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初出勤
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一月前の10月1日(土)。時刻は、あと10分余りで午前9時になる頃。
先日学科長を兼ねている藤沢学長から、面倒な…基い、非常に苦手とする方面の用事を言いつけられて戸惑っていた野川は、しかし、戸惑いながらも、大人しくその指示に従って、正門辺りで人を待っていた。
今日は休講日だが、例の黒木の初出勤の日である。…らしい。
彼は勤めていた母校での職をすでに辞していたため、年度後期の日程を準備期間とし、構内への出入りを許されている。
…教務課とか、庶務課とか。
彼の出迎えをする適任者は事務員の中にいくらでもいると思うのだが、藤沢からの指名は何故か自分であった。
黒木先生のことは学校案内やその他一切、野川先生にお任せしようと思います、とにこやかに宣告されて、まさかそれを嫌とも言えず、承知しました、と短く返事をした。
多忙の藤沢は、何か困ったことがあったら私か石倉さんに相談してください、と優しく微笑み、さっさと野川を室から追い出した。
出来るだけ関わりたくないと思っていたのに。
あまりにあっさりと日常深く入り込んでくるその存在に、驚くと同時に閉口していた。
自然と伏せがちになった眼を、何気なく戻したちょうどその時、正門警備室に一台の白いアウディが横付けされた。
降りてきたのは、いかにもモデル然としたスタイルのその身に、センスの良い濃いグレーのスーツを纏った、黒木であった。
全く嫌味なほどの美男子だ。
その事を心底羨まなければならないほど、自分の容姿が劣っているとは思わないが、背の高さだけは、少し分けて貰えれば丁度いいのに、と思わないでもなかった。
あゝしかし、そういえば。…肝心な事を忘れていた。
彼はまだこちらの名前を知らないのだ。
彼が言う野川先生というものがこれと知れたら、何と思われるだろう。
…あんまり若過ぎて、頼みにできないとがっかりするだろうか。
妙に緊張を感じた。
そのせいで黒木が入構手続きを終えたのを見計らって声をかけようと思っていたのが、躊躇してタイミングを逃してしまった。
ふと、こちらからの注視を辿るように黒木が視線を寄越した。
途端に驚いた様子で眉を上げ、次の瞬間、あの、キラキラとした眩しい笑顔を浮かべて会釈した。
そのまま黒木が歩を進めて来るのを見て、野川はもう観念せざるを得なかった。
「おはようございます。」
互いに挨拶を交わしたのは、ほぼ同時だった。
「ひょっとして、私を迎えに? 藤沢先生には、必要ないとお断りしたのですが…、」
申し訳ないことです、と恐縮する相手に、野川は、とんでもない、といつもの曖昧な微笑みで返した。
「面接では、お時間をいただき、ありがとうございました。先生からのご質問には肝を冷やしましたが…、とても、勉強になりました。」
黒木はそう続け、なんとも柔らかな微苦笑を浮かべた。
そのまっすぐな美しさに、野川はハッとする思いがした。
まるで魅入られたように容易に目をそらすことができない。
彼を厄介に思う自分がひどく濁っているように感じて、無理に真っ白のSWへ意識を向けた。
「綺麗な車ですね。」
「ありがとうございます。兄のお下がりなんですが。」
気に入りなのだろう。車を褒められ、とても嬉しそうに目を細めた。
駐車場は研究棟までは近い所にあるが、学内の一番奥である。
「では、車を停めに行ってください。後ほどそちらで。」
と穏やかに微笑みつつ言い、踵を返した。
「あのっ…! どうぞ乗ってください。先生が、もし、お嫌でなかったら…」
振り返れば、少しばかりの上目遣いで一生懸命に言う表情。
それは、偉そうな言い方をすれば、非常に年下らしい、かわいい態度と言えた。
「…ええ、では、お言葉に甘えて乗せていただきます。」
「はい!」
