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異変
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どう考えても橘の話は不自然だ、と…そういう結論に至ったのは、七夕の翌朝すぐの事だった。
にもかかわらず、確かめに行くのが月初めになってしまった理由は、野川にも説明した通りだ。
引き継いだ大教室の講義、二枠分の評価を、試験でなくレポートにしたばかりに、審査と採点に手間取ることになった。
全ては、野川のやり方に倣ったからだが…、実際こんなにキツいとは思っていなかった。
そもそも誰が考えたのか、【国文学概論と国文学史】なんて、講義名自体大雑把で、いかにも厄介だ。
勿論、時代ごとに上手く切り取って進めていくし、2年間続くため、各時代の繋がりに気を配れば、文学の大きな変化を掴むには有効だが。
とにかく、これをもう10年もこなしていた野川は、どれだけ自らの仕事に忠実で且つ学生思いなのだろう、と黒木はその実直さに舌を巻く思いだった。
もしもこれを別の教員から引き継いでいたら、もっと悲惨だった事だろう。
何しろ野川は。板書プランも含めた長年の蓄積を全て、少しも惜しむ気配すら見せずに、下げ渡してくれたのだから。
普通はたとえ頼まれても全てを渡すという事はしない。
と言うより、引き継ぎ自体ない事もある。
より多くの考えに触れる機会を奪う、という意味では、学生のためにもすべきでない、という意見も多いだろう。
引き継ぎが面倒だっただけかも知れないが、橘はそうだった。
しかしそれら全て承知の上で、今年二年に上がる学生のために引き継ぎをスムーズに、というのが、野川にとって最も優先されるべき事で、それが当然で。
…こうやって野川の仕事に接する度、その懐の深さや心の温かさにまで触れる様で、奪われるみたいにまた惹き込まれていく。
「はー…。」
それにしても、と。
あれから見苦しい言い訳ばかりの自らを省み、暗鬱とした表情になった。
内心でどう取り繕おうと、野川と直接向き合う事を恐れて、先延ばしにしてしまったというだけの事。
今もまた。
…完全に夏休みに入って、学生の影も随分と少なくなった学内。研究室で、苦り切った溜め息を吐きながら、黒木はすっかり頭を抱えていた。
後1週間程で発たねばならないと言うのに、ドア越しの会話を最後に10日余りも野川の顔を見ていない。
あの日以来ずっと、愕然として自分を見上げる、頼りなげで弱々しい視線が、頭から離れないのだ。
野川は…少し誤解がある、と言った。
橘はいよいよもって何か不都合を隠していると判明した訳だが、それを教えてもらえない事に勝手に傷つき、またしても莫迦をやってしまった。
「……クソ…っ。」
『貴方は、戻ります』なんて、どこまで狂おしくさせる気だ。どこまで愛しい。
…泣いていたかどうかこちらからは分からなかったが、背中や肩が明らかに震えていて、余りの自分の愚かさに言葉を失くした。
野川は以前、人に冷たくするのは苦手だと打ち明けてくれた。
次の瞬間には何が起こるかわからない、人の命は儚いものだ、と。
優しい野川の事だから、日々の悪いニュースを見て胸を痛めているのかも知れないが、ひょっとすると、過去に何か悲しい出来事に遭遇したのかも知れない。
あの時ぼんやりとそんな風に感じた事を思い出す。
万が一戻らなかったら、なんて。
やはりあれは、野川には言ってはいけない事だったのだ。
気付いた後は、ただもう夢中で、ちゃんと戻る、と自分の失言を否定するのがやっとだった。
信じ切れないのは自分。それは、自分の中の問題であって。
なのに野川を責めるなんて。
