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告白2
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「野川先生、私…、あの…。」
その後に続く言葉なら、言われなくても分かる。
こんなに可愛らしい、しおらしい、か細い声。
きっと、上目遣いで、頬を染めて、潤んだ目を泳がし…。
「はい、何でしょう…?」
野川は、気付かないふりをしているのか、とぼけている風な声だ。
自分が女性にモテると思った事はない、そう言ったくせに、と少々恨みに思いながら、黒木は、書架に身を隠して息を殺した。
「…。」
…まずいところに居合わせたものだ。
いや、居合わせたと言うと語弊がある。
独自に纏めた資料のリストを届けるべく、偶然見かけたその背を追い掛け、つい学内の図書館まで来てしまった。
このリストは、後からメールでも送信する予定だし、出力するのも、届けるのも、全くの要らぬお世話である。
しかしながら、出入り禁止を言い渡されてから一月余り、どうしても、会って言葉を交わしたい気持ちを抑えることが出来ず、いつでも渡せる様に手元に準備して持ち歩いていたのだった。
だから…、今ここで立ち聞きをする羽目になったのは、必然というか、何と言うか。
「野川先生の講義が、大好きなんです。お優しくて、とても丁寧で分かりやすくて…。」
「それは…、嬉しい言葉です。ありがとうございます。」
野川の微笑み混じりの優しい声を耳にして、ぎゅっと目を閉じた。
あの声を、間近で聞く事が何よりの幸せだった。
自分が一番近くに、いられたのに…。
触れた事を後悔してないくせに、傍にいられなくなった事だけを悔やんでいるなんて。
…嫌われて当然だ。
「私…、基礎Ⅰでお世話になった時から、野川先生の事が…、好きです…。」
近づくのに迷いながら尾行する自分より先に、躊躇うことなく野川の背に追いついた女子学生は、美しい横顔をしていた。
肩先までの長さを緩めに巻いて、ハーフアップにした髪は、上品で、たおやかで。
「西園さん…。」
西園美玲。
ハッと顔を上げた。
ようやく思い出した。大学の放送委員会に所属している、才色兼備の学生の名を。
新入生歓迎のイベントで、彼女からマイクを向けられた事もあった。
その時は、国文学科の日本語教育コースに所属し、将来は外国人に日本語を教える日本語教師になりたいとか何とか、自己紹介していた。
新年度から何度か顔を合わせていたというのに…。
邪魔をしたい気持ちは山々だったが、そんな事をしても、何の意味もない事は重々分かっている。
胸が痛い、息も苦しい、それでも。
「野川先生、あの…。」
「西園さんのお気持ちは、とても嬉しいのですが…、すみません。」
野川の静かな声が、凛として空気を揺らした。
「私にとって貴女は、大切な我が校の学生の一人です。それ以上でも、以下でもありません。」
ホッとして、つい詰めていた息を勢いよく吐こうとして、慌てて止めた。
「…私、入学当初、自分に自信が無くて…。でも野川先生が、『話し方も言葉遣いも、とても美しいですね』、って褒めてくださったんです。…迷っていたのに、夢を持ち続けていられたのは、野川先生のおかげなんです。」
「…それは、教員として、とても嬉しい言葉です。」
野川がどんな顔でいるか、見なくても分かる。にこやかで、暖かくて、優しい眼差し…。
「野川先生…。」
彼女の声が、涙で滲んだ。
「貴女の気持ちを受け取れない理由は、いくつかあります。しかし、一番大きな理由は、…。」
突然の沈黙に、変な緊張が走った。
「…私に、とても好きな人がいる、という事です。」
「…ッ?!」
えっ、と大声をあげそうになって、口を手で覆った。
とても好きな人…、とは。
「…どんな、方ですか…?」
そうそう引けは取らない、とでも言いたげな、可愛らしくも勝気な声が、代わりに同じ疑問を言葉にしてくれた。
そうですね…、と受けた声に苦笑が混じる。
「素直で、可愛らしくて、眩しくて…。お会いするたびに、心奪われる程…、…好きな人です。」
「……?!」
見えない位置で、独り目を見開いた。
馬鹿みたいに狼狽えて、他に誰もいないか辺りを見回す。
心臓が、ドクドクと激しく鼓動し、忽ち息苦しくなった。
最後の言葉は…間違いなく以前自分が言ったのと同じ…。
…どういう事だ。
どう取れば良い。
素直はともかく、可愛らしい、とか、眩しい、とか…自分には当たらない。
…いや、…そう。
きっと、断るための口実なのだ。
言い訳に言葉が見つからなくて、咄嗟に思いついたいつかの言葉を、何気無く使っただけで。
変に期待をしてはいけない。
都合よく考えたらダメだ…。
胸の痛みを堪えあぐねて、無意識にシャツの胸元をギュッと握り締めた。
「…分かりました…。お時間をとっていただき、ありがとうございました。これで…、自分の気持ちに、区切りをつけて、就職活動にも身を入れることが出来そうです。」
沈んだ声を、精一杯明るくしようとする健気さが、胸に痛い。
「あの…、できれば勝手なのですが、今日の事は、忘れて下さいませんか。」
「え…?」
野川の声が、掠れた。
忘れて下さい、という憶えのあるその言葉に、ギクリとした。
「…え、ええ…、分かりました。…忘れましょう…。きっと…、お互いの、ためですね…。」
気のせいではない。自分には分かる。
応える声が、震えている。
野川は、酷く動揺していた。
京都の夜、自分が忘れてくれと言ってしまった時、その瞳から静かに流れ落ちた悲しい涙を思い出し、またさっきと同じ場所で思考が立ち止まった。
だって、まるで。
「…。」
…西園は、多分、野川に向かって軽く頭を下げただろう。
かくして、書架の並び立つ閲覧室を、小さな影は走り去った。
ここにいる存在にも気づかず、俯いて。
書架の斜め反対側からは、野川の、不安定で長い溜め息がそっと響いた。
閉館間際の館内、他に物音もしない。
不意に、靴音が近づいて来た。
「…!」
心臓が縮み上がる思いがしたが、野川は、通路を逆に折れ、半階降りた古典籍の書庫に向かった様だ。
音はまたゆっくりと遠ざかった。
扉が開き、そしてまた閉じる音がして、全ての音が止んだ。
「…。」
ただ、自分の鼓動の音だけが騒々しい。
眉を険しくして、詰めていた息を吐き出すと、黒木は急ぎ、いや、まるで追われる様にしてその場を後にした。
一人になって考えたい事が、山の様にあった。
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