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面接
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時は少し遡った9月10日。
夏休みに入り、山のようなレポートの審査に追われていた野川は、やっとそれらに目処がついてホッとしていた。
時刻を見れば、もう午後9時を回っている。
空になったマグにコーヒーを淹れようと立ち上がって、だが、そのままゆっくりと座った。
恥じ入る様に頬に赤みがさしている。
瞳が揺らめき、伏目がちなまぶたが忙しなく瞬いたのは、午前中に行われた、例の新任教員採用試験の面接の時のことを思い出してしまったせいだ。
たった1つの募集枠に対して、応募者は全員で30名近く。
コツコツと教授会や人事委員会にも諮ってきた結果、面接に来た候補者は5名のみであったが、その意気込みを思うと、こちらまで緊張してくるようだった。
何にしろ、今日は疲れる1日だった、と、普段研究資料を見ている時が一番安らかな野川は、独り言ちた。
ーーこの私立清明学院大は、3学部6学科あり、面接には、藤沢学長兼国文学科長、石倉副学科長、人事委員長の野川の他、今年度の人事委員会の面々に加え各学部長、また、事務方から、事務局長や教務課長など代表者が5名、全部で15名が顔を揃えた。
中で、入試課や就職対策課などは比較的熱心であったが、これだけ集まるのは主に体裁を整えるためのことで、当然勤務する先である国文学科が主になって試験を進行していった。
候補者の実績や経歴は勿論、その思想や性格に至るまで、履歴書以上に、過去の論文などが重要な手掛かりとなる。
ただ、そうして全国的にも有名な大学ですでに勤めている者の中でも、一人だけ書類選考の段階から異彩を放つ者がいた。
その人こそ、黒木建(たける)という名の、若さ眩しい青年であった。
彼は、自分の母校である関東国際大学教養学部日本文学科に、そのまま助手として3年、講師として5年、准教授として2年勤めていた人である。
学科に在学中から、国際比較文学の権威と言われる橘龍造氏の下で相当に可愛がられ、来春には早くも教授になれるかというところで、古巣を親ごと放り投げ…つまりは専門分野を変わってまでこの大学の採用試験に挑んだという特殊な人であった。
それも、前務校を辞め、退路を断ってのことである。
今回は、いろんな意味で未知数の黒木も含めて、皆、実力伯仲と言えた。
したがって面接では、あえて形式張ったことを聞く。
動機や目標、特に、どうしても この大学でなければならない理由などを答えさせる中で、その人柄や熱意などを最終的に見極める。
採用する以上、学生にとって最大限メリットある人物が選定されなければならない。
やがて黒木に順番が回ってきて。
整った容姿はそれなりに緊張した面持ちであったのに、失礼します、と軽く一礼し、落ち着いて腰をかける様子は、とても優雅で、時の流れがそこだけ違っているかのように野川には見えた。
『では、黒木さんのどうしてもこの大学に勤めたいと思った動機は?』
口火を切ったのは石倉だった。
『2年前、ある論文に出会いました。とても…衝撃的な出会いでした。その人の文章から目が離せない、という経験は、論文では初めてで…。』
2年前と言いながら、とても熱心に語る。よほど素晴らしい論文だったのだろう。
『内容はもちろんの事ですが、何と言いますか、文章から書いた方の声が直接流れ込んでくるような心持ちがして、その方にお目にかかりたくなったんです。きっと、時も忘れるほど話が尽きないだろうと思いました。』
『なるほど。それを書いた方がこの大学にいるということですね?』
石倉が、優しく受けた。
そこにいた誰もが、その時、黒木の若い純粋さを微笑ましく思った。
面接だというのに、一聞して自己アピールにはあまりなっていない、と感じたからだった。
『はい、そうです。』
次の言葉に、耳を疑う。
彼は、それはどなたですか、と問うた石倉に、きっぱりと言ったのだ。
『野川由仁先生です。』
……その時の黒木の、きらきらとした微笑みを、野川はきっと一生忘れられないだろう。
『えっ…』
思わず漏らしてしまった声は、幸い、その場のざわめきにかき消された。
会場にいた者は皆、同じことを思っていたのだろう。
藤沢と石倉はお互いの、そして他の者は両名どちらかの名前が出ると予想していたに違いない。
今までの応募者はそうだったし、誰より野川が一番思っていた。少なくとも自分以外の誰かの名であろう、と。
こういう時、率直な話を聞けるようにするために、こちらの人間の氏名は明かさないのが清明の面接のお約束だ。
一応ネームプレートはあるが、そこには役職や肩書きしか書かれていない。
つまり黒木は、当人を目の前にしていることを知らない。
『そう。貴方は、野川先生のファンでしたか。』
石倉は、素知らぬ顔でとても嬉しそうにしてみせた。
活き活きとした瞳で、はい、と答える黒木に、野川は眩暈を覚えて、頭を抱えたくなった。
『その時拝読したのは《万葉集、色に託された心》』という論文でした。』
あんな、大学紀要に載っただけの、題名からしてありきたりな論文を。
少し自分の顔が赤くなった気もしたが、薄い微笑みを保ったまま、というより、表情が固まってしまったまま、目を伏せがちにしてこの場を耐える。
動揺を悟られまいとするように、無意識に何度も瞬きをした。長めの睫毛が震えるように上下する。
『野川先生は、とても良い方です。研究者として知に貪欲で、努力を惜しまないところも良い』
藤沢が面白がって言うと、教育学部長までもが微笑ましげに頷いた。