満面の笑みでそのままドアまで開けて、助手席へと促され、野川は、思わず優しい苦笑いをこぼした。
「恐れ入ります。」
そこで初めて黒木と目を合わせた。その瞬間、黒木の目が泳ぐように揺らめき、頬が赤く染まった。やはり緊張しているのだろう。
野川は乗り込んで、黒木が運転席に回り込む少しの間に小さく溜め息を吐いた。
男前が、むだに振り撒く愛嬌に当てられてしまって、何だか照れ臭い。
やがて車が静かに発進して、自然な沈黙が降りるかに見えたが、運転しながら黒木がこちらを気にする素振りをしたので仕方なく、何か、と尋ねた。
「もし違っていたら、申し訳ないのですが…もしかして、貴方は、野川先生ではありませんか?」
どこか困ったような、緊張しているような様子と、控えめな口調で。
何故わかったのか、調べてきたのか、いつから知っていたのか、野川は彼の質問にとても驚いた。
珍しく素直にそれが表情に出てしまっている。目を大きく見開き、口も開けたまま、しばらく声を発することもできなかった。
「違っていたなら、大変失礼しました。あの…、すみません。」
しまった、と野川は意識を引き戻した。
ばつが悪い顔をすべきは、…名乗り遅れた非礼を詫びなくてはならないのは、こちらなのに。
「こちらの方こそ、名乗りもせず、申し訳ない。貴方の仰る通りです。私が、その…、野川です。」
自分のせいとはいえ、何とも名乗り辛い。
黒木は、しかし気にも留めずに、やっぱり!! と喜んだ。
「面接の時に、そうではないかと思ったんです。さっき正門で先生をお見かけした時も、きっと藤沢先生がご配慮下さったんだと。」
黒木は嬉し過ぎてはしゃぐほどだが、対して野川は目を背けて伏せてしまった。
先程と同じだ。彼は余りにも真っ直ぐで、胸が塞がるような切ない思いが渦巻く。自分とは対岸にあるかのような清い心を感じて、激しく自己嫌悪した。
「そうですか。バレていたんですね…。…参りました。何故、わかったんですか?」
照れ笑いを交えつつ、問うてみる。今となってはどうでもいい事ではあったが、話しの種にちょうど良い。
「まず、野川先生の声をお聞きした時に、先生の論文を読んだ時と同じ感覚を覚えました。」
「? はぁ…。」
唖然とする野川をおいてきぼりに、黒木は、実際はもっと現実的な事でわかったのですが、と続けた。
駐車場に着き、切り返しもなしでサラリと車を入れ、二人は、とうとう同じ大学の構内に降り立った。
まさか初出勤で野川先生とご一緒できるとは感激です、とか何とか、黒木は楽しそうにしている。
野川はいつもの曖昧な微笑を絶やさずに、現実的な事とは何なのか重ねて聞いてみた。
「あの時、皆さんが口々に‘野川先生’を褒める中、先生だけは何も仰らなかったでしょう。それで、ひょっとしてと思ったんです。」
なるほど、と野川は納得した。
「これは、完全に一本取られてしまいましたね。」
優しげな表情で流し聞きしながら、黒木が手にしたキャメル色のブリーフケースに目をやった。
「では、上に行きましょうか。荷物はそれだけですか?」
「あ、いえ、実は、研究室に空きがあるとお聞きしたので、できるだけ持ってきてしまいました。」
「トランクに?」
「はい。 …え!?」
野川は車のトランクに足を向け、黒木を慌てさせた。
「い、いや、野川先生にお手伝いいただくわけには…!」
「私も行き先は一先ず同じです。もしも、貴方がお嫌でなければ、一緒にお持ちしましょう。」
先ほどのやり取りをなぞるように言った。
単純に、連れ立って研究室まで上がるのに、自分だけ身軽なのも居心地が悪いと思ったし、その方が合理的だと思ったのだ。
それでも、いつもの柔らかい微笑に演出され、黒木の目には、とても優しい人物と映っていた。
「嫌だなんてとんでもない!! ありがとうございます! でも…」
こんな事を野川先生にお願いして本当に良いんでしょうか、などとブツブツ言いながら、二人並んでダンボール箱を抱え、3年前に建てられたばかりの8階建てエレベーター完備の研究棟を階段で上った。
