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親心2
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ーー初めまして。
そう言い合って名刺を交換し、応接室で向かい合わせに座った。
「いやぁ、あんまりお若いから、驚きました。勿論、お年は存じ上げていたんですがね。」
「いえ…、そんな…。」
褒め言葉では無いから余計、答えに困った。
対して橘は、もう古希を迎える年齢の筈だが…、そう思いながら、シニアの色気が滲んでいる今日の出で立ちを見つめた。
センス良く短く整えられた白髪メインの髪、中肉中背の身体、黒いTシャツにベージュのジャケットを合わせた袖を捲って、白のチノパンという夏らしい装い。
雑誌から飛び出した様なスタイルでも馴染んでいるのは、海外とこちらを往き来している為かも知れない。
これまで講演会やシンポジウム、大学広報誌などで見掛けた時は、比較的無難なスーツ姿ばかりだったから、つい見惚れてしまった。
「この度は、申し訳ない。夏休みに黒木を借りる件、野川先生を通すべきか迷ったんですが…。アレが、その必要はない、と言うものだから。」
「!」
思わぬ先制攻撃で面食らった。
きっと黒木の事だから、自分の口から言いたい、という意味だったろうに。
確かに嘘ではないのかも知れないが、藤沢がタヌキだと言ったその意味が少しでも分かった気がした。
「…そうですか…。ええ、まあ、その通りです。夏休みに黒木先生がどう過ごすかは、彼の自由ですから。」
「話が早くて助かりますよ。流石に藤沢先生には、ご挨拶しない訳にいかないから伺ったんです。この後、黒木とも約束はしていますが、それは、帰りに送らせるためでしてね…。いや、本当に、貴方には全く失礼をしてしまった。許して下さい。」
そう言って頭を下げようとする橘を慌てて制止した。
「いえ…、どうかそれ以上は仰らないで下さい。気にしてはおりませんので。」
顔を合わせた時からずっとにこやかな橘は、良い調子で話しているが、どこか含みがある様に思えて、同じく微笑みを返しながらも、野川は居心地悪い思いだった。
あの藤沢をして『到底太刀打ち出来ない』と言わしめた相手だと思うと、これから、橘が何を言い出すか、内心は戦々恐々である。
「せっかくお会いできたので、今日は、もう一つ、貴方にお話ししておきたい。夏休みに答えが出てからでも私は良かったんだが…、貴方にも、心の準備が必要でしょうからね。」
微笑みはどこか歪だ。…そう見える。
「…どういった、事でしょうか?」
まるで‘蛇に睨まれた蛙’だ。喉が引き攣れる程、緊張を感じている。
それを相手に悟られまいとして、余裕そうに微笑んで見せたのが良くなかったのだろうか。
気分を害した様子の橘はその双眸をスッと細め、顎を少しだけ突き出し見下ろす様な姿勢になった。
「黒木の、こちらでの仕事ぶりは、どんな様子でしょう? 貴方のお役に立っていますか?」
口元は微笑みを作っていても、目が笑っていない。
「私の…? ええ…、教員全体にとって、黒木先生は良き同僚だと思います。大学の中核を担う事になるのも近いと…。」
こちらが最後まで言い切る前に、えッ、とわざとらしい驚いた声を上げた。
「アレはこちらではまだ素人でしょう? そんなに人材が不足しているのかな、清明は。」
先程失礼を詫びた言葉に実が伴わないのは、それだけ橘が黒木を必要としているからだともいえるだろう。
しかし、こちらとしても、まさか今更、ただの助手扱いをさせる為に差し出す様なつもりは無い。
初めて学食で昼食を一緒に食べた時、慣れた様子で二人分の食器を片してしまった黒木を思い出し、苦い気持ちになった。
そう、今、自分は苦く思っている。
突然、久しぶりに自覚した色のある感情に驚き苦笑した。
