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失言2
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黒木は、じっとこちらの表情を窺っている。
全ては自分の不徳のせいであるのに、無性に苛立った。
自分が、彼を、引き止める理由がない、などと…。
そんな筈がないだろう。
そんな意味であるわけがない。
腹を立てる権利も資格も、自分にはないというのに、ただ、彼が何故そこまで自信がないのかという事に、もどかしい気持ちになるのを止められなかった。
「野川先生…?」
返答を探している間にも、黒木は、傷付いた様だった。
悲しみと苦しみとを露わに、その眉間に深く縦皺を刻む。
「…少し…、誤解が、ある様です…。」
怒っているのか、恐れているのか、それとも、嘆いているのか、自分でももう分からない。
不測の事態に追われ自らの激情の海に引きずり込まれる。
「誤解…? それは…、どの様な?」
果たして…、事情を説明しても良いのだろうか。
誤解という言葉に微かな望みをかけるように全力の視線を寄越す黒木を前に、尚も二の足を踏んだ。
言った通り、誤解と言えば誤解だろう。
橘が、自身の思惑通りに彼を取り戻そうとした計略による。
今、自分が事情を話せばどうなるだろう。
きっと、黒木は橘に対して信頼する気持ちを失くしてしまうだろう。
そうなれば、確かに、再来年以降の渡英の話はなくなるのかも知れない。
しかしそれだけに留まらず、夏休みの手伝いにまで支障があったら。
こちらからすれば橘の自業自得だが、約束は約束だ。
…決定的に橘の怒りを買う事になり、これまで大切にしてきた彼と恩師との関係も終わってしまう可能性だってある。
そればかりではない。
最も危惧すべきは、黒木の今後の人間関係に、幅広く影響を及ぼす事にもなりかねない、ということであって。
「それは、…貴方が戻ったら…、」
「何故今ではいけないんです? 今教えて下さい…!」
黒木が、話を遮り、悲痛に声を荒げた。
…橘でなくとも、いつでも、今直ぐにでも、信頼を失くして嫌われるなんて簡単にできてしまうのだろう。
胸の痛みに呼吸を縛られ、思わず一瞬目を閉じた。
「…貴方は、今はとにかく、向こうで橘先生のお役に立つ事だけを考えて下さい。」
「そんな事は、…貴方に言われるまでもない事です。」
「…そうですね…。…余計なお世話でした。」
黒木の意に沿わない事しか言えない。
目を合わせる勇気も、顔を上げる気力も底をついていた。
「…野川先生、」
「?」
視線を少しだけ上げて、言葉の先を促した。
「…夏休みの事ではなくて、橘先生に付いてイギリスに行くという話は、いただいて直ぐにお断りしたのですが…。」
「…!?」
直ぐに断った、というのに驚いて、つい反射的に黒木を見上げる。
しかし確かめるより先に、そこにある責める様な、それでいて捨てられて傷ついた仔犬の様な瞳に、また息を奪われた。
「もう一度、考え直してみる事にします。」
「! え…?」
「もしもそうなった場合、野川先生には大変なご迷惑をお掛けする事になりますが…。」
野川は、慌てて目を伏せ微笑んだ。
今は自分も、捨て犬の様な目をしていると思うからだ。
「…私の、迷惑なんて…、貴方はそんな事、考える必要ありません。」
「…それだけですか? 他には何も感じませんか? 本当に?」
もう知られている気持ちを、もう一度隠そうなどという無謀をするつもりはない。
イギリスから戻った後も、黒木が自分を想い続けてくれる様な保証もない。
それでもまだ言えないのは、橘に対する意地か、いつもの臆病か。
ーー君の、その清く正しいプライドは、何処から来るのかな?
そんな良いものではない。自分は何かを背負うだけの気概もない、ただの卑怯者だ。
ーー格好つけ過ぎると、以前の私の様に後悔することになるけど、良いの?
後悔を引き受ける、だなんてそんなものは、良い事でも何でもない。
ーー死んだ様に生きるのはやめなさい…!