『私は教育者としても、尊敬していますよ。野川先生の“大学の全ては学生のためにあるべき”という信条が学内にもうまく浸透している。うちの学生は他大学の学生よりも大切にされていると、常々感じています。』
石倉は、満足そうに同意を返す。
野川にすれば全く望まない称賛であった。
視線が痛い。
椅子ごと床に沈みたい。
この場から今すぐ逃げ出したかった。
事務方のメンバーは皆同じような微苦笑とともに、気まずそうな野川を見たり、発言者を目で追いかけたり。
黒木は、皆の言葉を自分のことのように喜んで聞いている様子で、ただそれだけで好感度を上げていた。
『それでは、野川先生と早く一緒にお仕事なさりたいでしょうね。』
このにこやかな声は、就職対策課長だ。
ところがこの素朴な質問に対して、またも黒木は爆弾発言で返した。
『是非、野川先生と共同研究をしたいのです。それが、私の夢…いえ、目標であり、目的です。』
会場が様々な理由で色めき立った。学生課の女性課長などは、口元に手を当て、ポーっとして黒木を見つめたまま動かなくなった。
あり得ない。
野川はもう息も絶え絶えな心境で、どうして姿勢を保っているのか自分ながら不思議であった。
『人事委員長、』
突如、石倉がこちらに声をかけてきた。
肩を揺らして返事をすれば、意味深長ににっこりと、いや、単にニヤニヤした顔を向けた。
『何か、黒木さんに最後にお聞きになりたいことはありますか?』
『あ…、ええ。…では、一つだけ。』
…眼を閉じ、深呼吸を一つ。自分のことでいっぱいになっている場合ではない。学校のため、何より学生のために、今は肝心な時だ。
振られたのは急だが、聞いてみたいことはいつも同じ。日頃から自問自答していることでもある。
『私たちが、…貴方の採用を決めたとして、うちの学生が得られる最大のメリットは何だと思われますか?』
究極的な質問に対し、黒木もまた、顔つきを変えた。
『私は学生に伝えるべき知識は豊富に持っているつもりです。国文学という学問の上でのどんな疑問にも、向き合う自信もあります。しかし、今の私でなければ伝えられないことがあります。他の方には、無理なことです。』
挑戦的な発言は、スピーチを盛り上げる常道だ。
『ほう。それはどんなことですか?』
石倉が、すかさず合の手を入れた。
『この大学で学べる幸せです。私は、野川先生という素晴らしい先生と同じ職場で働けることに、これから毎日喜びを感じることでしょう。最近の学生は、大学に入ることが目的か、そもそもただの通過点である人が多い。しかし始まりは、まるで恋のように、ここへ吸い寄せられたに違いないのです。それぞれに事情はあっても、ここで学ぶ幸福と、その貴重さを知ってほしい。私なら、それを体現できます。いえ、今の私にしか、できません。』
アピールに、なっていないようでなっている、と野川は思い直した。
彼の言うことは正しい。
いや、野川先生云々というのは抜きにして、学生に彼が与える影響は、甚大ではないかと思ったのだ。
たとえその半分以上が彼の容姿の美麗さによるものであったとしても。
言うまでもなく彼の、この試験に際して書かれた論文は、専門を変わったばかりにもかかわらずよく出来ていた。
だから彼はここにいる。
しかし、教員の力など学生にとってはさして違わない。多くは、教員の専門だけを見てゼミを選ぶ。
大切なのは、ここに在るだけの論文を書き上げた、その並々ならぬ努力と熱意だ。
『よくわかりました。お答えいただき、有難うございました。』
彼は自分をよくわかっている。
野川は、黒木のその答えに一定以上の納得と満足を感じ、その日初めて心から微笑んだー。
面接の時の一部始終を思い返し、野川は片肘をついて額に手をやった。眉間にしわを寄せ、目を閉じる。
結局、黒木には自分が野川その人であることを明かさなかった。
実のところ、応募者から名前が挙がった中で、顔を知られていないのは自分くらいなものだったが、他の者にしなかった事を、彼だけにできないという野川の性分だ。
そして今日彼は、実力は無論のこと、その若さを最大の武器に、清明学院大学国文学科准教授として正式に採用されることが内定した。
面接直後、満場一致であった。…もちろん自分も賛成したのではあったが。
「共同研究だなんて…」
彼が、そんな無茶さえ言い出さなければ、新たな仲間を、もっと歓迎できたであろうに。
ついこの前まで畑違いだった人間が。絶対に御免だ。ありとあらゆる意味で。
正直、野川は珍しく腹を立てていた。
爛漫として、一見他意がなさそうだからまだ許せるというものだが。
「私なら、組んでも差支えないからとか…?」
眉を顰めた。
実力的に、踏み台代わりにしても自身が見劣りしないという事だろうか。ファンなどと言って、本当のところは、どうか分からない…。
いや、彼は嘘を言っているようには見えなかった。
いやいや、あれで彼はなかなかの策士だろう。
堂々巡りに考えてみても、当然答えは出ない。
研究室に戻ってから、こうしてふとした瞬間にも黒木のことを考えさせられていることに苛々する。
しかし何より、こうして腹を立てている自分のことが一番許せなかった。全くいつもの自分ではない。
これまで、どんなことでも日常の些細なことと流して来られたし、それで困りはしなかったのに。
何故こんなにも彼に心をかき混ぜられなければならないのか。
何故こんなにも彼に頭を占められているのか。
乱されるままに乱れる心に慣れず、野川は自分で自分をすっかり持て余していたが、今度こそコーヒーを入れるため、胸のわだかまりを振り払いたい気持ちで立ち上がった。
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