アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
甘過ぎる安息
-
『なるほど。それを書いた方がこの大学にいるということですね?』
石倉のにこやかな問いに、
『はい、そうです。』
黒木は明るく溌剌と頷き、微笑みまで湛えて。
…石倉もつられた様に微笑んだ。
『それはどなたですか。』
面接の時の、…これは、夢だ。
夢だと知って眺める情景は、近い距離にある顔も、どこか遠く感じられるものだが。
黒木の顔だけは、やけに鮮明だった。
扉の向こうから颯爽と現れ、その所作も堂々として美しく、椅子に座ったその涼やかな美形には、思わず嘆息したのを憶えている。
『野川由仁先生です。』
きっぱりと自信に満ちた表情で答えた。
あの時の衝撃的な告白は、思い返すたび苦しい程この心を震わす。
そう…、彼は出会った瞬間から、キラキラとして眩しい人だった。
自分の立っている場所から最も遠い所にいる人間だ、と。
…そう思ったのに。
良い思い出として映る筈の夢が、今は切ない。
あれからもう一年近く。
もっと遠い昔の様で、つい昨日の様な。
『そう。貴方は、野川先生のファンでしたか。』
石倉は時々余計な事を言う。
もう少し、時を遡っていたかったのに。
…あの時には出来なかった、迷惑そうな顔をしたところで、目が、覚めてしまった。
「野川先生…?」
目蓋を開くと即座に掛かった優しい声に、ギクリとして。
いつかの様な甘えた顔をしたくなくて、すぐにまた目を閉じた。
黒木の存在全て、まるで中毒性のある甘い菓子のようだ、と切迫した危機感に胸を焼かれる。
目覚めに彼の声を聞いて、心が独りでに安息を感じて緩んでいくのを止められない。
そういう自分の変わり様が堪らなく恐ろしかった。
そっと目を開けると、直ぐ傍にはいかにも心配そうな澄んだ瞳…。
自分が今いる場所がどこなのか、少しばかり混乱してしまったが、いつもの診察室ではないだけで、まだ早坂医院にいる様だ。
指一本を動かすのも面倒なくらい身体が重い。
点滴はもう外されている。
まさかそれで魘されなかった訳でもあるまいが、左手には、どうも黒木の手が優しく添えられているらしい。
大きくて、温かい感触に、泣き出してしまいそうなくらい胸が締め付けられた。
「まだいらしたんですか…。」
か細い声しか出ないのに、意地を張って溜め息混じりに突き放した。
同時に感じる痛みを見ないふりするのも、いい加減慣れてくれないものだろうか、この心も。
「! ええ…。…あの…、ご気分は、いかがですか?」
控え目なくせに、怖ける様子もない。添えた手を慌てて放すといった様な事もない。
…いつもの彼の行動パターンとは何かが違う気がする。
別に何ともない事を伝えると、暫しの間こちらを探る様な視線を寄越したが、一先ずは信じた様だ。
あからさまに安堵の表情を見せた。
つまり、こちらの先制攻撃は、華麗にスルーされてしまった訳だ。
「…。」
もう一度、分かりやすく溜め息を吐いて眉を顰め、つい先程夢の中でした‘迷惑そうな顔’を作ってみたが、黒木は伏し目がちに微かに苦笑して見せただけだった。
そのいつもと微妙に違う彼の態度が、何故か分からないが、酷く落ち着かない気分にさせる。
手をそっと捻って自ら離し、薄いタオルケットに引っ込めた。
黒木の視線がパッとこちらを向いたのには、気づかないふりをした。
「…やっと、人心地が付いた感じです。病院で、ずっと眠っている貴方を見ているのは、どうも落ち着かなくて…。」
そう言うと、いかにも聡明そうな眉を寄せて苦しげな顔をした。
座り込んでいる自分を見つけた瞬間でも思い出したのか。
申し訳ないやら格好悪いやら、それに。
とにかく、見ていられず、窓へと視線を移した。
もう夜遅いのかも知れない。外はすっかり日が落ちている様子だ。
室内の照明は点いていないが、隣のマンションの光がブラインドの隙間から差していて、今まで眠っていた目には丁度良い灯りになっていた。
「今、何時ですか? ずっとここに…?」
「9時過ぎです。午後になって少しだけ大学に戻りましたが、それ以外はこちらに。」
食事は?