藤沢は、自分をよく理解してくれている…。
「…私は、貴方に自由でいて欲しいだけです。自由な心で、これからの全てを選びとって欲しい。誰かの望みや思惑に左右される事なく。」
黒木は、今度こそ明確に非難する瞳で野川を見た。
「野川先生の仰る意味が、よく理解出来ません。私は、自分の自由意思でここに立っている。貴方の論文に出会い、貴方という人に出会うためにここに来たんです。私が清明に残るか、そうでないか、元より誰に何を言われようとも、勝手にするつもりです…!」
「…そうですね。ええ。…分かっています。」
我ながら、声が震えない事に感心しながら、やっとの思いで言葉を返す。
視線を下げたまま息を殺していれば、背の高い黒木の溜め息が頭から降ってきた。
「野川先生…、こんな事、言うべきでないのは重々承知していますが…、…。」
黒木は、躊躇う様に一旦言葉を切ったが、やがて意を決した様にグッとその双眸に力を込めた。
「向こうは、テロも頻発している様ですし、万が一がないとも限らない。」
「え…?」
黒木の強張った声が、頭の中で繰り返し、ハウリングを起こして、まるで警報機の音の様に冷たく温度を無くしていった。
これ以上言わせてはいけない、そう思うのに、諌める事も、耳を塞ぐ事も出来なかった。
「私が、もしもイギリスから戻らなかったとしたら…、そう考えたとしても、貴方は同じ事を仰るのですか?」
思わず愕然と長身を見上げて、サッと背を向けた。そうして身を捩る様に黒木のすぐ横を素通りし、自室のドアに手を掛ける。
顔を見られる訳にはいかなかった。
苦痛に顔を歪め、肩を震わす。
「…貴方は、戻ります。そうでないと困る。…1600人分のレポート審査は、後期の方が大変ですから。それに、」
俯いていると、涙が零れるというから、顔を前に向け、ドアを睨んだ。
「いつ、何処に在っても、事件事故は起こり得る。そんな事、一々気にしていたら、身が持ちません。」
失礼します、と背中へ冷たい声を投げ、結局自室へ逃げ込んだ。
ドアに凭れ掛かって音がする程歯をくいしばる。
最後は声が震えてしまったし、『身が持たない』なんて、“心配だ”と言ってしまった様なものだ。
コンコンコン…
控えめなノックの音に、身を縮める。
黒木の声が追いかける様に届いた。
「野川先生、聞こえていますか…?」
「…まだ、何か…?」
「今のは、失言でした…。あの…、許して下さい。浅はかでした。やはり言うべきではなかった。」
黒木の優しい声音が、胸を軋ませる。
こちらが悪いのに、こんな風に。
…このままでは、あまりに可哀想だ。
黒木はただ傷付いて、優しい言葉を求めただけだというのに。
直ぐにもう一度ドアノブに手を掛けるが、それ以上どうすることも出来なかった。
こんな潤んだ目で、震える唇で、甘えた心で、どんな言葉を掛けるつもりだ。
「…ッ。」
振り返ったドアに、まだ震えの治らない手をそっと当てた。
先程彼が言ったのは、確かに失言だったかも知れないが、事実だ。紛れもなく。
脳裏には、両親の事故現場に向かう時の機内の風景や、ホテルの窓から遠く見えた映画の様に美しくひろがる草原、映画には変わり得ない起こった悲しい現実と、実体を無くしたかの様に現実感なくフワフワと漂っている自分。
…万が一。
「万が一にもありません。ちゃんと、戻りますから。」
キッパリと言ったその声からは、彼の思い遣りが十分に伝わって来た。
こんなにも誰かを恋しく思う時が来るなんて、思いもしなかったのに。
「…分かりました。聞かなかった事にします。」
「野川先生、」
「そろそろ、仕事を始めても…?」
できる限り優しい口調で言った。
少しの間の後、分かりました、と落胆した声がし、しばらく経って隣室の扉が開閉する音が続いた。
「…はぁ…。」
静かにドアに額を押し当てると、夢で何度となく見た不吉なシーンがチラついて、重苦しい溜め息を吐く。
夢以外では、できる限り考えない様にしてきた。
彼の身に重大な…何かが起こる様な事も。
橘の許に戻り、長期間日本を離れてしまうかも知れない事も。
また、そうなれば、心休まらない日々が続くだろう事も。
「…。」
胸が痛いのか胃が痛いのか、分からないがとにかく、上半身全てが苦しくて、痛くて、顔を顰めた。
相変わらず、愛しい名前を呼ぶ事すら憚られ、唇を噛み締める。
ーー好きなら’好き’、嫌なら’嫌’、心配なら’心配’、恐いなら’恐い’。…自分の気持ちを、自分くらいは認めてやれ。
ふと、早坂の言葉が胸に蘇った。
心は自由だ。誰にも悟られなければ何を思おうと許される筈だ。
なのに、行かないで欲しい、傍にいて欲しい、そんな正直な気持ちを思うことすらしなかったのは、ただただ恐ろしかったからだ。
背負う過去の悲しみも、愛情も、執着心も、何もかもが重くて、持ち切れそうになくて。
深い溜め息を吐いて目を伏せると同時に、これまで辛うじて睫毛にしがみついていた涙が、静かに零れ落ちていった。
それを他人事の様にどこか遠くに感じながら、野川はそのまましばらく呆然と立ち尽くした。
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