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対になるべき者
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…止むを得ず車に引っ込んだが。
本当は、傍に付いていたかった。
手を握って、いつかの様に、ただ眠るその顔を眺めているだけでも良かった。
ただ、今の時点では、早坂でさえハッキリしたことは何も分からないに違いないし、仕切りがあるとは言え、診療時間内の診察室に、用も無い人間が居座っていたのでは、確かに仕事にならない。
…頭では事情は重々承知しているのに、ともすれば駆け戻りたくなる衝動を抑えあぐねて、また眉を寄せた。
意識はあったのだ。そこまで悪くはない筈だ。
いくらそう言い聞かせても、胸に巣食う不安は消えてくれず、ジリジリと焦燥に身を焼かれていく。
ーー車で待たせて下さい。
そう言って見つめた時、動揺した野川は、いつもの様に忙しなく瞬いた。
本当に、帰って欲しいのか。
本当は、傍にいて欲しいのか。
動揺するといつも、早まる鼓動と同じに、睫毛を震わせ瞬く、月夜の瞳。
切なく哀しい嘘を、吐く事に慣れ過ぎてしまった、愛しい唇。
あの時野川は、嘘を言ったつもりですらなかったかも知れない。
二つの望みの内一つを、少しも迷わず切り捨てたというだけで。
…一筋縄ではいかない。
素直なだけでは愛せない。
だから…嘘を無効化してやらねばならなかった。
少しだけ痛む掌をそっと開いて、その微かな傷に視線を落とした。
『死んだ方がマシだ』とか、『一生のお願いだ』とか、聞いていたら握る手に力を入れ過ぎてしまった。
ーーもしもイギリスから戻らなかったとしたら…、
今更また後悔しても遅いが、そうでなくとも、つくづく心無い言葉だったというのに、まさか両親を亡くしていたとは…。
だが先程の話しぶりでは、あの言葉自体は体調悪化の一因に過ぎず、寧ろイギリス行きを考え直すと言った事の方が悪かったのかも知れない、…そんな風に聞こえた。
ドカッ…!
悔しさの余り、愛車のハンドルを痛いほど殴りつけた。
本当に、何をやっているのか。
つまらない甘えで、大切な人を何度も傷つけて。
そのくせ、傷つけ合ってでも、その心の奥まで踏み入る覚悟が、まだできていなかったなんて。
野川の方が、余程迷いなく愛してくれているではないか。
愛する事に躊躇い通しの自分よりも、もっとずっと真っ直ぐに。
…もう良い、もう分かった。
叶わぬ片恋に酔っている時はとうに終わった筈だ。
見ている方向が違うなら、振り向かせれば良い。
今度こそもっとしなやかに強かに。
あの意気地なしで頑固な心と、心から寄り添い、柔らかい真綿で搦めとる様に。
長い溜め息と共に苛々と視線を彷徨わせ、ふと、空の携帯スタンドに意識を吸い寄せられた。
ほとんど八つ当たりだ、とか。
この時間は流石にまずいだろう、とか。
過ぎったのは一瞬だった。
だってそうだろう。一体誰のお陰でこんな。
寧ろこの時間なればこそだ。
「…。」
後部座席に放ってあった鞄を引き寄せ、サイドポケットからスマートフォンを取り出した。
険しい顔付きで、奥歯を噛み締め、焦れる気持ちから震える指を抑えながら。
呼び出しの発信音が4度目を数えるかと言う時、先月から何度も掛け続けた相手に、漸く、繋がった。
「おはようございます。黒木です。」
届いたのは、徹夜明け、ついウトウトした研究室の朝の様なガサガサした声。
「っ…しまった、お前か…。あークソ。何が、おはようございます、だ。何時だと思ってる。」
腕時計を改めて見れば、時刻は11時を少し回ったところだ。
「サマータイムですから午前3時頃、ですね。」
「…よく分かってるじゃないか…。」
そう言いながら低く呻いて溜め息を吐くが、知った事ではない。
ちゃんとした時間を見計らって掛けていたのでは一向に出て貰えないのだ、仕方があるまい。