いつも他人に対し何かしらの思いを感じるのは、大抵全てが終わった後であるのに、今日は。
「…何と言っても、お若いですからね。おまけに母校を離れてまでも、こうして恩師の橘先生に必要とされる程優秀な方とあれば、皆がその将来性に期待を寄せるのは当然だと思います。」
控え目を心掛け、伏し目がちに微笑んで見せると、静かになった応接室に、唸る様な溜め息が流れた。
「はっきり言います。アレを返していただきたい。」
「それは、黒木先生がご自身でお決めになる事です。私は勿論、たとえ橘先生であろうとも、勝手に決めて良い事ではないと考えます。」
「無論です。ですから、心の準備を、と。」
橘は不気味に微笑を深くして、優しい目をして言った。
「全くしょうがない奴です。黒木は…、どうも悩んでいる様子でしたよ。貴方とうまくいっていないと。」
私はそう解釈したんですがね、と、橘は続けた。
「…え…!?」
予想もしなかった言葉に、思わず絶句した。
まさか、そんな事…。
「…心配はしていたんです。あの男は可愛げがあって誰にでも好かれるタイプだが、貴方の様な個人主義の先生とは、合わないんじゃないかと思ってね。」
心配そうにため息をつくその顔は、わざとらしくも見えたが、真に黒木を気遣うようにも見えて。
「何かご不興をかうような事をしたんだろう、と聞いたら、慌てていました。そんなんじゃない、ってね。だが多分、図星だったんでしょう。何か貴方との事で追い詰められている、と直ぐに分かりましたよ。」
心当たりが無いとはとても言えない。
京都での夜の事、その後彼を避け続けていた事、彼が追い詰められていたというなら、自分が一番の原因だ。
身体の事でも心配を掛けて…それから。
「そ、んな事は…、ありません。少なくとも私は…。」
「貴方を責めているのではないんですよ。黒木は天真爛漫で悪意はないが、だからこそ苦手だと言う人も、多くはないがいるんです。」
一気に仕掛けてきた橘は、ここぞとばかり畳み掛ける。
「野川先生、改めて言います。アレを返していただきますよ。貴方の仰る通り、決めるのは本人だ。しかし…、そうなりますよ。必ず、そうなります。」
自信に満ち溢れた笑顔を、ハッタリか、そうでないか、最早見破る事は叶わない。
「黒木が私の傍にいた頃、どんなに向こうに行きたがっていた事か、貴方はご存知ないでしょう。一度、少しでも戻ったら、絶対にもう一度やり直したくなる。そう確信しています。」
勝った様な満面の笑顔でこちらを見ている視線に、まるで反応を観察されているようで不快に思う。
自信満々の橘を前にして突如また、大切な存在を失くしてしまうという不安が頭を擡げて、息が苦しくなった。
「野川先生には、そうなった時邪魔をしないでいただきたいのです。引き止めようなどとはしないでいただきたい。」
野川は、ハッと顔を上げた。
橘に言われた言葉を、全く意外に思い、苛立ちに眉根を寄せた。
「…もしもそれが、黒木先生ご本人の希望であれば、私には引き止めるべき理由はありません。寧ろ、希望を叶えられる様、全力で支援するつもりです。」
「… ほう、そうですか。うまくいっていなかったというのも、強ち間違いではなかったのですね。」
してやったりと微笑みを深くした橘に、黒木の今後を考えて不安を覚えた。
それにしても、目の前の大先生は、つまらない事を言う、と呆れながら。
「うまくいっていなかったという心当たりは私の方にはありませんし、そもそも、それとこれとは関係がありません。黒木先生が行きたいと言えばきっと行ける様、力を尽くします。その逆も同じです。私が申し上げているのは、そういう事です。」
互いに目は逸らさなかった。
さすがの野川も、橘の表情、手の動き、身体中全てを注視して瞬きもせずに見据える。
この場では、一瞬たりとも油断は出来なかった。
「…成る程、アレが残ると言えば、ここにいさせる、そういう事ですか?」
