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歓迎会1
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「はぁ…」
焦る気持ちがため息となった。
願い出て準備期間を貰い、この大学で勤めるようになってから、もう二ヶ月が過ぎようとしている。
来春から正式に勤め始めれば、当然講義も受け持たなければならない。
二人ともが更に多忙になるその前に、共同研究の話を少しでも先に進めたかったが、それとなく話題にしようとしても、肝心の野川に全くその気がなく、この頃は、自分を避けている気配すらあった。
非常にまずい事になった。
…いかに無謀であろうとも、こちらは本気だ。
目下のところ、それが今の自分の、研究者としての最大の目標であり、その為にここへ来たのだから。
しかし、野川の方はきっと、自然消滅的にこの話をなかったことにしようとしていて。
堪り兼ねて室の前で待ち伏せし、店まで話そうとしたのだったが…、結果、さっきの押し問答になったわけだ。
何も自分は、嫌われたいわけではないのに、いつまでも野川の信頼を得られないというその事が悲し過ぎて、あんな風にムキになってしまった。
まるで子供だ。
そもそもあちらをあんな風に頑なにしたのは自分だというのに。
…面接で、野川の立場や、自分の身の程も弁えず、無配慮に共同研究などと口走ってしまった自分を、今更ながら呪わしく思った。
「今夜の主役が、どうしました?」
藤沢学科長に穏やかに微笑みかけられ、ハッと我に帰った。
自分のために開かれた歓迎会の席だ。粗相があってはならない。
「いえ、少し酔ったのかぼんやりしてしまって。」
得意の人懐こい笑顔を見せて言った。
一緒にここまで来ておいて、今日は貴方が主役ですから、などとうまいことを言って自分を中央に座らせ、いつの間にか端っこに陣取ってしまった野川を見やる。
目が合った。…いや、曖昧な微笑みで誤魔化されたか。
にこやかに、微笑みで拒絶されるというのは、いつものこととは言え、傷ついてしまう。
「黒木先生をあんまり苛めちゃいけませんよ、野川先生。」
「え!?」
だしぬけに、何てことを。
「藤沢先生! 野川先生は、よくして下さいます。苛めるだなんてとんでも無い。」
思わず腰を浮かすほど、慌てて訂正したが、藤沢の声がかなり大きかったため、周りが皆面白がって一斉に野川に視線を寄越した。
賑やかだった宴席が、水を打ったように静まる。
「そんなつもりは全くありませんが、もしも気になるようでしたら、世話係を交代させてはいかがですか?」
一瞬、うまく息が吸えなかった。
胸が、音を立てるかと思うくらい、ぎゅっと締め付けられた。
野川は、いつもの花が咲くような微笑みで、悠然と言葉を紡ぎ出す。
その美しい形の唇は、いつも通りに少し艶のあるテノールの声を奏でる。
…状況が、どんどん悪化している。
半ば泣きそうな心境でありながら、しかし、この場で発言しないわけにはいかなかった。
「藤沢先生、先生方も、誤解ですから。」
無理矢理に目尻を下げ、笑顔を作って言うと、皆何となくつまらなそうにそれぞれの会話に戻り、そこで意外にもすんなりと元の宴の雰囲気が帰ってきたのだった。
藤沢も野川も、何事もなかった様に猪口を口に運び…心中穏やかで無いのは自分だけ、の様に見える。
この二ヶ月程、無理にでも野川のそばにいて、よく掴めない人だといつも感じてきたが、分かったこともある。
それは、野川のあの、“優しげで穏やかで綺麗で柔らかい微笑み”には騙されてはいけないということだった。
拒絶も受容も、快も不快もその笑顔では察れないのだ。
いつも崩れることなく湛えられているものであるから。
そのことに苛立っているのか、悲しんでいるのか、自分でもよくわからなくなって、手にしたロックの焼酎を呷り、手洗いに、と周囲に断って席を立った。
用もないのに個室に入って後手に戸を閉め、項垂れて溜息を吐いた。
一体何だというのだ。この胸に渦巻く激しい感情は。
…野川の論文を初めて読んだ時、圧倒された。
仮説も、理論も、証明も、結びも、何もかもが整然と、流れるような文章で書かれているくせに、底に脈打つドロドロとした情熱を感じた。
誰もが感じ取れるものではない。多分感覚からして二人の間には似通った何かがあって。
だから。自分を特別な存在と思ってもらいたがっている。
自分にとって野川がそうであるように。
ますます子供じみたつまらない感情だ。
くだらないという自覚はあるが、自分の感情に引きずられ、どうしようもなく息苦しい。
何度か深呼吸して、明るい表情を作り上げ、やっとトイレを出た。
そこで、店を出て行く野川の背中が目に入った。
まさか気分を害して先に帰ってしまうのでは、と焦って後に続く。
しかしそこには、携帯を手に、誰かとにこやかに通話している野川がいた。
その笑顔は、これまでに見たどんな笑顔でもない、自然体の優しいものだ。
黒木は、驚いて動きを止め、息を詰め、呆然とその様子を眺めた。
内容までは聞き取れないが、相当親しい仲であることは間違いない。
これまでに敬語口調でない野川を見た事がなかったが、今、電話の相手とはいわゆるタメ口で話しているようだった。
黒木はもはや、自分の感情をどうしようもなかった。
まるで失恋したかのように傷つき、動揺している。
この理不尽な胸の痛みは、どうしたことだろう。
先ほど恋の歌になぞらえはしたが、これではまるで、本当に片想いでもしているみたいだ。
野川が何気なく目を向けて来たと同時に、怯んで思わず顔を背けてしまった。
こちらに気づいたからか、話が終わったからか、野川は通話を終えたようだ。
「どうしました?こんなところで。」
声をかけられ、観念して、見つめ返した。
穏やかなその微笑みは、電話の向こうに向けられるそれとはやはり違う。
いや、そんな事はどうでもいい。いいはずだ。
「先ほどは、すみませんでした。藤沢先生が、あんなことを仰るとは…」
やっとの事で言葉を絞り出した。
「あゝ、そのことならどうかお気になさらず。あの方はいつもああいう風に仰るんです。特に、私には。」
不思議に思い首をかしげる。
「さっきのあれも、私達が仲違いしているように見える、という、忠告なんですよ。わざわざ皆さんの前で否定させてくださったのです。あの方なりの愛情表現と言いますか…」
こちらこそ驚かせてすみませんでした、と続け、野川はまた、いつものように微笑んだ。
その笑顔を見て、いよいよ絶望に似た気分を感じた。
それに…世話係を交代させては、という言葉は、半分くらい本気であろうとも思えた。
野川から視線を外す。
やけに喉が渇いていた。
「そうでしたか。安心しました。」
気分とは真逆の言葉を吐き、笑顔を取り繕い、そろそろ戻ります、と逃げるようにその場を離れた。
席に戻ると、文字どおり宴もたけなわ。
その空気が都合良く外の世界に繋ぎ止めてくれた。
氷が溶けて薄くなり過ぎた焼酎を口にして、何となくホッとしている自分はおかしいだろうか。
だが今、少しでも内に向いてしまえば、めちゃくちゃに散らかって収拾がつかなくなった心に囚われ、動けなくなってしまう気がした。
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