この大学で最も古くからあり、筆頭学科でもある国文学科は、研究室が最下階と2階に割り当てられている。
…教授陣がどの学科よりも高齢であるから、という説もあるが、一応建前はそういう事だ。よほどの理由でも無い限り年齢が高い者から順に、1階、2階と割り振っていく。また、研究室約2室分の大きさの合同研究室が各学科につき1室づつあり、合同でゼミを行う時などに使われたり、教授陣の憩いの場となったりもする。
その他、5階には、自動販売機コーナーもある、とか、この階も含めて上階は順番に文学部の残りの2学科、国際教養学部の2学科、教育学部教育学科と続く、とか、気づいた事を説明しながら研究室の前までやってきた。
「まさか野川先生の隣の室とは!」
…隣の名札を見た途端、運命でも感じたかの様に喜ぶ黒木を見ながら、全く興奮し過ぎだ、と野川は先程から苦笑ばかりである。
「たまたま、空いていただけですから。」
サラリと流して言ったが、こちらは気恥ずかしい思い頻り。少し顔が熱い。
正直、こんな風に思われる事は嬉しいと思う。思うが、表情で気持ちを悟られるのを嫌い、預かっていた鍵でサッサと中へと進んだ。
まずは正面奥に窓、それを背にして机、その右隣の奥の壁にPC、中央には長机を2台寄せてあり、その周りに椅子が4脚、左手には天井まで届くスチールラックが3列。
入り口右手前には簡単な洗面台がついている。
良くある普通の研究室。だが、何にしろ、ここが今日から彼の新しい城になる。
「窓を開けましょう。」
鍵と荷物を長机に置き、野川は奥にある窓を開けた。
その間にも、備品のPCは設定済みである事、電話も使えること、ここを自由に使用して良い事を説明した。
「あ、それから。少しゼミ生に手伝わせてしまいましたが、一応掃除は済ませてあります。」
「え! 掃除まで! 何から何まで、本当にお世話をお掛けしてしまって…。」
「あと、大事な事を言い忘れました。研究室からは外線は掛けられません。まず庶務へかけて、繋いでもらってください。但し受信はできますから、どなたか、重要な相手先にだけ番号を伝えておいてくだされば良いと思います。直通番号は電話に。」
早口な説明を受けながら、黒木は逐一はい、とか、わかりました、とかと歯切れ良く返事をした。
それにしても教授と呼ばれる身でありながら、こうして人にいかにも上から物を言うのが苦手だ。ちっとも慣れない。
早く説明を終えたい一心で矢継ぎ早に言葉を放ったところで、
「何か、ご質問は?」
と黒木を改めて振り返った。
「はい、あの、野川先生は、今日はまだ学内に?」
予想外の質問に、戸惑う。
「!? …えーと、ええ、簡単にですが、この後学校案内なんかもしようかと…思っていましたし。」
「もし、よろしければ、昼食をご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
先ほど、ちらっと兄の存在を明かした黒木であるが、この下手に出て、上手く人を動かそうとするのは、弟特有の性質なのだろうか。
そしてそれが結局断りきれないのは、兄特有の…。
「…わかりました、私でよければ。」
「うわ、嬉しいです!」
にっこりと、またあの満面の笑み。それに上手く応えられず、いつもの曖昧な微笑みで、
「では、今は片付けもおありでしょうから、正午頃にまた来ます。」
言い残して野川は早々にその場を後にした。
そうして自分の室に入った瞬間、長い長い溜息を吐いた。若い…、と一言呟いて。
何とも可愛らしい人だ、と思った。素直で、謙虚で、見た目だけでなく、きっと心まで美しい人だと。
これまでの人生、可愛がられてきただろう。それもただ人となりからというだけでなく、彼の努力の結果でもあろうと窺えた。
今後、ただただうまく、波風立てないようにやっていければ良いが、と、野川はもう一度小さく溜息を吐いた。
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