「…その通りです。」
低く渋い声が一段と低く、静かになった気がした。
緊張し過ぎて、心臓が痛い程鳴っている。
「格好良いんだね、野川先生は。…だが、ここに残して、黒木をどうしてやれるかね? その年で、学会発表も大した本数じゃない、君の様な内向的な…教授の下で。」
「…。」
実績を言われれば確かに、自分は何も言えない。
言い訳は出来なかった。
「自分の大学の紀要にだけ論文を書いて、適当に学生に教えて、教授やってる君に。…そんな人が教授をやっていける様なぬるい大学で。あいつをどうしてやれるって言うんだろうね? 」
口調は静かだが、本心は怒り心頭、国際的な大舞台で厳しくやって来たのだから尚更だろう。
「黒木には、学科や博士課程の頃から厳しくしてきた。君なんかよりも実績があるくらいだ。こちらの世界ではね。」
「橘先生の仰ることは、もっともです。確かに私は発表の場を避けていた部分があります。」
共同研究で一度つまづいてからは余計に…、とは言わなかった。
黒木の心をうまく誘導され、純粋な結論を妨げられたらたまったものではない。今はそれだけが全てで。
「学会で質の良い論文を発表し、大学や自分の名を売る事は、何よりも大学への貢献になるでしょう。それは取りも直さず学生を広く集める事にも繋がりますし、より良い研究の為にも研究費の面で有利です。ですが…、」
もう一度、橘をきちんと見つめ返した。
誠実に、心を込めた眼差しを送る。
橘は本当に黒木を大切に思って心配しているのだろう。
助手や使用人の様に扱うのは甘え癖のようなものであって。
橘ではなく、黒木を信じるのだ、と自分に言い聞かせる。
「我々が志す人文学という分野は、科学技術の最先端をいくものではありません。」
文学の研究というものは。
「研究の為に研究をする分野では無い、そう思っています。過去の文学を研究する意味は人それぞれでしょうが、私は、今を生きる者が心豊かに歩む為の活動であると思います。日本文学を研究することで、日本人の文化を知り、血を感じて、アイデンティティとする。その全てが、自分の生きる糧となる…、そういうものだと思います。」
そうなのだ。
自分は、研究を言い訳にして、現実を生きる事を放棄して来た。
しかし、それではいけなかった。
学生に教えて来た事を、今になって、この場でやっと。
「学会で発表し、それを交換し合うのも大切でしょう。しかしながら、今、目の前にある、学生達との時間、彼らを手助けしてやる事、それそのものが研究の礎なのです。貴重な文化なのです。」
自分は、このままではいられない。
少なくとも長い夏休みが過ぎた後、この思いに結論を見出さなくてはならない。
野川は、そう強く思った。
「…、…そんなに力まなくても、黒木を引き止めないと誓ってくれれば、それでいいんですよ。君の持論はどうでもよろしい。」
橘が、苦く乾いた笑いを寄越した。
「…お約束します。」
今はそう答えるしかなかった。
「青い考えからは、そろそろ卒業した方が良いんじゃないかね。」
「…青い考えを持ち続ける事を許されている今の環境は、恵まれていると感謝しています。それを特段に卒業すべきものとは考えません。」
そう言うと、橘は顔を顰め、不機嫌を露わにした。
「君の、その清く正しいプライドは、何処から来るのかな? 格好つけ過ぎると、以前の私の様に後悔することになるけど、良いの?」
橘が大きく息を吐いて言った。
考えてみれば、あちらも、緊張しているのかも知れない。
「後悔するもしないも、どちらも引き受けるだけです。」
胸を、針が貫く様な鋭い痛みが走り抜けたが、野川はもう、目を伏せなかった。
橘が、もう一度微笑った。
そこには、やっと、橘の真実の微笑みがある様に見えた。
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