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早坂の迷い
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10時40分。
その時早坂は、診察室で適温に冷めたほうじ茶を飲みつつ、診察が終わって直ぐの患者のカルテ入力をしていた。
季節柄もあって患者は比較的少ないが、ホームドクターとして頼みに思ってくれる人々が多く、祖父の代から続く盤石な地盤に感謝する毎日だ。
天候が悪いと、心身に不調を訴える人も増えるものなのだが、しかし、今年は今日の様な悪天候が続いている割に、心配した程そういう患者は多くなかった。
つまり、早坂医院は経営上、平和そのものだった。
「…ちょっと! 困ります…!」
突然、焦ったような声が受付から聞こえた。
反射的に振り返った早坂は、引き戸の小窓の向こう、ここからは見えない待合へ意識を向けた。
「?」
すかさず深雪が、見てきます、と言い残して出て行った。
…ただの急患にしては様子がおかしい。
しかし、子供の体調が急変するなどで、動転した親が受付を素通りすることは、稀ではあるが有り得ないケースではない。
小さく息を吐いて徐に立ち上がり、様子を見ようと扉を開け、首だけ出して覗き込んだ。
「!? イケメン王子…。」
急いで戸を全開し、待ち構える。
深雪に先導されて急ぎ足でやって来るその男が、誰かを背負っている事に気が付く前に、今朝の着信を思い出した。
確か8時半頃だ。珍しく野川本人から体調が悪い旨の連絡を受けて。
…だがまさか、数時間後に担ぎ込まれる事になるとは思いもしなかった早坂は、思わず忌々しげな顔で、舌打ちをした。
「早坂先生…っ!」
黒木の声が震えていた。絞り出すような、叫ぶような悲痛な声を聞いて、気が重くなり眉を顰めた。
「奥へ。」
簡単な仕切りの向こう、隅のベッドへ促す。
すれ違いざま、ちらりと視線を交わして野川に意識があるようだとわかると、人知れず安堵の溜め息を吐いた。
「次の患者さんには、15分ほどお待ちいただけるようお願いしました。」
背から降ろし寝かせるのを手伝いながら、深雪が淡々と告げた。
その声を聞いて、急速に頭が冷えていく。
医者が不安を晒してどうする、と腹にぐっと力を入れた。
「どういう状況か説明しろ。」
野川に言ったつもりだったが、隣の男が早口に経緯を説明してくれた。
見つけた時座り込んでいた事、顔色が真っ青だった事、頭痛もするらしい事、そして本人からは、貧血だと聞かされた事。
「頭痛に貧血? お前最後に飯食ったのいつだ。」
「…昨日の昼、が最後、だと思うが…。」
きちんと食事をするという約束はどうなったのだ。
相変わらずの酷い隈。
曖昧な返答に奥歯を噛み締めると、こめかみには苛立ちの証の様にうねりが浮かんだ。
深雪達2人のナースには、点滴、採血、胃カメラの準備と指示を出すと、それぞれ慌ただしく動き始める。
「は、早坂先生、あの、…」
「悪いが出てくれ。待合だと人目を集めるから、車で待っててくれるとありがたい。」
黒木は衝撃に目を見開いた。眉を寄せ、動揺した心と同じく瞳を揺らす。
しかし、かわいそうだがここにいても邪魔なだけだ。
現時点では、大丈夫だ、なんて気休めも言ってやれない。
黒木が、ほんの一瞬目を瞑って、意を決したように口を開きかけた、その時だった。
「黒木先生…。」
野川のか細い声が、そっと男を呼んだ。
「! は、はいっ…。」
慌ててはいたが、場違いな大声は出さず返事をして、野川に視線を注ぐ。
一言一句聞き漏らすまいと集中する黒木は、全身から心配な気持ちを表出していて。
その様は、彼を良く思わない早坂が見ても十分に好意的に受け留めることができた。
「…お手数をおかけしました。貴方は、帰って下さい。」
「え…っ。」
その言葉に衝撃を受けたのは、決して黒木だけではない。
おいおい、と思わず声に出して言い、親友を窘めようとした。
が、野川は言葉を止めようとはしなかった。
「ここは、病院です…。私はもう大丈夫ですから、貴方は帰って仕事を。ありがとうございました…。」
「お前が大丈夫か決めるのはお前じゃないだろ。」
呆れ切って溜め息とともに苦言を吐いた。
車で待ってろ、と改めて黒木に言葉をかけてやるが、野川が無茶に上半身を起こして畳み掛けた。
「黒木先生、帰って下さい。これは、お願いじゃありません。そうしなさい、と言っています。」
黒木は、絶句して言葉を探している。
勿論今は、早坂も同じ気持ちだった。
全く、唖然茫然とはまさにこの事だ。
今まで目もまともに開けられなかったくせして、何を必死に、そうも頑なに自分の首を自分で。
「…それは、できません…。」
小声ながらきっぱりと言い切って野川を見つめ返す瞳には、確かな決意と、静かな憤りと、それから…。
「車で待たせて下さい。早坂先生にお聞きしたいことがたくさんありますので。」
熱心な瞳が、野川の双眸を射抜く。
すると動揺した目は、いつもの様に忙しなく瞬いた。
「?」
早坂は、ひょっとして、と自分より少し背の高い黒木を見遣った。
