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狸
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約束は午後8時、考え事に忙しく、3分過ぎてしまった。
応接室に迎えに行くと、いつもの如くギリギリ無理ない程度に若作りな橘が、遅い、と一言、素っ気ないセリフを投げて寄越した。
「申し訳ありません。」
軽く謝って流すと、すんなりと機嫌は治ったようだ。
「相変わらず、橘先生はお洒落ですね。」
「…そうかな? よく分からんよ。娘が婿のを買うついでに買ってくれるだけで。」
そういう時、橘が財布なのは承知の上だし、こう言うと更にご機嫌が良くなる事も分かっている。
「車を頼む。」
相変わらず横着な物言いだが、慣れてしまえば可愛いものなのだ。
「こちらです。どうぞ。」
学長室に一言声をかけて後、車まで案内して、助手席のドアを開けて乗せてやり、自分は運転席に乗り込む。
そこまでは、いつも通りだったのだが。
「…。」
てっきり愚痴大会になるだろうと覚悟していた車内は、不気味に沈黙していた。
おまけに自宅まで送るつもりが、学校までで良いと言い出す始末。
清明と関東国際は、距離としてはそう離れていない。
だったらタクシーに乗った方が自分を待つより早かったろうに。
不思議に思い、首を傾げた。
以前なら橘の考えは大体分かったが、今日は一体どうしてしまったのか、全く自分の想像の及ばないところに恩師の思考は落ちている様だった。
大学に着いて、車を止めて、やっと、橘が言葉を発した。
「さっき、野川先生とお会いしたんだ。」
唐突に告げられた言葉に、目を見開いた。
「え!? … っそれはまた…、何故ですか?」
そう聞けば、勿論ご挨拶だよ、と当たり前の様に答えが返った。
ご挨拶だなどと…、そんな事を気にするタイプではないくせに、とあからさまに怪しんだ視線を送った。
「…それよりお前…、やっぱり、野川先生に嫌われる様な事、したんじゃないのか?」
「…どういう意味です? 何故そんな風に…?」
以前の自分なら揺らいだかもしれないが、今は違う。野川の気持ちを知った今はもう。
「…意外か?」
「ええ、今はそんな風には感じていません。」
橘は、自信有りげしている事に驚いたのか、一瞬息を呑んだが、やがて言い辛そうな真剣な面持ちで言った。
「じゃあ…共同研究者として、役に立たないと思われてるのかも知れないな?」
「エッ…!?」
思わず声が裏返って、咳払いしてごまかした。
当初からずっと気にしているところを突かれ、胸が騒めき出す。
どういう事だろう。
橘が、一体何の話をしているのか、全く付いていけなかった。
何故、何処からこういう話が飛び出すのか、余りにも脈絡がない様に思えた。
…自分には。
「実は、野川先生に、大げさに言ってみたんだよ。黒木はきっとイギリスに来たがるから、その時は返して欲しい、とね。」
「そのお話はお断りした筈です。でも…、それが、何故そういう話に…?」
「引き止める理由はない、と。」
「…え…?」
「だから。」
一度言葉を切った橘は、深い溜め息を吐いたかと思うと、いかにも気の毒そうな口調で言った。
「…私も、こんな事を本人に言うのは酷だと思うが、お前を引き止める理由はない、と、あっさり仰ったんだよ、野川先生が。」
…何かがおかしい。
野川が、橘に向かってそんな事を言うだろうか。
橘はどういう聞き方を…。
「驚いたのか? そうだろうな。私も驚いたよ。」
さも同情しているという素振りの橘は、肩をポンポンとあやす様に二度ほど叩いて、そうしてからドアを開け、車を降りた。
まさか、それが言い難かったから、黙りがちだったとでもいうのか。
橘に限って。
慌てて後を追う。
「! ッ橘先生…! …ほ、他には、何か…?」
「他? いや。…まあ、世間話はしたがな。」
背を向けた状態から、首だけ振り返って橘は言った。
愕然として、足元に視線を落とすと、追い討ちを掛ける様にまた言葉が降ってきた。
「やっぱり、お前はこっちが向いてるんじゃないのか? まあ、先ずはイギリスに行って、向こうでゆっくり考えてみなさい。」
慣れ親しんだ正門の向こうへ遠ざかる背中を、言葉も無く見送ってから、呆然と車に乗り込んだ黒木は、頭を必死に働かせようとした。
何故だか、呼吸が乱れている。
野川は何故そんな事を言ったのだろう。
どういう意味で、どんな話の流れで、『引き止める理由はない』などと。
そもそも、橘が言っているのは事実なのかも怪しい。
しかし、嘘を吐いている様にも見えなかった。
「引き止める理由はない…?」
同性同士の恋愛を悲観して、自分を遠ざける為…。
それが一番最初に思いついた理由だ。
だが、野川がそんな風に私情を持ち込むだろうか?
仕事の為なら自身の感情を殺す事はしても、その逆はない気がするのだ。
今回出入り禁止だと言われた時も、自分で結論を出せとの言葉を、疑いもしなかった。
…そう言われれば、何故自分は、信じたのだろう。
野川は嘘つきだ。その事はよく知っている筈だったのに。
では、やっぱり、本当に役立たずだと?
「…! そんな…、まさか…。」
共同研究を引き受けた時から今の今まで、そんな事を思っている気配は無かった。
紀要の論文の査読も、よく出来ているとの返答だったし、来年の学会の準備やテーマも、これで大丈夫だと言ってくれ…。
しかし…、確かにメールでの遣り取りばかりで、ろくに顔も合わせていないのだ。
恋愛感情という意味での気持ちは、自分にある筈。それは先程確信したばかりだ。
では、研究者としてなら、どうだろう。
共同研究を引き受けてくれたきっかけは何だったか、と思い出してみれば、論文の出来云々では無かった事に思い当たる。
組んでみたいと思ったから。…そう言ってくれた。
でもそれだけだ。
根負けした野川の慈悲や憐れみで、一度だけ組んでみた…?
もしそうだとしたら。
自分は、どうすれば。
出口のない迷路に高い空から放り込まれ、立ち竦んでいるかの様で。
こんなにも仕事で心細い思いをするのは初めてだった。
『由良のとを わたる舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな』
…ぼんやりとした頭に、恋の不安で途方にくれ、焦燥に駆られる男の歌が浮かんだ。
仕事で目指すべき背中が、濃霧に紛れて見えなくなったかの様な今の心情は、正に櫂を失った舟そのものである。
後は流されるままに何処へなりと流されていくしかなす術もない。
それは自分にとっては、先程望みを見出したはずの恋の行方までもを左右する大事だった。
橘も野川も、まるで自分が信じて知ったつもりになっていた人物とは全く別人になってしまったみたいに感じて、心が根底からぐらつき、黒木はそれからしばらく車を出す事も出来なかった。
ただ、吸うにも吐くにも苦いばかりの重い空気が、これから始まる長い夜の訪れを告げていた。
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