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引き返せない二人
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午後0時半を回った時。
先程診察順を調整してくれたのと同じ看護師が、車まで呼びに来てくれた。
午前の診療が終わった後の、僅かな作業音だけを残した医院の一室に通され、手馴れた様子で美味しいほうじ茶を淹れてくれた。
彼女に改めて、今朝言いそびれた礼を言うとーーもちろん盗み聞きを見逃してくれた件も含めてーーソツのない仕事ぶりからすれば余りにあどけない可愛らしい微笑みが返ってきて、何とも言えない親しみを感じた。
それで結局、年の頃はよく分からず仕舞いだ。
ただ恥ずかしい事に、そこで初めて彼女の名札が目に入って、なるほど、と妙に納得してしまった。
予想通りとも予想外とも言えるその左胸の“早坂”の文字に、色んな意味で苦笑が零れた。
ーーもうしばらくこちらでお待ち下さいね。
途中、二杯目のほうじ茶を持ってきてくれたが、優しく言い置かれてから、既に30分は経っていた。
案内された室は、最少人数で使う演習室に似ている。
だが、隅には病院でよく目にする、いかにも素っ気ないベッドが一台置いてあり、その部分だけは様子が違っていた。
丁度良い室温に保たれている筈のその室で、独りきり待つ間ずっと、暑いのか寒いのか分からないくらい極度に緊張して、落ち着かない心を持て余し通しでいる。
手足も、じっとりと汗ばんでいるのにやたらと冷たかった。
野川の身体を心配し、一刻も早く主治医との再会を望む気持ちと。
きっと良くは思われていないだろうとの確信から、顔を合わせるのもためらわれる重い気持ちと。
それら二つがせめぎ合い、苦しい胸を一段と圧迫していた。
手を組んだり、腕を組んだり、それをまた組み替えたり。
天井を仰いだかと思えば俯いて、視線を彷徨わせるに合わせて上下左右する忙しない首筋も、引っ切り無しに漏れる溜め息も、傍目には全く滑稽だろうが、そんな事にまで注意を払う余裕はない。
…また。
もう何度目だろう、と眉を顰め、無意識に手にした湯呑を置いた。
野川の好きなほうじ茶を一口含む毎、これまでの二人の事に思いを馳せて。
しかし、もう何度見ても、カラはカラ。
黒木は、心配と緊張で顔を強張らせたまま、湯呑の中身を恋しがるかの様に一層重苦しい溜め息を吐いた。
…その時だ。
ノックの音が狭い空間に響き、直後にドアが開いて、遂に早坂その人が現れた。
「待たせてすまない。」
黒木は一瞬、ビクッと肩を揺らしたものの、ほとんど反射神経で立ち上がり、お疲れ様です、と深く頭を下げて迎えた。
「オイ、硬いのは苦手だ。座れ。言っとくが、野川と違っておキレイな話し方も出来ないからな。」
早口で言い、そのまま丁度真向かいに腰を下ろした。
「はい、失礼します。」
そう応えて、自分も再び椅子に掛けた。
心臓が、存在を主張し過ぎる程主張している。
シャツの上からでも、拍動が分かるのではないかと思うくらいに。
「現時点での診断は、本人も言ってた、栄養失調による貧血、だ。…今、点滴で、鉄と栄養を流しこんでる。」
早坂はあっけらかんと言ったが、黒木はちっとも心が晴れる気がしなかった。
「栄養失調…、というと、本当は食事を摂っていらっしゃらなかったという事でしょうか?」
「いや、もしそうならもっと早く倒れてただろう。」
「…。」
「質も量も足りてなかった、そういう事だ。」
こんな状態で夏風邪でも引いてりゃ、また話は違ってくるが。
早坂はそう言って眉を険しくした。
抵抗力のないところへ、酷い夏風邪で高熱でも出していたら、そして倒れていたのがもしも自宅だったら、そう考えると背筋がもっと寒くなった。
「栄養失調の貧血も充分大ごとですが、確かに…。」
「実は、今朝本人から電話があってな。体調不良で今日来るつもりだ、とは聞いてた。胃がとことん悪化してなかったのが、せめてもの救いだ。」
声が低くなった事にハッとして早坂に視線を戻した。