そう聞きたかったが、喉につかえて言葉が出て来なかった。
食事をきちんと摂れずに倒れて、心配を掛けてしまったこの身で、同じ心配を口にするのはためらわれ黙り込む。
黒木は、大学に残してきた出すべき郵便物を出して、石倉と藤沢に状況を説明したのだ、と言った。
その時藤沢がとても心配そうにしていたと聞き、そうですか、と応えながら、『死んだ様に生きるのはやめなさい』と言われた時の事を思い出した。
未だ‘ちゃんと’生きてはいない自分を省みて、また申し訳ない気持ちになったが、直後、早坂からの診断結果を聞いて、驚いてそちらに意識を奪られた。
「入院が、明後日からに?」
そう言って黒木を見ると、何を呑気な、と眉が一段と険しくなった。
「私は、明後日からと言わず、直ぐにでも入っていただきたいです。」
ごく自然に叱られ、素直に反省し、後悔の念が湧いた。
これまで論文や雑務に追われて、気づけば丸一日食事を抜いていた、という事はあった。
ストレスさえ感じなければ、それでどうという事もなかった野川としては、まさかこんな風に倒れるなんて、と自分でもとても意外だったのだ。
身体は、自分が思うよりもずっと弱っていたらしい。
「…心配をかけて、すみません…。」
研究室で座り込む自分を見つけた時の黒木の目が、酷く痛そうだった。
これでも本当に申し訳ないと思っているのだ。
「野川先生、少し、話せますか? 謝りたい事が、あるんです…。」
「…!」
謝りたい、というその言葉に、心臓を掴まれた様だった。
そうでなくとも、目覚めてから胸の痛みは強くなる一方だ。
息がどんどん苦しくなるのをごまかす様に身体を起こした。
否、起こそうとした。
「…?」
身体に力が入らない。
仕方なく一度横向きになって両の手で突っ張ろうと力を込めた。
その時。
「!?」
正面から肩の下に手が入り込み、ほとんど抱きしめる様な格好でゆっくりと起こされた。
サッと身を引いたものの、触れた肩には温もりが残って。
…このままではいけない。傍にいてはダメだ。
今突然、それも猛烈にそう思った。
「トイレに、行ってきます。」
顔を上げられず、唇が震えるのを隠すため、早口に言った。
黒木は、なるほど、と思ったのかどうか、酷く納得した様子ですらりと立ち上がった。
「では、行きましょう。」
「…? は!?」
驚き過ぎて、思わず黒木を振り仰いだ。
「あ、いえ、中までは入りませんのでご心配なく。」
当たり前だ。
いや、それ以前の問題だろう。
「一人で、大丈夫です。」
一人で、を強調して言い、眉を顰める。
「早坂先生から、必ずそうする様に、きつく言われています。睡眠剤を投与した後は、効果が切れていても油断できないそうで。転んで頭でも打ったら大変だから、と…。」
「…。」
だったら早坂がいれば良いものを、と頭で八つ当たりして、押し黙ったまま、野川は、恐らく深雪が用意してくれたであろう院内履きのスリッパを履いた。
ところが、平静を装い立ち上がった途端、直ぐに隣から両肩を引き寄せられた。
驚きと共に、何ですか、と静かに非難の目を向けると、黒木はそっと手を放し、申し訳なさそうな顔をした。
「…すみません。真っ直ぐ立っていらっしゃらなかったので。」
「…!?」
羞恥で、触れられた場所から血が沸き立つ様にカッとなった。
「…! 野川先生…。」
ほんの少しの事で過剰に動揺してしまう自分に腹を立てながら、それでも顔の表情が変わらない様気を配った。
その後は、廊下の自動照明を次々と点灯させながら、待合を過ぎた辺りにあるトイレまで、ひたすら無言で前を見据え歩いた。
見える景色で真っ直ぐ立っている事を慎重に確認しながら、やっとの思いでトイレにたどり着き、用を済ませて、手を洗い。
「…はー…。」
手洗いの流しに手をついて、肺に溜まった空気を吐き切る。
手足がまだ小さく震えていて、心臓がうるさい。
ふと鏡を覗き込んだ。
その瞬間、目を見開き、頬に手を触れ息を呑む。
何て、心細い顔をしているのだろう。
眉は下がって、目の奥は揺らぎ、唇は微かに震えている。
顎に触れると、いかに薄いといえども髭が伸びているのが分かった。
みっともない。こんな情けない顔を黒木に晒していたのか。
野川は、自嘲の笑みすら作ることが出来ず、立ち尽くした。
無駄な抵抗をする滑稽な自分を、これでは‘スルー’されても当然だ。
だが今はそれよりも、先程彼が言った、“謝りたい事”とは一体何か、それが気掛かりで仕方ない。
今度は何を言われるだろう。
あの日、考え直す、と言っていた。
手伝いに行くまでもなく、比較をもう一度やりたい、橘の許に戻ってイギリスに行く…、そんな風に言われるのだろうか。
そんな事を…。
もしも実際に言われたら、自分がどうなってしまうか想像がつかない。
傍にいたい、行かないで欲しい、今度こそ取り縋ってしまいそうで怖かった。
鏡の中の自分はもう、小さな子供に戻ってしまった様にオロオロとするばかりだ。