「非常識な時間に、申し訳ありません。先月から何度もお掛けしているのですが、出ていただけませんでしたので。」
早口で言い切った。
我ながら険のある話し方だと思うが、抑えられない時もあるというものだ。
「面倒な話し方をするな。こんな時間に電話しておいて、敬語もクソもあるか。」
深い溜め息を一つ吐くと、橘は言った。
「来るのを止めると言うなら、別に構わん。」
「! 橘先生…! …来週末からの件でしたら、取りやめるつもりはありません。」
溜め息混じりに苛々と言い捨てた。
呆れて物も言えない、そんな心境ではあるが、話をつける必要がこちらにはある。
「…野川先生から、聞いたのか 。」
「野川先生は何も仰いません。ですからこうして橘先生に。」
「お前たちどうなってるんだ。およそただの共同研究者とは…、いや、どうでも良い。」
ハァ、と一際深い溜め息を吐いて橘はしばらく押し黙った。
黒木も、橘の言葉には一瞬ギクリとしながらも、辛抱強く無言で次を待った。
何秒くらいそうしていたかは定かでないが。
やがて根負けしたのか、橘の方からあの日の会話の全てをポツポツと話し始めた。
野川先生を信じ切れなかったお前も悪いんだからな、と一言嫌味を言ってから。
「“引き止めるべき理由はない”…?」
今聞いた野川の言葉を反芻しながら、橘がわざと歪めて伝えた言葉を思い返してみる。
“引き止める理由はない”
“ご本人の希望であれば、私には引き止めるべき理由はありません”
「全然違うじゃありませんか…!」
ーー…少し…、誤解が、ある様です…。
躊躇いながら言っていた野川の、悲しく揺れる瞳が鮮やかに蘇り、思わず目元を覆った。
あの時、どんな思いであの一言を。
この、不必要で不自然に浮いた‘べき’は、おそらくだが…、古語だろう。現代にはない意味の‘可能’を表す。
引き止められる理由はない。…つまり野川は、“引き止めたくても出来ない”と言うメッセージまで込めた上で。
「っ橘先生…ッ!」
「お前の言いたいことなら分かってる。悪かった。…反省してるよ、…このひと月お前の電話に出るのを避け続けるくらいにはな。」
この…、我が儘タヌキ親父をどうしてくれよう…!
深い溜め息を、電話の向こうへお見舞いしてやりながら、頭を抱えた。
それでいて、野川が倒れて心配でたまらない、精神的にもいっぱいいっぱいであるべき筈のこんな時に、舞い上がるほど喜ぶなんて、どうかしている。
さらには、普段穏やかな野川が、橘を目の前にして毅然と持論を述べたというその態度にも感動を覚え、目頭がカッと熱くなって、みっともなく狼狽えた。
「だが私の気持ちは、お前には分からん。」
橘は、声を荒げるでもなく静かに言葉を継いだ。
「後継なんて知らん。私が死んだらそれまでだ、若い者を育てるなんてどうでも良い、知った事か、そう思ってきた。…好きに研究して、費用分以上大学へ還元して、適当に愛嬌を振り撒き給料を貰い。好きな人間や物に囲まれて豊かな暮らしをする。それで良かった。この私が、だ。」
黒木、と真剣な声音で名を呼ばれ、何となくゴクリと喉を鳴らした。
「この私が、お前にだけは、長期的なプランを立てて、学会発表のタイミングを計り、国際学会へ同行させ、秘書業務を…。っ…、ハァ…。」
途中で止め、言葉を溜め息に変えてしまった。
「橘先生…。」
「今だってこんなに後悔してる。お前に清明の紀要を渡した事を。」
若手に良い論文を書く先生がいる。歳が近いし、専門が違うのも良い。余り派手な活動もなく欲がない所もいい。
清明学院大学の国文学科の紀要『清明国文叢録』を手渡しながら、最初に野川を褒めたのは、橘だった。
そうなのだ。
あの時、清明の重鎮に橋渡しを頼んでみても良い、とまで…。
だから自分は、橘を疑い切れなかったというのに。
まさか、自らの前言を逆手に取り、野川の最も弱い所を突く様な真似をするなんて。