苦い表情だ。
「本人はこうなる前に、と思ったんだろうが、間に合わなかったな。」
黒木は重い溜め息を吐いて、また眉を顰めた。
先程から早坂の視線が突き刺さる様で痛い。
野川がいくらきつく当たるなと言ってくれたところで、早坂には親友を心配し、思い遣る気持ちがあるだろう。
自分に対して苛立ち、殴りたい気持ちだってあるに違いない。
それでも早坂は、そんな感情を振り切るかの様に一先ず溜め息を吐いた。
「ここにはCTもMRIも無いが、野川の身体ならいつも診てるし、年に一度は俺が無理に人間ドックにも放り込んでる。限られた範囲の血液検査と、胃と大腸の内視鏡検査、今日のところはそれくらいで充分だと思う。」
はい、と短く返したつもりが、緊張し過ぎてあまり声は出なかった。
「入院先で身体中とことん調べて貰う予定だ。ただ、…元々入院予定だった病院は、予定通り火曜日からしか受け入れは無理だそうだ。…それまで5日間程どうするか、が問題だが…。」
「! 入院の予定が…?」
元々入院の予定があったという事だから、知らぬ内に以前言われていたレッドカードが出ていたらしい。
それにしても栄養失調の貧血だなんて、どんなものか、入院期間がどれくらいのものか、黒木には全く見当もつかなかった。
「ああ。管理入院が目的だ。予定通り2週間で済みそうでホッとしたよ。」
「! そんなに…?」
ショックを隠せず、半分独り言の様に呟いた。
「…で、入院まで小夜子ちゃんを呼ぼうかと思ってる。」
「えっ…!?」
目を見開き、信じられない思いで早坂を見つめる。
次々と浴びせられる言葉に、不安や焦りを処理し切れず、ただ絶句した。
何故彼女の事など持ち出すのか。
…責めて詰りたいのは山々だが、身内の感覚からすれば、その思考の流れは至極当たり前の事だとも思って、目の前が暗くなった。
もしも自分達の間に特別な感情も無く、ただの同僚であったなら。自分だってきっと、嫌がる野川を押し切ってでも、彼の、元の妻であるあの、可憐な…。
そこまで考えて、息が詰まって胸が苦しくなり、目の前がグラっと揺れた。
「は、早坂先生、あの、…。」
「秋月小夜子さん。あいつの元の奥さんだ。…知ってるみたいだな。」
秋月…、もはや名前までもが癇に障る。
そう考えて眉根を寄せた。
「私が…、傍に付いています。ですから…、あの方を呼ぶのは、考え直していただけませんか?」
声はもちろん、膝の上で握り込んだ両の拳も震えてきた。
おまけに棘のある視線から、早坂が自分をよく思っていない事がひしひしと伝わってくるが、目を逸らさず受け止め続ける。
今、この瞬間も、この心は試されている筈だ。
「何で。あいつはまだマトモなものは口にできないが、彼女は料理が上手いし、きっと質も量も、今の野川の身体に合った食餌を巧く作ってくれる筈だ。でもお前は? お前に何が出来る。あいつを傷つけて、苦しめてばかりのお前に、何をしてやれるって言うんだよ?」
大きな声ではなかった。だが、そこに含まれる苛立ちや苦悩が透けて見える様で、申し訳なく、情けない思いがした。
しかし、内心がどうでも、項垂れている訳にはいかない。
「確かに食事の面ではそうでしょうが、野川先生は望まれない筈です。」
「野川が望まない? そんな事はこの際二の次だ。それに、彼女を頼るのは、何も食事の面だけじゃない。あの家に住んでた人だ。勝手を知ってる。あいつの下着がどこにしまってあるかだって、彼女なら知ってるはずだ。そういう問題だろ。」
「…ッ!」
早坂の言葉に、一瞬息が止まりそうになったが、何とか無理に呼吸を保った。
ここは、正面突破する外ない。
立ち上がり、頭を下げた。
「…早坂先生、お願いします…! 私に、もう一度だけチャンスを下さい…! 野川先生に、どうしてもお伝えしたい事があるんです。目を覚まされた時には、傍にいて安心させて上げたいんです。」
「安心させてやりたい?」
違う。
傍にいたい。顔を見ていたい。
あの人の隣を、誰にも譲りたくない。
ただのエゴだ。
…早坂はどんな顔をしているだろう。
きっと、呆れている。
