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失言1
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8月1日、試験期間もそろそろ全日程が終わりに近付いている。
ただ、自分の受け持つ数少ない講義は常にレポートが主であるし、今年は黒木が最も面倒な講義を引き継いでくれた。
したがって、今年度前期は卒業論文のテーマや内容、進め方の相談に乗ってやったり、あらゆるレポートの書き方のアドバイスをしたりと、去年以前よりもっと細やかに、ゼミ生の面倒を見ることができた気がしている。
…と言っても、当の学生達がそれを喜んでいるかどうかは微妙なところだが。
クス、と苦笑する。硬かったその表情も、ゼミの学生達の顔を思い浮かべれば、自然と和らいだ。
午前7時、いつもの通り早過ぎるほど早めに出勤して自室に向かい、研究棟の階段を2階へ上った。
そこで、ギクリと立ち止まる。
「野川先生…。」
早朝だというのに、そこには黒木が、もう随分待っていたとでもいうような思い詰めた表情で立っていて、動揺した視線を寄越していた。
それはまるで、いつか研究室の前で待ち伏せされていた頃に時が戻った様で。
…らしくもなく曇った瞳は、傷付いている様にも見えた。
「…おはようございます。」
喉に詰まりそうな言葉を、無理矢理に吐き出してから、早いんですね、と言葉をかけた。
こちらも動揺しているのは同じだが、伏し目がちに微笑んでごまかした。
いや、…最早ごまかせはしないだろうか。
黒木もハッと気がついた様に、おはようございます、と挨拶を返して、一旦唇を結ぶ。
緊張か、それとも何か言い辛い事を告げに来たのか、逡巡してその口を重くしている。
何を言われるのか、そう恐れていながらも、会いたかったとか、愛しいとか、心配だとか、抱きしめたいとか…、鼓動がうるさいくらいに騒いで胸を締め付けた。
もう、きっとこの気持ちに気づかれている、そう考える程に、自分の気持ちを抑え込む事が一層難しくなって、この半月、ずっと苦しんできた。
しかしまだ、今ほど至難に感じた事はなかったが。
「…すみません…。どうしても、…野川先生にお聞きしたい事があって…。」
七夕の折に研究室で会った時、きっと心を見透かされてしまった、そう思った。
実際、あの時黒木は、こちらの気持ちを確かめんと必死だった様に見えた。
にも拘らず、半月以上も音沙汰が無く、彼らしくない気はしていたのだが。
しかし、その話をしに来たにしては、この空気は余りにそぐわない。
辺りがピンと張り詰めた緊張感で満たされて、息苦しい。
どの道、今は室に招き入れることは出来ない。
こんな早朝だ、まだほとんど誰も来てはいないだろう。
誰に聞かれる訳でもなく、核心にも触れられずに済む、寧ろ自分にとっては都合が好い場所だ。
…思わずまた苦笑した。
どこまで自分本位に物事を考えるのだろう。
恐らくは、また自分のせいで傷付いて思い詰めている大切な存在に、心配して優しい言葉を掛ける余裕すら持ち合わせない、薄情者。
「…何でしょう?」
また。
優しく言ったつもりが、緊張に呑まれ冷たい口調になってしまった。
「あの…。…あの日、橘先生と、何をお話しになったか、…教えていただきたいんです。」
「!? …橘先生と、ですか…? 」
今になってどうしてそんな話を蒸し返すのか、疑問は言葉にしないでも伝わった様だった。
「本当はすぐにでも、伺いたかったのですが…、レポートの採点に、手間取ってしまって…。」
確かに…学部生二学年分1600人近くのレポート審査は大変だ。自分も12年程やって来たが、本当に疲れたものだった。
「これでも急いだつもりだったんですが…。19日から10日間も空けてしまいますし。」
黒木のその言葉で、また一つ思い出した様にズキズキとした胸の痛みが増える。
今朝は夢こそ見なかったが、4時には目が覚めた。
二度寝はしない。…眠るのは、好きじゃない。
「…なるほど。」
あの時の会話は、余り思い出したくはない、というのが正直なところである。
橘は、自分の中に何とも言えない不穏な気持ちを残していった。
あんなに自分の事しか考えない人も珍しい。
いや、そこに黒木のためを思う気持ちがちゃんと存在しているから、かの人は厄介なのだろう。
自信が過剰な事には、実績という裏付けがある。
となればもう、橘の独断専行を止められる者は、そうそういないに違いなかった。
「確か…、イギリス行きの事で挨拶が遅れて申し訳ない、と私の事を気に掛けてくださいました。それから…、こちらでの貴方の仕事ぶりはどうか、と、ご心配なさって…。」
「それだけですか?」
「え…?」
焦っている様で、苦しんでいる様で、その瞳は切実そのもの。
黒木の様子は妙だ。思えば、今になってあの時の事を聞いてくるのも。
動揺を悟られまいと視線を伏せるものの、ひょっとして、何を話したか知っているということだろうか、そういう考えに行き着いて、野川は背中に冷や汗を感じた。
言葉だけが伝わったのなら問題はない筈だが、その時の流れやこちらの表情までをも具に知らされているとしたら非常に困る。
「他には、何か?」
ドアを背にして立っているのは黒木の方だった。
今日こそは、逃げ場を作らない様に、という事かも知れない。
「他には…、世間話を。」
「世間話とは、どの様な?」
聞かれてつい視線を逸らした。
不安げに揺れる瞳が、二歩三歩と歩み寄り、その近付いた距離に耐え切れなかった。
「隠さないで教えてください。…橘先生によれば、私を『引き止める理由はない』とあっさり仰ったとか…。本当でしょうか?」
「!? …!」
余りな事に、咄嗟にショックを隠し切れなかった。
言葉も出ず、ただぼんやりと藤沢の言った’タヌキ’という表現を思い出す。
しかしまさか、ここまで大胆で底意地の悪い謀をやってのけるとは。
巧妙なのは、橘の言葉が創作ではないという点だろう。
それはまるで、確かな意図を持って編集引用された芸能ニュースの様に、事実野川の言葉なのだった。
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