アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
愛すべき人
-
午後の診療時間の前に、野川は室を移された。
昼間、自分が早坂と話していたあの小室へだ。
あれからほんの少し大学に戻った以外はずっと傍についていた。
早坂が置いて行ってくれたタオルを一枚手に取り、時折額や首筋の汗を拭ってやりながら。
一度付け替えられた点滴が外されたのは、つい先程の事だ。
無造作に投げ出された左手に、自らの左手を重ね、その温かさに些かばかり安堵しながらも、黒木は、相変わらず心配で眉を寄せ、静かに眠る野川をただ見つめた。
いつか淡雪の様だと表現したが、前ボタンが広めに開けられた清潔感のある白い襟から、同じくらい白い首筋と鎖骨が覗いている様は、薄闇の中の光を集め、またはそれ自体が輝きを放つかの様に儚げに艶めいて、全く目の毒だった。
…何度見ても、繊細且つ凛とした顔立ちだ。
今はじっと閉ざされているしっとりとした長い睫毛。その向こうにある、月夜に似た瞳に焦がれた。
今朝、倒れた野川を乗せて車を走らせながら、考えたことがある。
例えば何か重大な病気で野川がこのまま寝たきりになって、会話もままならない状態になったとしたら。
もしもそんな状態になったら、今とは違い、一生傍にいるとか、絶対に気持ちは変わらないとか、明確に約束や誓いを立てることはできないだろう。
…きっと狼狽える。
重い現実を目の前にして逃げ出したくなるに違いない。
しかしそれでも。
自分は、待つのではないだろうか、と。
いつか元の野川に戻って、優しく微笑みかけてくれる様になる日を、諦めきれずに傍で待ち続けるだろう、と。
離れられない。
望みは薄く何の保証もない、ただ待つ事は想像以上に苦しいだろう、それでもきっと。
野川の寝顔を切なく見つめながら、また額に浮かぶ汗をそっと押さえた。
「…。」
これまで共に過ごした日々の中、野川の心を見つけるための鍵は、幾つもある。
最初に思い付くのは、あの微笑みだ。
本心を巧く隠す、隠れ蓑の様な役割をする時もあれば、本当に親しみを込めて楽しそうに微笑ってくれる時も…、あった。
そして、思っていた以上に重要なのは、瞬きの癖だった。
人は嘘を吐く時は瞬きが増えるというが、あの癖は正しくそれだ。
でも野川の場合はそれだけではなく、心が動揺した時はいつも現れる様だった。
元々、心の内を見られるのを好まない人だ。基本的に感情を隠そうとする。
本心を秘して嘘を吐く時、恥ずかしい時、悲しい時、嬉しい時すら、あの睫毛を震わすような瞬きをする。
どちらの癖も、憎いやら愛しいやら、…いや、やはり自分にとっては愛すべき癖だ。
勿論、多感な時期に両親を亡くした経験は、野川の心の中に大きな爪痕を残していて、それが野川の今を作る核であることは言うまでもない。
どこまでも優しくて、どうしようもなく臆病で。
――元は‘篠原’というんだそうだ。両親が亡くなって、叔母夫婦の家に引き取られて、‘野川’になった。
先程、早坂が仕方なく教えてくれた。
盗み聞きなど、次はないぞ、とこっぴどく叱られたが。
野川の両親は、中学入学を控えた春休みに亡くなったらしい。
理系の研究者だった父親の出張に、結婚15周年の旅行を兼ねて付いて行った母親、二人ともオランダの空港で帰らぬ人となってしまった。
その時野川は独りだったか、と言えばそうではなく、引き取ってくれたというその叔母夫婦に預けられていたそうだ。
何故野川が日本に残ったのかもわからないし、事故の詳細も、早坂は詳しく聞いてはいない様だった。
ただ着陸時のトラブルだったらしい、としか。
早坂は、これからも野川が本心を晒す事は難しいだろう、と険しい顔で言った。