ただ、野川の事でなければ、こうも簡単に騙されはしなかったのに、と思うと、返す返すも自分の不甲斐なさや情けなさに腹が立ち、一層野川に対して申し訳ない気持ちが湧き上がった。
今目の前に自分の藁人形でもあったなら、五寸釘を何本でも埋め込んでやりたい気分だ。
橘に対しては、もはや何をか言わんや。
キッパリと『清明を離れる気はない』と明言していたにもかかわらず、それを野川に伝えておかなかった事も、今となっては悔やまれた。
…全ては、後の祭りだ。
「はぁー…。」
忌々しく溜め息を吐き、頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
…あれから橘には連絡がつかないままだ。
真相を問い糺し、文句の一つも言ってやりたいのに、電話には出ないし、メールにも返信がない。
チケットの手配はとっくに済んでいて、後は荷造りして飛行機に乗り込むだけ。
先にイギリスに入っている橘へ、こちらから連絡をするとしたら、それはもうイコール都合の悪い事、と…どうやら向こうも自覚しているらしい。
隠すつもりはあまりないが、だからと言って簡単に明かすつもりもない、本当にどこまでもタチが悪い。
たとえば、恩師を真似てハッタリをかけたりでもすれば連絡がつかないこともないが、馬鹿らしくなってやめた。
どの道、このイギリス行きは中止にできない。
自分の事を呼び戻したがっている橘を完全に諦めさせるためにも、親不孝と言われた自分の行いにケジメをつけるためにも、そして何より、野川を安心させるためにも。
大体、一度した約束を反故にするなど、野川その人に叱られるに決まっている。
誤解があると言いながら事情を明かさなかったのも、つまるところ自分のために橘を庇ったという所だろう。
…正直、自分のためを思うなら全てを明かしてくれた方が早い、と黒木は思うが、それが野川という人なのだから仕方がない。
もどかしいが、愛しい。
全てがその優しさから生まれる、苦しみや葛藤を、まるごと抱き締めて甘やかしてやりたい。
あんな風に夢に苦しまないで、安心して眠れるように、傍で心を砕いてやりたい。
自分が。
自分ならば。
先程までと違って、熱く切ない溜め息を吐いた。
いつまでも、何も手につかないなどとも言っていられない。
黒木は、もう随分前にプリントアウトした送付票をやっと手に取って眺めた。
年末の学会に発表者として参加するべく、発表要旨を事務局に応募する準備をしているところだ。
メールは先程送信済み。後は同じ物を郵送するだけだった。
締め切りは9月頭。余裕を持って出せそうな事に少しは安堵し、胸を撫で下ろした。
「…。」
これには野川も出す予定だったが、今回は見送られた筈だ。
相変わらず、顔色は良くなかった。
夏休みだというのに、出勤時間はいつも以上に早い様で、今朝も自分が着いた8時前には既に名札が返っていた。
…また、病院に連れて行くべきだろうか。
仕事も一段落ついた事であるし、たとえ合わせる顔が無くても、多少強引でも、背に腹は代えられない。
そう考えたところで、何気なく、いつもの癖で隣室の物音に耳を澄ました。
午前10時過ぎ、今頃は好きなコーヒーを新たに落とし始める時間かも知れない。
あの作業をしている瞬間の野川は、どことなく嬉しげで、ソワソワしていて。
…自分が言うのも何だが、すごく可愛いと思う。
コーヒーなど、特段好きでもなかった筈なのに、いつか野川の入れてくれたそれだけは、とっておきの味がした。
思い出して、胸が焦げる程、目頭が熱くなる程恋しくなった。
自分は野川に、暗い表情ばかりさせている。
どうしたら、もっとあの人の心に、ちゃんと寄り添えるだろう。
黒木は、顔を歪めて胸の痛みを堪え、口元を手で覆った。
側近くで、幸せそうに話し微笑う野川を、もう一度取り戻せるなら、自分はもうそれ以上は何も望まない、そう言いたいのに…。
ガシャァン!!!
