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言ふ甲斐なし
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「痛みを感じない?!」
時間外にやって来たいつもの診察室。
胃カメラの画像を見ながら、痛みが酷くなっているだろう、と聞かれ、意外に思って首を振ったところ、親友は、先の通り大声を張り上げた。
「感じないわけじゃないよ。ただ、酷くはなってない。いつも通りの胃痛、程度で…。」
「…。」
深刻そうに顔を顰め、俯いて考え込む早坂は、やがて顰め面のまま言った。
「…アレだな。レッドカード。」
驚き、目を見開いた。
…強制入院と言っていた、例の。
「痛くないのに…、どうして。」
「痛くない筈がないからだよ。」
短く応えて何やら書棚を探り始めるその真剣な様子に、野川は全く付いていけず、首を傾げた。
「痛くないのに、痛い筈って…、また、疑ってるのか?」
今は嘘を吐いていない。本当に、そこまで痛みを感じないのだ。
酷い痛みというのは経験上知っている。脂汗と、冷や汗が同時に出るみたいになって。
胃は燃えるように熱いと感じるのに、寒気で震えるのだ。
だがあの時でさえ、穴は開いていなかった。
早坂は、心底心配そうに戸惑った視線を向けた。
「嘘ならまだ良かったんだがな…。」
どうも心因性の現象だろう、と早坂は言った。
胃の炎症自体は悪化しているのに、痛みが悪化しないのはおかしい、そういうことらしかった。
「今は、無理だよ。せめて夏休みに入ってから…、できれば8月の20日頃まで待って貰えないだろうか?」
「8月20日って! まだ2ヶ月近くもあるぞ? 第一、俺が待っても病状は待ってくれない。突然大学で酷い痛みに襲われて救急車、ってのも嫌だろうが。」
「…。」
確かにそれは言えているが、そう言われても、痛みがない以上ピンと来なかった。
「納得してない顔だな?」
そう言って早坂は、呆れた様に大きな溜め息を吐いた。
「…論文を…、一本来年に回すよ。それで、体の負担はかなり減る筈だから。」
何れにせよ、8月末までに一本仕上げるのは、進捗状況から言って厳しかったのだ。…丁度良い。
締切が一つなくなる分、気持ちも楽だ。
「正直、焼け石に水な気もするが…、分かった。まあ、病院も明日直ぐって訳にはいかないんだ、日程も伝えて、改めて調整しておく。その代わり、管理入院じゃ済まなくなるかも知れないけどな?」
その言葉にこちらがホッと一息吐いたのを見て、ホッとするとこじゃないだろ、と早坂は眉間に皺を寄せた。
「で? その8月20日、って何だ? 何かあるのか?」
ギクリと肩が揺れたのをこの男が見逃してくれるはずも無く、野川は溜め息を吐いた。
早坂相手にどうせバレる事とは言え、黒木の事になると、どうも巧く嘘が吐けない。
「…10日間程イギリスに行くそうなんだ。どうせ進められないなら、それに合わせてと思って。」
出来るだけサラリと言ったつもりだったが、早坂の表情はみるみる険しくなった。
「イギリスって…、おま、…俺たちが新婚旅行に行く時でさえ、ちょっと体調崩したくせに、…平気そうに言うなよ。」
あの時は、イタリアだったか。
『町医者にヨーロッパ旅行出来る機会なんて、新婚でもない限り一生巡ってくる保証がない』そう言っていたのを思い出しながら、また自分の代わりに表情を崩して苦しい顔をする早坂を見て、申し訳なさで胸が痛んだ。
「…心配かけてすまない。」
「旅行か? 仕事? その話、知ったのいつだ。」
「仕事だよ。知ったのは…、GW前にここへ来た帰りだ。」
早坂は、今度は顎の調子でも悪いみたいに複雑怪奇な顔をした。
「お前、ふざけんな! あれからもう2ヶ月経つんだぞ!? こんな問題独りで抱えて、そりゃ酷くもなるだろ。なのに…、い…痛くないって…。」
途中から声が萎んだ。
その表情からは、心配し戸惑っている気持ちが、ありありと見て取れた。
「…先月言えよ、馬鹿が。」
「あの時は、日程もまだ決まっていなかったし…、まともに話さないで帰ってしまったから。」
その日は自分も忙しく、また、診療時間内で、早坂も忙しくしていた。
それに、だ。