少しだけ寄せられた眉は、しょうのない野川を許すように却って穏やかだと感じた。
切ない思いは消えないにせよ。
「…早坂先生、私が申し上げる事ではないかも知れませんが、野川先生をよろしくお願いします。」
丁寧に深く頭を下げてそう言い残し、黒木はパーティションの向こうに消えた。
引き戸が開閉した音を確認すると、野川は力尽きたように再び苦しげな表情に戻って体を横たえた。
顔色は真っ青だ。
「馬鹿が。無理すんじゃねぇよ。」
半月前、7月の終わりに来た時は、どこか吹っ切れた顔をしていた。
黒木が戻ったら、研究でもプライベートでも、共にある努力を前向きにするつもりだとまで言ったのだ。
その先の事はまだ分からなくとも、今をちゃんと生きていくつもりだと。
こんな…、少なくとも、食事を摂れないという様な事はなかった筈だった。
それでも、胃の状態は決して良くなかったから、入院を一週間程早めるべきかも知れない、念のため後輩の勤務する病院にそう連絡した。
…あくまでも念のためだったのに、これでは…。
恐らく即入院、日程延長は免れないだろう。
「早坂…、余計な事は言わないでくれ。」
「あぁ? お前、俺に喧嘩売ってんのか。」
「特に両親の事故の事は。…言わないで欲しい。」
「…。」
苦しい息の中、切実な響きを持って告げられた言葉に、つい黙り込んだ。
それについては、ずっと迷っていた。
バレていたとは驚きだ。
だからあんなにしつこく、帰れ、と。
「早坂、お願いだ…。お前は…、俺の味方だろう…?」
声がどんどん掠れていく。
まだ眠剤の効果は出ていない、ただ横になっても意識をつないでいるのは、もう辛いに違いない。
俺、だなんて、久しぶりに聞いた。
「まだ午前の患者さんが待ってる。お前、ここでしばらく眠ってろ。寝てる間に胃も診ておく。」
「早坂…、こんなタイミングで倒れて、ただでさえ自分に嫌気が差してる…。イギリス行きを、辞めさせるような事にでもなったら、死んだ方がマシだ…。」
「野川、もう喋るな。」
簡単には望む返事をやれず、早坂は重い溜め息を吐いた。
「早坂。…一生のお願いだ…。」
一生、という言葉に胸を抉られる様な痛みを感じ、苛立ちに髪を掻き毟って、唸り声をあげた。
「ぐぁー、クソ、分かったよ。分かったから黙れ。眠剤増やすぞ。」
苦し紛れに言うと、野川は余裕そうにクスリと笑った。
その事が気に入らなかった。
「イギリス、イギリスって。…たかだか10日でこんなんじゃ、再来年だったか? …本当にあっちに行っちまったらどうするんだよ? 」
野川は一瞬目を大きく見開いてから、痛みを堪える様に目をギュッと瞑った。
眉を顰め、唇は震えて、しかし、次の瞬間には吐息の様にひっそりと笑った。
「…慣れるさ…。少しずつ、いつか…。両親の時とは違う。二度と会えない訳じゃないんだ、きっと…、大丈夫だよ…。」
自分に言い聞かせる様に、大切な事を確かめる様にそっと言い訳を重ねる。
それが、早坂には限りなく悲しかった。
「それと…。あまり、きつく当たらないでやってくれないか。」
帰れと言った黒木が、帰らなかったから。野川は、意識を失うまではと、必死に頼み事を繰り出す。
「オイ、いい加減にしろ。調子に乗るな。」
「きっと、自分を責めてる…。これ以上責めないでやって欲しい。」
「ンなもん俺が知るかっ。あれから急に悪化してるんだ。あの野郎とまた何かあったに決まってるっ…!」
そう言うと野川は、微かに苦笑した。
「すまない、早坂…、よろしく、頼む…。」
そう言って、野川はやっと意識を手放した。
「ったく…、お前が一番厄介な患者だよ。」
結局野川のいいように約束させられた早坂は、それでも残りの患者を診察するべく、これ以上ない程険しい顔で仕切りの向こうへ戻った。
戻って、目の前に立つ長身に愕然と立ち尽くした。
「おま…っ! は…? 出てったんじゃ…。」
「申し訳ありません。こうでもしないと…、普通にしていたのでは、追いかけられない人ですから。」
哀しそうな、自嘲するような苦笑を浮かべ、黒木は言った。
診察室の大きな凹凸ガラスの窓を見上げれば今日も生憎の空模様。差す影も目立たなかったわけか。
その気もないのに文句の一つも言うべきかと、勢いよく深雪を振り返ると、いつも通りの柔らかな笑みが返ってきた。
「お待たせしている患者さん、そろそろお呼びしますね。」
…オイ、マジか。
思うだけで、飲み込んだ。
いまだ驚きの最中、無言で頷く。
何となくゴクリと生唾を飲み込みながら、力なくさっきと同じことを口にした。
「あー…、ともかく、車で待ってろ。」
「…承知しました。」
大胆な行動とは裏腹な神妙な顔つきをして、黒木は深々と一礼し、診察室を後にした。
覗いていると、次の患者には割り込んだ詫びを言って、受付には丁寧に頭を下げ、いかにも育ちの良さそうなスマートな後ろ姿は自動ドアの向こうに消えた。
半ば呆然と見送ってから、早坂は静かに天を仰いだ。
俺は多分相当なお人好しだ、と心中でボヤきながら。
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