「野川先生は…、思っていた以上に良い人だな。真っ直ぐで、誇り高くて、本気で腹が立つほど妬ましかった。…だが良い人過ぎる。こんな悪い年寄りの食い物にされるんだからな。」
食い物って、とつい反応してしまったのを聞いて、橘が苦笑する気配がした。
「食い物じゃないか。私が言った様な無茶をいちいち真面に取り合っていたら、身が保たんよ、可哀想に。」
「他人事の様に仰らないで下さい…!」
橘がまた苦笑したのにムッとして、思わず眉を顰めて咎めた。
野川本人が嫌がるだろうから、倒れた事は橘には言えないが、全く人の気も知らないで、と憤然たる気分だった。
「これでも来るのか? 別に…、無理する事ないんだぞ?」
「いえ、約束を破ったりすれば、それこそ野川先生に叱られます。それに、直接お話ししたい事がたくさんできましたから。…予定通りお世話になります。」
途中から声を大きくして嫌味に言ってやったが、橘は鼻で笑った。
「はッ。お前の世話なんかしないさ。ただの思い出作りなんぞに付き合ってられん。」
「…それは失礼しました。」
「どいつもこいつもつまらんなぁ。…美枝子まで私を要らんと言うんだ、…全く可愛くない。」
突然奥方の名が飛び出し驚いた。
いつかのパーティーでの仲睦まじい姿を思い出して、首を傾げる。
「奥様は、イギリスには…?」
「…残るそうだ。今年はもう大方こっちにいるし、任期は3年ある。…全く、今まで何のために働いて来たんだか…。」
しょげ返った声を聞いて驚いた。
なるほど、これはよほど淋しい様だ。
「例によって、誘い方が良くなかったのではありませんか?」
「…。」
無言が返事代わりとは、どうも図星なのだろう。
もしかしたら、自分はちょっとした穴埋めだったのかも知れない、思い当たるや見えないのを良い事に遠慮なく電話を睨め付けてやった。
「おい、今悪どい顔をしたか?」
「さすがは橘先生。ご明察、恐れ入ります。」
白々しいセリフを言った後、返って来たのは意外な程神妙な声だった。
「…もしも…もう何かすれ違いで不都合があったなら、野川先生にはお前から謝っておいてくれないか? 反省していた、と伝えてくれ。」
「…承知しました。」
二人の間に、会話以上に濃い沈黙が落ちたのも束の間、ふと気が抜けたのか橘が欠伸をした。
どちらも相手が苦笑した気配を察し、さらに笑みを深める。
「気を付けて来なさい。この際思い出作りでも何でも良い。来週末を楽しみに待ってる。」
「はい…。では、またその時に。」
失礼します、と電話を切ると、黒木は思わず脱力した。
いい加減、もうしっかりしなくては。
何が守るだ。
野川を始めとする周囲から、いまだ守られてばかりのこんな者が。
何を守れる。
どうやって。
悔しさに顔を歪ませたまま目を伏せてジッと耐える。
いつまでも、このまま誰かのせいにしていられない。
あの微笑みを取り戻す。
誰かの優しさでも慈悲でも同情でもなく、この手で。
そうして今度こそ、しっかり隣に並んで立ってやる。
ーーあまり、きつく当たらないでやってくれないか。
さっき野川が言っていた言葉を思い出し、グッと眼に力を込め、思わず歯を食いしばった。
あれはつまり早坂が…、二人の間にある、あらゆる事情を知っている事を示している。
ひょっとすると、あの京都の事も…。
「…。」
いや、構わない。
この期に及んで、怯んだりはしない。
しでかした事は誰にも許されない事でも、野川の心さえ、自分に向かっているなら。
「野川先生…。」
出会って直ぐからこの心は、訳も分からず凄まじい引力に惹かれ、何か思う前に渦中にあって、もがき苦しんで尚、唯一無二の光に向かう。
嘘の仮面は剥がれ落ちて砕け散り、自分にはもう通じない。
相対する側に自分の影はなく、今や敵は、野川の臆病のみとなった。
黒木は、ルームミラーの自分と、揺るぎない決意を込めて向かい合った。
私だけが、貴方と対になるべき者だ。
そう心で呟きながら。
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