こんな自分が、安心させて上げたい、なんて、どの面下げてと思うだろう。
「黒木センセイ、だったな? お前、何であんなことしたんだ? で? また何かしでかしたんだろう? あいつを何度傷つけて、苦しめりゃ気が済む? 俺はお前なんて認めない。野川が許しても、俺は許さない。」
顔を少し上げてチラリと見えたその瞳は、怒りに満ちてこちらを見据えている
静かな口調で怒りをぶつけられるのは、時に怒鳴りつけられるよりも恐ろしいものだ。
京都での事を…野川が自ら話したとは思わない。
例えば、翌日の熱がその後更に上がったとしたなら、ここで診察を受けていても何ら不思議ではない。
早坂には、苦もなく分かっただろう。
痕跡はあちらこちらに残っていたのだから。
…残さずに、いられなかったから。
「…私は、確かにあの方に酷い事をしました。早坂先生には、それを許して欲しいなどとはとてもじゃないが言えません。しかしながら、時間を戻してやり直す事は出来ない以上、私はもう、前に進むしかない。」
そう言うと、早坂は驚きに目を見開き、唖然とした。
「野川先生を愛しています。あの方も私を愛している。私にはそれ以上に欲しい条件などありません。」
そこまで言い切ると、早坂はもうハッキリと呆れた顔をしてこちらを見上げ、ポカンと口を開けてしまった。
「早坂先生が、小夜子さんを頼りに思うお気持ちは分かります。立場が逆なら私もきっと同じ事を考えるでしょう。それでも、私にこの場を譲る気がない以上、きっと野川先生の目の前で、私と彼女が言い争う事になってしまうと…、」
「は!? オイ何だソレ? ひょっとして俺を脅してんのか?」
「! とんでもない! …私自身が避けたいと思っているだけです。」
「やり合わなきゃ済む話だ。」
「…ッ! それは出来ませんっ…。」
お願いします、ともう一度頭を下げた。
早坂が大きく溜め息を吐いて。苛立ちのまま乱暴に髪を搔きあげる気配を感じた。
「…野川がお前に一番望んでた事なら知ってるぞ。京都旅行に行く‘前の’関係だ。だろ? …そんなにあいつが大事なら、それを死守すれば良かったんじゃないのか。何でできなかった? 自分の欲にあっさり負けたってハナシだろうが。」
痛い所を突かれ、胸が詰まった。
早坂は、静かな口調の下に、今にも爆発してしまいそうな烈しい怒りを滲ませ、一層厳しい視線を向けている。
しかし今となって思えば、野川はあの夜、必要以上に二人でいる事にこだわっていた。
つまり、あの時既にもう心は自分に向き始めていた、今はそう思うのだ。
「仰る通りです…。今からでも、きっとそれが出来れば表面上は平穏が戻るでしょう。」
緊張で息が続かず言葉を切った。
早坂の視線は相変わらず鋭い。
「でも、どの道私達は、もう引き返せない。友人以上恋人未満の関係に戻ってそれを維持するには、二人とも互いを愛して求める気持ちが、強くなり過ぎている。二人ともです。」
悪夢の後目覚めた野川が、覚束ない様子で自分を見上げる瞳が、目に焼き付いている。
あんなに不安そうにしていたのに、何故抱き締めてやらなかったのか。
怒りをかっても、突き飛ばされても、構わなかった筈だ。
もう大丈夫だ、そう言ってきつく抱き締め、震える背中を摩って、不安を少しでも和らげてやれば良かったものを…。
いつも自分は、考えが足りない。
蘇ってくる自分への苛立ちを鎮めようと、深呼吸をした。
他に条件は要らないと言ったが、大切なのは、野川と共にある事。
そのためには早坂の存在を避けては通れない。
「早坂先生。」
鋭い視線を、真面に受け止める。
この決意は揺らがない。
早坂がどんなに高い壁となって目の前を塞いでも。
「野川先生は、どうでも良い人間には嘘を吐かないんです。そのくせ大切な人のためなら次々嘘を吐いて、自分を偽る。それは、一見すると周囲の人を守っている様ですが、その実全てを諦めているという事だ。その事は早坂先生もよくご存知でしょう。そして誰よりも心を痛めて来られた筈です。違いますか?」
分かった風な口をきくな、そう言われてもおかしくはない。
