」
「? 他には…出した薬をしっかり飲むように、とか…。」
「…それだけですか? 本当に?」
苦笑とともに頷き返せば、いかにも訝しんだ表情で探ってくる。
彼が自分を疑うのにも、もう慣れてしまった。
「もう一つありました。これ以上無理をすれば、レッドカードだと。」
「レッドカード!?」
衝撃を受けた顔が、目に見えて曇った。
「ええ。『知り合いの病院に強制的に入院させて太らせる』とのことです。」
「…そうですか。」
少しはホッとした様だ。
しかし、それも束の間、一段と真剣で思いつめた眼差しを寄越した。
「共同研究を、諦める話は、…本気です。もしも…このまま、お身体に障りがある様でしたら…、本当に、私は。」
躊躇いながら、迷いを振り切る様にして。
誰よりもこの胸を傷つけるくせに、先に傷ついた顔をする黒木に、余裕振った苦笑を返した。
「…その話は、私の方で預からせてくれませんか。」
「え…? あの、でも…、出入り禁止は…。」
思わず、胸がヒヤリとした。
いつも、もっと考えて話しているつもりだが、黒木には反射的に発言してしまう事がある。
「あれは、…つい、頭に血が上ってしまって…。」
言葉を濁して微笑んだ。
「6月の締切りまでは難しくても、夏休みになれば、少しは落ち着いた生活を出来ると思いますから…。」
「夏休み…!」
「?」
黒木が、ハッとした顔をしたかと思うと、気まずそうに目を伏せ、視線をうろつかせた。
「どうか、しましたか…?」
「…夏休みの、事なんですが…。」
そう言った切り、押し黙った。
落ち着かない心を写し取った様に視線は揺れ、唇は言葉を探して開閉を繰り返す。
彼のこんな様子は、初めの頃以来で珍しく、それだけで胸が重苦しい。
これから何を言われる。
嫌な予感に、胸が騒めき、慄いた。
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