考えれば考える程、彼が自分に対して謝りたい事など、それ以外にない様に思えて。
「…っ…。」
嫌だ。
彼がいなくなるなど。
初めて、明確に言葉にして強く思った。
野川は、後ろ向きな思考回路を何とか断ち切るため、それに、むさくるしい顔を少しは何とかするために、流しの水でバシャバシャ洗うと、壁に据付けられたケースからペーパータオルを取って拭った。
行きたいと言えば行かせてやる、そう決めた心に、誓って嘘はない。
目を閉じ、深呼吸をして、もう一度鏡の中の自分と目を合わせた。
今更だが、これが黒木でなければ軽く引き止められた筈だった。
個人の自由ではあるがいないと困る、などと適当な事を言えただろう。
「…。」
止めはしない。
愛しているから。
迷う心と一緒に水分を吸った紙を屑入れに投げ捨て、短い溜め息を吐いて、男子トイレを出た。
「! 今、声をお掛けしようか、迷っていたところです。」
思いの外時間が経っていたらしく、黒木は心配した様だ。
戸を開けると同時に深い安堵のため息を吐いた。
「それは…、すみません。大丈夫です。」
謝らなければならない事は、寧ろこちらの方が多いだろうと思う。
こんな風に身体の心配をいつもさせて、黒木の真心に何も酬いようともしないで。
自分にそれでもまだ囚われている彼の様子に、安心して気を良くしているなんて。
贅沢な望みだとは自覚しているが、どうにもならない。
黒木の心だけでは足りずに、仕事でも惹きつけておきたかった。
だって、心は結局いつか。
「顔を洗ったんですね…。 室からタオルを持って来るべきでした。すみません、気が利かなくて…。」
黒木が、優しく微笑みながら、左頬から顎のラインを指先でそっと払ってくれた。
「!?」
すっかり心中に気をやり、ぼんやりと彼の喉元辺りを見るともなしに見ていた野川は、驚き過ぎて、ビクッと身を引いた拍子、よろめいて、また二の腕を引かれた。
「驚かせて、すみません…。」
どうやらペーパータオルの屑がついていて、それを払ってくれたらしいのだが。
こちらはその優しい仕草の一つ一つに…。
これは何と言えば良いのか…、そう。
こういうのを‘ときめいている’と言うのかも知れない。
「…!」
自分の導き出した結論にすっかり狼狽して、スッと先に立って歩き始める。
「あの…。」
声は聞こえていたが、振り向く余裕などない。
黒木の指先の感触を消すために、自ら手の甲でグッと強く頬を拭い直した。
この甘過ぎる安息に足を取られてしまったら、直ぐ様沈んでシロップの海で溺れてしまう。
そうなったら最後、きっともう引き返せない。
傍にいれば痛い程、危機感は募るばかりだ。
やはり、一刻も早く帰してしまおう。
そう考えたものの、帰るよう言って素直に帰らなかったから彼は今ここにいる訳で。
ならば、いっその事眠ってしまおう。
だがそれはもっと無理な話だ。ただでさえ寝付きが悪いのに、今さっきまで眠っていたこの身体が、いつもより冴えている目でまた眠れるとは到底思えない。
深呼吸をしようにも、肺は一杯だった。
心臓は、これ以上無理という程働いている。
極めて近い背後からの視線が気になって、しかし弱った脚ではこれ以上速くも歩けない。
振り返りもせず、先程の室内に戻って糸が切れた様にベッドに座りこんだ。
「?」
手に、何か触れたと思ったら、リモコンだ。診察室のベッドとは違い上半身を起こせる仕様らしい。
野川は、直ぐ後から戻った黒木に構いもせず、リモコン操作で背凭れを作り、行儀よくスリッパを脱いで、再びタオルケットに足を納めた。
彼の“謝りたい事”を聞いたら、どうあってもサッサと帰って貰おう。
重い胸の痛みを見ないふりでそう決め、再び傍に腰掛けた黒木から、伏し目がちにして目を隠した。
「野川先生…、」
「お話というのは?」
「…どれからお話しすれば良いか…、色々あって。」
苦笑するその瞳をちらりと見れば、確かに何かに迷っている様に見える。
こちらも、冷たい態度というよりは緊張していた。
あれからずっと、頭の中がめちゃくちゃだ。
彼が、イギリス行きを考え直す、と言い出すまでは、この思いに何らかの決着をつけるつもりだったのに。
ギュッと手を強く握り込む。
結局高を括っていた。
黒木は、自分の元を去ったりしないだろうと、甘く考えて。
もう、逃げないのではなかったのか。
イギリス行きがどう転んでも、共に在りたいと宣言したくせに。
彼の一挙一動に逐一動揺して、ひたすら逃げ腰になっている自分が馬鹿らしいが、まだ覚悟を決めきれなかった。
本心を隠す事に、もはや大した意味はない。
そう悟っていながら、野川はこの期に及んで、尚も成り行きを眺めようとして黙った。
自分を見つめ微笑む、優しい瞳にも気づかないまま。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
81 / 86