これまで共に過ごしてきた親友同士の間の事を何一つとして承知をしてはいない自分が、憶測だけで好き勝手な事を言っているという自覚はあった。
自分が知っているのは、早坂との電話の時に野川が見せた、親しい笑顔。
うるさい上に口が悪い、そう話していた時の、野川のあの優しい瞳。
それだけだ…。
「私は、あの方を連れ出して上げたい。あの臆病で頑なな心を無理にでも開いて、陽のあたる場所に連れ出して上げたいんです。」
眉間に皺を寄せた早坂の瞳が悲しげに揺らめいた。
分かる筈だ。
意味が違おうとも、野川を愛している者なら。
「早坂先生、」
「待った。」
片手で制して早坂は俯き、座れ、と言って大きな深呼吸をした。
「言いたい事は分かった。ただ…、野川といる事を選ぶのは良いが、お前、結婚はしないつもりか? ひょっとしたら一生子どもを持たないかも知れない。…その事についてどう思ってる? それを…、親兄弟に何て説明するんだ? お前を見てると…、」
言いかけて、途中で止め、溜め息を吐いた。
「猪突猛進も大概にしろよ。お前を見てるとどうも危なっかしい。俺は…、」
言葉を飲み込んでは溜め息を吐いていた早坂は、結局言わないで、緩く首を左右に振った。
「多少強引だったかも知れないが…、土曜日から、入院を受け入れて貰える様、病院と話は着けてある。今夜はこのまま泊めて、明日は準備のために午後から一旦帰す。送迎な。」
早坂はいつの間にか表情を緩め、こちらを指差してしれっと言った。
黒木は、しばらく理解が追いつかなかったが、徐々に緊張を解いて情けなく眉を下げた。
「は…、ええ…。あの、勿論です。…承知しました。」
早坂は、何だか、もう自分を許さない、という雰囲気ではない。
本気で試されて、結果、合格点を取れた、と考えればいいのだろうか。
小夜子の話も、5日間の空白の話も全てその為に。
…ただ、危なっかしい、と言われた言葉が胸に突き立ったままだ。
早坂にそう見えるなら、野川にはもっとそう見えているに違いない。
目の前に高く聳え立つ現実の壁は、きっと想像するよりずっと厚い。
しかし、これまで自分でも散々考えて来たつもりだ。
迷いはなかった。
いや、正しくは、迷う余地がないのだ。
この思いが今の自分の全てなのだから。
「早坂先生…。」
「オイ、勘違いするな。 一番厄介なのは本人だろう。」
素っ気ない口調だったが、早坂は自分を見つめて一つゆっくりと瞬きをした。
頼んだぞ、そう言われた気がして、黒木は思わず背筋を伸ばした。
「…はい。」
頭はやけにクリアだった。
大丈夫だ。
自分はもう、何が何でも、食らいついて放さないから。
傷ついても、傷つけても、他の誰かにとって悪者になっても、どうしても、絶対に手放せない思いがここにある。
嵐の後の静かで冴えた空気の中、昇り来た朝陽の様な。
黒木は、今まで何に躊躇っていたのかもう分からない程、清々した気持ちで早坂を見つめ返した。
「…あのなぁ…。ハァー…、本当に分かってんのかよ?」
呆れる早坂に、苦笑を返す。
選択肢は他にない。
自分が今言えるのはそれだけに過ぎない事は分かっている。
それを早坂が頼りなく思っている事も。
「私は、誰よりも野川先生を愛しています。それ以外、他にどんな言葉を並べても、きっと無意味です。」
目の前に、これまでの野川の顔が次々浮かんだ。
優しい瞳、悲しい瞳、うるうるとして、まるで誘うかの様に見上げる瞳。
いつもの微笑みも、親しげに笑う優しい声も、嘘を吐くと震える睫毛も、唇も。
それらの全てを愛しく思う。
この手で。次々零れ落ちてくる嘘ごと、野川を抱き留めてやれたなら、二人でどこまでいけるだろう。
「…そうかも知れないな。」
早坂は溜め息混じりに言いながら、尚も険しい顔を崩さなかったが、やがて苦笑を浮かべるとこちらに視線を戻した。
「他の誰かにはできないんだ。お前に賭けるしかしょうがねぇ。」
そっと呟くと、バツ悪そうに後ろ髪をぐしゃぐしゃと豪快に掻いた。
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