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親心
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「…黒木先生ではなく、私に、ですか…?」
みっともなく、声が震えるのを抑える事が出来ない。
「黒木先生にもこの後会う約束だそうです。君だけアポ無しだなんて、失礼な人だよね、全く…。」
確かに失礼な話なのだが、今はうまく言葉が飲み込めず、ただ頭を素通りしていく。
黒木抜きで、自分と何を話すかといえば、それはやはり黒木の今後の事であろうと思われた。
「忙しい、と申し上げたんだけれど、どうしてもご挨拶しておきたいから、と仰ってねぇ。」
それなら約束してからいらしたら良いのに困った方です、と藤沢はいかにも迷惑そうに言った。
「…承知しました。これからそちらに。」
「別に、会わなくても良いんですよ? 今日はもう帰った、という事にすれば良いだけです。」
「!? …っそれは…、…ですが…。」
「単なる居留守ですよ。良くある事でしょう。そのために私が電話を。…代表番号で呼び出されたら、君はきっと会うしかなくなってしまうから。」
此の期に及んでにこやかな藤沢の声に、気が遠くなりそうだった。
頭が混乱し切って、目線が空を彷徨う。
どうするべきか、と考えれば会うべきだ。
どうしたいか、と自問すれば…。
会いたい、とも、会いたくない、とも、言えなかった。
それならば、会って、今日の目的をはっきりさせるべきだろうか。
「…やはり、お目にかかる事にします。今日を避けても、きっとまた連絡があると思いますし…。」
そう言うと、電話口で藤沢は長い長い溜め息を吐いた。
「君って人は…。つくづく不器用な人だね。今日を避ければ、少なくとも心の準備は出来るというものでしょう。」
藤沢の声が少しずつ大きくなり、口調も強くなってきた。
応接室は、学長室と続き部屋になっている。扉を閉めているといっても気になった。
「橘先生は、今応接室に…?」
「聞かれたって、構いません。」
鼻で笑った気配がした。
野川は、藤沢が心配して(だと思うが)こんな風に橘や自分にも怒りを感じてくれている事が意外で、驚きながらも、とてもありがたく、胸温まる思いがした。
「…ご心配いただき、恐れ入ります。」
真っ直ぐに感謝を伝えると、少々面食らったのかしばらく沈黙が返ったが。
「…そう、いえ…、別に、君の心配だけをしているわけじゃ、ありませんよ。大学として、自分の意志でやって来た、入ったばかりの優秀な若手を、我々年寄りの我が儘で振り回すわけにはいかない、そう思うだけです。」
藤沢は、先に橘と会って何を話したのか、怒りが収まらない様だ。
それでいくとやはり橘は、黒木を取り戻すためにやって来たと見るべきだろう。
しかし…、自分と黒木を守ってくれようとして、無理して会うことはないと言う藤沢の気持ちは、とても嬉しく、その存在をこれまで以上に大きく感じながら、それでも。
黒木の事は黒木自身が答えを出すべきという気持ちを変えるに至らず。
「藤沢先生のお気持ちは有り難いですし、学長としての御立場も重々承知の上で、私には…、やはり、黒木先生を引き止める様な事は出来ません。」
「君は全く…。もういい加減に、死んだ様に生きるのはやめなさい…!」
「! …藤沢先生…。」
こんな事は初めてだ。
藤沢が、声を荒げるのを聞いて、大きく目を見開いた。
「自分が引き止める事で、彼が研究者としての選択を誤ると思っているなら、君は黒木先生を全く侮っていると思いますよ。」
野川からすれば…、そんな事は、百も承知だ。
そして、藤沢も、きっとそれを分かっていて敢えて言った。
…言わずにいられなかったという事なのだろう。
「…私も、そう思います。」
電話の向こうからの、諦めた様な大きな溜め息が、耳元の空気を震わせた。
「…一つだけ、忠告しておきます。何にでもやたらに頷いてはいけないよ? 橘先生は、相当なタヌキです。君の様なお人好しには、到底太刀打ち出来ません。」
あっさりと、いつもの口調に戻ってしまった藤沢の声は、しかし少しだけ掠れていた。
死んだ様に生きる…、小夜子も同じ様な事を言っていた。
死んでいくのではなくちゃんと生きていって欲しい、と。
ぼんやりと思い出しながら、野川は眉を寄せた。
もう、自嘲と雖も、笑う事は出来なかった。
真っ直ぐに届けられる優しい言葉の数々を胸に刻んだ。
「肝に銘じます。」
確とした口調で答えて、そっと受話器を置いた。
兎にも角にも…色々な事が重なり過ぎてボンヤリしている頭を何とかしようと、手始めに顔を洗った。
タオルで拭いながら、ただ何とも表現し難い不安と緊張だけが、この胸を押し潰さんばかりに積もっていく。
…時間はあまり無いが。
今履いているベージュのスラックスは仕方ないとしても、今まで仮眠をとっていたヨレた半袖だけは、せめて着替えて行くべきだろう。
野川は、大急ぎで備え付けのロッカーから、ビニールが掛かったままだった淡いブルーグレーの長袖シャツを取り出し、手早くクリーニングのタグを外した。
着替えて濃紺のネクタイを締め、鏡を前に溜め息を一つ。深く、長く。
自分の思いは、たった一つ。シンプルで、分かりやすい。
…黒木の希望を叶えてやる事。
清明に残ると言うなら、それで良し。
橘に付いて…行くと言うなら…、きっとその願いを叶えてやろうと思う。
どんな困難があろうと。
この身を、削ってでも。
胸の鈍い痛みは消えない。
飲み込み過ぎた思いは、鉛が沈んだ様に重く胸を圧迫している。
これからもずっと、そうであろうし、それでも良い。
やがて意を決した様に、鏡の中の自分に向かって、ほんの一瞬鋭い視線を投げたかと思うと、戸締りするのももどかしく、自室を後にしたのだった。
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