いい加減にそんな事くらい乗り越えられなくて、どうする。
事故やテロは、今日本にいる間に起こったとしても、ちっともおかしくはない事で…。
「オイ。…お前、また自分で自分を追い詰めてるだろ?」
「…。」
図星を指されて、俯きがちに無言を返すと、早坂は一層苛立たしげに溜め息を吐いた。
「好きなら’好き’、嫌なら’嫌’、心配なら’心配’、恐いなら’恐い’。…自分の気持ちを、自分くらいは認めてやれ。お前はほんっと、一筋縄ではいかないよな。」
「早坂…。」
「もういい歳だって言うなら、関わる事を恐がるな。どうせ恐がるなら、手に入れる前でも後でも大差ない。だったら、掴みとれば良いだけだ。向こうがこっち向いてる今なら、目の前にぶら下がってるリンゴ採るのと同じくらい簡単な話だろうが。」
「だけど…。」
「リンゴをどうやって食うか? ンなもの採ってから考えりゃ良いんだよ。」
もうずっと前から、頭の中がパンクしてしまいそうなくらい、堂々巡りを繰り返している。
早坂と、全く同じ事を思うと同時に…、自分さえ受け入れなければ、彼は道を逸れなくて済むと考えてしまうのだ。
‘もしも自分が女性なら’と、そう考えることは無意味だと思ってきた。
いや、今だって思っている。
だが最近、考えずにいられない。
この手を伸ばすのを、もっと躊躇わずに済んだことだろう、と…。
だからといって、リンゴをどうやって食べるか、と早坂は言ったが、もしも男同士で恋愛関係になったとして、その先に待ち受ける事にーーあの京都での夜の様な事にーーちっとも頭は追いつかない。
…まして受け入れるつもりはないなんて言っておきながら、こんな風に、その気になっている様な事まで考えているなんて。
いかにも滑稽だ。
心を占めている問題に手も足も出ず、こんな風に黙り込む不甲斐ない自分を、早坂はそれでもまだ見捨てる気にはならないようで。
心配そうに長い溜め息を吐き出しながらまた眉を顰めた。
「お前の今回の胃炎は、それ自体がメインじゃない。あくまでも‘恋患い’の合併症だ。仕事をセーブして、言われた通りに薬を飲んで、消化に良い適量の食事をきちんと食べて、無理にでも睡眠をとる。…俺は、これ以上何も言ってやれないんだ。」
仕上げの様にそう言ってから、尚、難しい顔をした。
「いつまで続ける気か知らんが、本当の意味で失う覚悟、出来てるのか?」
…想像なら何度もした。
自分はこうして避けているが、もし逆に避けられる様になったら。
何気ない時にふと目を遣ると視線が合って、目尻を微かに和らげてくれる…あのなんとも言えない優しい眼差しも…。
自分から逸らすまでもなく、見つめて貰えなくなって、口もきいて貰えなくなるくらい嫌われてしまったら。
彼が、自分以外の誰かを、愛してしまったら。
そしてそれが…、万が一にも、男だったりしたら…。
…そうでなくとも、もし本当に再来年からイギリスに行ってしまったら。
野川は、ぎゅっと眉を寄せ胸元を握り締めた。
具体的な画を思い浮かべるだけで、胸が張り裂けそうに痛んで息が苦しい。
「お前が躊躇う気持ちは、俺だって解るよ。だけど…、俺は、この際相手が誰でも、お前が、好きになった人と幸せになってくれれば良い。…うん、そうなればいいと思う。…こうなったら、親友の恋人とだって、親友やってやるさ。」
忘れるな。
…途中自分の心を確かめる様に言った早坂は、ほんの一瞬、泣きそうに瞳を揺らした。
そして、感情の波をごまかす様に素早い深呼吸をし、背を向けて机に向かった。
高を括っているのかもしれない。
まだ、覚悟なんて、何も出来ていないのかも知れない。
その時が来たら本当に、今度こそ息が止まってしまうのかも知れない。
今までもこれからも、ストレスで体調を崩して、この寿命が縮まっているかも知れない事を、医者である親友は、どんな思いで見つめ続けているだろう。
早坂の存在が自分を、心身共生かしてくれている、つくづくとそう考えると、野川は見えない場所でそっと頭を下げた。
しかし、そのまま謝ると怒られそうで。
「ありがとう…。」
そう、密やかに呟いた。
そして、潤んで熱くなった目を冷ますべく、親友に倣って深呼吸をした。
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