「!?」
突然轟いた大きな音に、ビクリと肩を跳ねさせ目を見開いた。
何の音かわからないが、普通ではない。
何かが、ぶつかった音…、落ちる音、か…。
一体何が。
「…?」
自室から顔を出してみれば、二室隔てた向こうの室から、石倉も顔を出した。
「! 石倉先生。」
「何の音でしょうね? そっちから聞こえた気がしたけれど。」
その言葉を聞き終わらない内に、足元から蛇が這い上がるかの様に嫌な予感がして、室を飛び出し隣室を勢いよくノックした。
「野川先生! 何かありましたか?」
返事はない。
ノブを下ろせば、鍵は開いていた。
嫌な予感が外れていれば良い、と願いながら、失礼します、と声を掛けた。
ドアを開けると同時に、まずポール型のハンガーが土台から倒れているのが目に飛び込んで来た。掛けてあったらしき鞄も落ちている。
思わず竦みそうな足を無理に踏み出し、そして。
両脚を力無く折ってへたり込む野川を見つけ、全身が青ざめた気になった。
すぐ傍のパイプ椅子に片肘を置いて寄りかかり、苦しげに浅い呼吸を繰り返すその姿にショックを受け、駆け寄る足が縺れそうになる。
「だ、大丈夫ですかっ…? 怪我はっ?」
野川は、眉を寄せて薄く目を開け、大丈夫です、とほんの少し微笑んだ。
大丈夫か、と聞けば、大丈夫、と答えるのが野川だ。
しかしこんな時まで、と切ないやら悔しいやら心配やらで、胸が複雑に痛んだ。
優しく肩に手を添えると、身体の緊張を少しだけ和げてくれた気がした。
見ると確かに怪我はない様だが、汗を異常にかいているその顔は真っ青で、そっと触れてみた手は酷く冷たい。
すぐにまた目を閉じてしまったのは、開けていられないからか…。
「貧血を…起こしただけなんです…。…ハンガーを倒してしまって、大袈裟な音が、しましたが…。……ッ…。」
話をするのも辛いのだろう。
額に手をやったところをみると、頭痛もする様だ。
「黒木先生、すぐ病院へ。」
「っ! はいっ。」
石倉の声でハッと我に返って止まった思考を必死に動かす。
木曜日の午前、早坂医院は、休診ではなかった筈だ。
意識はある以上、救急車を呼ぶより、車で主治医の元へ連れて行く方が話が早いと思われた。
少しの間だけ石倉に野川を預け、自室に駆け戻り、兎も角もPCを終了させた。
そうして鞄をひったくって引き返す。
焦って手の中で鍵が躍り、室を施錠するのに無駄に時間がかかってしまった。
お待たせしました、と言いながら、石倉に手を借りて野川を背負うと、軽い…、と驚いて思わず目を見開いた。
「エレベーター、来たよ。」
室から出ると、いつの間に来たのか、藤沢がエレベーターを止めて待っていた。
「藤沢先生…。」
「先に行って。野川君の荷物は石倉さんが。」
落ち着いた雰囲気の藤沢を見て、自分も少し落ち着きを取り戻したものの、うまく言葉も出て来ず、ただ黙礼を返すのがやっとだった。
エレベーターのスピードがやけに遅く感じられた。
駐車場に出て車を開け、直ぐ様後部座席に自分の鞄を放り込む。
助手席に野川をそっと乗せ、ベルトを締めてから少しシートを倒してドアを閉めると、丁度野川の鞄を手にした石倉がやって来た。
「野川先生を、頼みましたよ。気を付けて。」
荷物を受け取りながら見つめ返した石倉の目は、優しい労わりに満ちている。
嫌われていると思っていたが、案外間違っていたのかも知れない。
「…承知しました。」
しっかりと頷き返して車を出した。
今、自分が動揺している場合ではない。
時折、助手席で苦しそうに眉を寄せる野川に視線を送るが、目を開けたり、言葉を交わす余裕はなさそうだった。
黒木は、振動を出来るだけ抑えられる様優しい運転を心掛けつつ、ただひたすらに早坂医院を目指した。
運転に細心の注意を払う事で、今にも暴れ出しそうな不安をやり過ごしながら。
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