――子供の頃からの癖だからな…。“新しい家族の一員としてきちんとするべき”、“兄として弟には優しくするべき”、“学校ではこう振る舞うべき”、大人になればなったで、“職場ではこうあるべき”、“結婚したらこうなるべき”…そうやって、“誰かの中の自分”を“自分”にする事をやってきたんだ。今も、親友とは名ばかりの医者に、ああしろこうしろと言われてる。そういうのを全部微笑って呑み込むんだから、そりゃ胃も悪くなるよな…。
早坂は、苦い顔をしてそうぼやいた。
――全部野川が悪い、とも言えないところが、またムカつく。
早坂が腹を立てているのは、早坂自身に対してなのだ。
その気持ちは、分かる気がする。
今こうして自分が、つまらない迷いで野川から離れ、作ってしまった空白の時間を悔いているみたいに。
…早坂だけではない。他にも野川を思う人間は沢山いる。
三崎も、石倉も、そして意外な事に藤沢まで。
きっと、仲は良いと聞いた養父母に、弟も。
勿論自分こそが、世界で一番。
「ん…。」
ふと野川が小さく声を漏らした。
魘されているのかと思ったが、幸いにもそうではない様だ。
やがて、目蓋がいかにも重そうにゆっくりと開いた。
「野川先生…?」
指先がビクリとしたかと思うと、野川はまた目を閉じてしまった。
眉を寄せ、苦しげにしているその様子が心配で、ついジッと見つめる。
左手がもう一度、ピクリと揺れた。
再び目を開けこちらを一瞥して、溜め息を吐く。
「まだいらしたんですか…。」
か細い声でまだ意地を張る野川を、胸が軋む程愛しく思った。
「! ええ…。…あの…、ご気分は、いかがですか?」
冷たくしておいて傷ついているだろう心を思い、軽く流した。
「体が重い以外は、別にどうという事もありません。」
しばらく表情を探ったものの、どうやら本当の様だ。
「…。」
眉がすっかり下がっている。
いつもの仮面の様な笑顔を取り繕えないでいる野川が、それでも嫌そうな表情だけは装うのを見ていると、いよいよ愛おしい気持ちを抑えるのが難しくなって、気を静めるために一つだけゆっくり大きく瞬きをした。
「…やっと、人心地が付いた感じです。病院で、ずっと眠っている貴方を見ているのは、どうも落ち着かなくて…。」
油断した隙に、手を引っ込められてしまったが、めげずに言った。言いながら、今朝の、今よりさらに蒼白だった顔色を思い出し、眉を顰める。
「今、何時ですか? ずっとここに…?」
野川が、バツ悪そうに目を逸らして言った。
「9時過ぎです。午後になって少しだけ大学に戻りましたが、それ以外はこちらに。」
出すべき郵便物を残してきた事を思い出したし、ついでに石倉に状況を説明したかったのもある。
一緒に聞いていた藤沢が、とても心配そうにしていたのに驚いた。
その事を話すと、そうですか、と沈んだ声で反応が返った。
ただ、早坂から言われた診断結果を伝えると、
「入院が、明後日からに?」
などと意外そうな声を漏らしたため、心底呆れてしまった。
「何を呑気な。私は、明後日からと言わず、直ぐにでも入っていただきたいです。」
「…心配をかけて、すみません…。」
自覚はあるらしく、野川は、素直にシュンとした顔を見せた。
少しは落ち込んでいる様だ。
もっと自分の身体の事を真剣に考えて欲しいが、これからは、変な遠慮もしないで自分が気を配ればいい、と密かに心に誓った。
ただ、今はそれよりも。
「野川先生、少し、話せますか? 謝りたい事が、あるんです…。」
謝りたい、というその言葉を聞いて、野川の顔が明らかに強張った。
睫毛が震えて、目が空を彷徨う。
そろそろ自分の前ではガードが緩んできているのか、それとも、相当隠したい気持ちでもあるのか。
胸の中に一層広がっていく激しい愛情の渦を感じて、独り戸惑う。
それに加えて、一体話す事が多過ぎて、何から話せば良いか、その事にも頭を悩ませなければならなかった。
黒木は、身体を起こすにも上手く力が入らない野川を、手伝ってやりながら注意深く見つめた。
その時細い肩に触れた手が、ジンと痺れる様に熱を持って疼いた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
80 / 86