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心奪う人1
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もう7時か、と内心ボヤいたが、少しだけ気分は上がっていた。
1時間近くもする必要があるか疑問が残った、生涯学習委員会の会議の帰り。
ついでに寄った事務局で、メールボックスから書類や郵便物を取り出している時、ふと棚上に置かれている荷物を見つけたのだ。
――これ、野川先生へのお荷物なんですね。
大きさや梱包の雰囲気から、購入した中古書籍が何冊か。
教員個々に割り当てられたメールボックスに、入り切らなかったようだった。
これで一瞬でも直接会って言葉を交わせる。
その場でどんな本か見せて貰えるかも知れない。
うまくすれば、読後に借りる事も出来るかも知れない。
本を借りるという事は即ち、少なくとも返す時だけは会えるということで。
すっかり顔馴染みになった女性事務員に苦笑いを向けられつつ…つい、自分から預かってしまった。
そう言えば、今日は七夕だ。
些細な事から、そんなことにまで思い至った自分は、まるで‘恋する少女’の様だと気恥ずかしく、我ながら呆れて苦笑が零れた。
野川の室の前、白地の名札を確認して、深呼吸し、緊張を振り切る様に思い切ってノックをした。
「…?」
いつもなら、優しい声ですぐに返事がある。
耳を澄ましてみたが、話し声はしないから、電話中ではなさそうだ。
何か作業に没頭していて、聞こえていないのかも知れない。
「野川先生、黒木です。」
今度はもう少し強めにノックして、良いか悪いかきちんと名乗ってもみたが、やはり返事がなかった。
仮眠をとっているか、トイレや札の返し忘れなどで、実は不在であるか、どちらかだろう。
…きっとそうだ。いや、ほぼ間違いなくそうに違いない。
頭ではわかっているのに、不安な気持ちはどんどん膨らんだ。
メールで、病院にはきちんと通う、という約束はしたが、その後も野川の顔色が善くなったようには見えなかった。
この思いが、野川を追い詰めた。
その事は重々承知している。
今も…自分は、野川から出入り禁止を言い渡されている身だ。
研究室に許しもなく入って、見つかったらどうなる事か、正直言って予測が出来ない。
しかし、もし、胃の痛みで動けなくなっていたら。
もし、既に意識を失っていたら。
…そう考えると、一層嫌われるなどと言って、迷っている場合ではないと思われた。
「野川先生、黒木です。あの、…っ。」
かける言葉を探すのももどかしく、失礼します、と囁くように声をかけ、同時にそっとノブを下げた。
やはり鍵はかかっていない。扉をそっと開いて入口から中を覗くと、長椅子に放り出された両足が見えた。
扉を静かに閉め、音を立てずに歩を進めれば、壁に額を付けるようにして熟睡している、野川の姿を見つけた。
…ずっと会いたかった人の寝顔。
酷く疲れた様子が伝わってくるその顔つきを見て、安堵や、心配、その他、切ない気持ち、自分自身に対する苦い気持ち、ただ愛しいと思う気持ち、様々こみ上げる思いに吐息を震わせ、思わず目を潤ませた。
…繊細でシャープな顔は、男らしさがないわけではない。
しかしその玻璃細工の様な透明感と儚さに…ただ、目を奪われる。息を奪われる。心を、奪われる。
「…。」
じっと見つめていたいのは山々だが、目を覚ます前に…つまり、バレる前に出て行かなければならない。
預かった荷物も置いては行けない関係であることが何とも情けなかったが、仕方ない。
思い切るように深く息を吸って、背を向けた、瞬間だった。
「く…、せ、んせ…。」
「!!」
心臓が、口から飛び出すかと思うほど驚いた。…まるで金縛りに遭ったかのように体を動かせない。
息も止まって、振り向くことすらできず、かろうじて、目だけを閉じ、言葉を待つ。
しかし、一向に怒声の‘怒’の字も聞こえてはこなかった。
「…?」
恐る恐る振り向くと、野川は目を覚ましたわけではないようだった。
覗き込むと、顔を苦しげに歪め、額には酷く汗をかいている。
「魘されて…?」
脱力感に襲われながらも、今自分の名前を呼ばれたような気がしたことに、愕然とした。
自分に関わりある悪い夢、といえば、もうそれは…。
考えを深くしていた時、狭い長椅子で野川が寝返りを打とうとしたのに気づき、落ちない様に慌ててその肩を支えた。
そっと壁側に向かって押し、仰向けにしてやる。
「野川先生…。」
その場に膝をついて、そっと声にせず呼び掛けると、偶然表情が和らいだ気がして胸が締め付けられた。
息を殺し、触れるか触れないかの微かな感触を胸に刻みつける様に、指の背で痩せた頬を撫でた。
起こさない様細心の注意を払って、そうっと。
「ん…。」
…また。眉間が険しくなった。
自分は、どんなに気にかかることがあっても、辛いことに見舞われても、悪夢というのは滅多に見ない。
野川に嫌われる夢でさえ。
だから、こんなに次々と魘される野川が酷く心配になる。
…それも全て、自分のせいで…。
「…っ。」
起こしてやりたいが、起こすとまずい。
愛しているのに、今目の前にいるのに、何も出来ず、こんなにも遠い。
しかし、どうしても苦しげな顔を見ていられず、震える唇を噛み締め、撫でていた手を返して、今度は手のひらを頬にそっと当ててやった。
「…!」
すると、眉間が緩んだ。
温もりが心地良いのか、手のひらに頬を寄せる様にして、寝顔が、落ち着いた。
「…。」
驚きと、今にも溢れ出しそうな感情とで塞がれ、重く痛む胸を押さえながら、またそっと親指で頬を撫でた。
束の間でも、この安らかな寝顔のためならば、もう見つかってしまっても良い様な気さえしていた。
たとえこの手が、違う誰かの手の代わりだったとしても。
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