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貴方の講義を
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「野川先生、おはようございます。」
研究棟を出るところで、程よい低音の爽やかな声に背後から呼び止められた。
「おはようございます、黒木先生。」
大阪出張に出かけてから、すっかり黒木は調子が戻った様子で、いや、以前よりさらに親しみの篭った様子で話しかけてくる様になった。
おかげで、初めて出勤してきた時の可愛らしい人、という印象がますます強くなっている。
こちらがにこやかに挨拶を返すと、 実に嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
眩しいものを見るような視線を向けられ、野川は決まって、気づかれないように目を泳がした。
その瞳は、無意識に忙しなく瞬いている。
眩しいのはこちらの方だ、と言ってやりたい。…言わないが。
いつもの様に、微笑とも苦笑とも言えない曖昧な微笑みを浮かべた。
「野川先生は、これから大教室ですか?」
「ええ。学部の一年生向けの、必修単位です。」
妙だ、と思った。
こちらの時間割は何故かいつでも完璧に把握しているくせに、今日はこんな分かりきったことを確認してきたりなど。
「そうですか。」
やたらとにこやかな顔を表に、何か企んでいる気がしたが、残念ながらそれが何かまではわからない。
「黒木先生は、図書館ですか?」
2つの大講義室の前を行き過ぎると、大学図書館に通じる道に出る。
まだ講義を受け持っていない黒木が、こうして自分について歩くのは、図書館に向かっているのだろうというのが自然な解釈だが。
「ええ、まあ。」
はたして返ってきたのはいかにも怪しい曖昧な答えであった。
どうも落ち着かない。
12月も半ばに差し掛かった今日は、天気も良く、優しい日差しに包まれている。
月初めの大阪出張をきっかけに、黒木とは自然と行動を共にすることが多くなった。
ただ、こうして並んで構内を歩いていると、女子学生が遠巻きに自分たちを見つめて、何を話しているのか、あれこれ噂している声が聞かれる。
まるでモデルのような容姿の黒木に対して、黄色い声が飛んでくることも珍しくない。
本人は注目を浴びることに慣れている様で、ミーハーな生徒が、おはようございますだの、こんにちはだの、日々の挨拶を交わしにわざわざやって来るにも、嫌な顔一つせず、にこやかに挨拶を返すのが常だったが。
隣にいる身としては、すこぶる居心地が悪い。
こちらは生来、目立つのが苦手な人間であるのに。
「おはようございます、野川先生!」
時々、こうして自分にも声がかかるが、そういう生徒は大抵、学科の専門課程で顔馴染みであった。
「おはようございます。」
にこやかに対応すると、皆決まって頬をほんのり赤らめて嬉しそうに笑む。
そういう学生を見ていると、とても優しい気持ちになれるのだった。
「野川先生は、学生にとても人気ですよね。」
誰のことだか、と思う。
「それは貴方でしょう。」
「とんでもない。私のは、謂わば動物園のパンダのようなものです。その点、野川先生の人気は、実際に講義を受けた学生からの本物の支持です。比ぶべくもないですよ。」
またサラリと…。
こんな風に持ち上げられることに慣れる日は、きっと来ない気がする。
「それは…恐れ入ります。」
ここで否定すると、延々と褒められる刑が待っている。それは彼と出会ってから嫌という程思い知ったため、軽く流すことにしていた。
目的の教室の前で足を止めたところで、不意に、黒木が緊張した顔で言った。
「実は、野川先生にお願いがあります。」
意を決して、真っ直ぐこちらを見据えるその目が、背後の教室をチラリと見やった事で、やっと彼の企みを知り、野川は眉を顰めた。
「いいえ。了承出来ません。」
「そこをなんとか…!」
「大学で研究授業なんて聞いた事がありません。到底承諾出来ません。」
「尊敬する先生の講義を見学させて頂きたいと思うのは、自然な事だと思うのです。」
正式に勤め始めたら出来なくなってしまいますし、と黒木は一生懸命説得しようとする。
…本当に呆れてしまうが、その子供みたいな素直な言い様に、いつもこちらは毒気を抜かれてしまうのだ。
しかし、この大学には他に大のつく先生方がいると言うのに…。
「藤沢先生や石倉先生を差し置いて、私から貴方に何を…」
「そう仰ると思って、藤沢先生にご相談したんです。」
「…は?」
意外な一言に驚いて、なんとも間の抜けた声を出してしまった。
黒木が、深呼吸する。
「専門の近い、野川先生の講義を見学させて頂くにはどうしたら良いか、知恵をお貸しくださいと。」
それは、角が立たない様に一言断る意味でも、他の教員の顔を立てる意味でも、また、藤沢に許可を求めたわけでもない故、許可を得るならば先ずは野川本人であると言う筋を通す意味でも、感心してしまうほど良くできたセリフであった。
「藤沢先生は何と、仰いましたか…?」
「私の考えている事なんてお見通しという感じで、苦笑されていました。野川先生の許可を得るのは骨が折れるでしょうが、駄目で元々、直接当たってごらんなさいと。」
思わず詰めてしまった息を吐き出した。
「それなら、もっと前もって動くべきでしょう。当日の、それも教室の前で、あまりに失礼だとは思いませんか?」
「直前でもないと、許可を頂けないと思ったんです…!」
強い口調で言ってから、しまったと思ったのか、すみません、とシュンとする。
開いた口が塞がらない。
そうしている間にも、続々と学生がやってきて、二人のことを横目に通り過ぎる。
一方的にこちらが悪者に仕立て上げられた形となっているのは、黒木の意図的な演出によるものなのだろうか。
いや、問うまでもなくそうに決まっていた。
彼は先ほど言ったではないか。直前でないと許可をもらえないと思った、と。
ただ、自分が今引き下がるのは、来春からの黒木に対する学生の目を気にしてのことだ。
彼が注目されるのは、期待感からだけの方が良い。
こんな風に好奇の目に晒されるのは良くないと思った。
「…貴方の作戦勝ちです。顔を上げてください。」
できるだけ表情を変えない様、長く深い溜息を吐いた。
すると相反して、黒木は、弾かれたように顔を上げ、パッと明るい表情になった。
こちらを見つめるその瞳は、罪なほどきらきらとして、彼が期待に胸躍らせているのが伝わってくる。
もうその顔を見ただけで、これ以上怒ったふりを続けて彼を叱り、諭すのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
そして、野川はとうとう我慢しきれず緊張をとき、目尻を下げてふわりと微笑んだ。
そもそも彼の様に、いつも直球勝負を仕掛けてくる人間は、嫌いではない。早坂も同じくだ。
きっと、自分が、そうはできないからなのだろう。
「野川先生…。」
黒木は心なしか頬を染め、呆然と野川を見ている。
こんなことがそんなに嬉しいのだろうか、と可笑しかった。
「2つ、約束して欲しいことがあります。」
話し始めると、黒木は顔を引き締めた。
「まず、私は、貴方を意識した様な特別な講義を行うことは出来ません。学生たちに向けて、いつもの通り講義を行います。ですから貴方も、今日は学生と同じ立場で参加するように。」
「はい。わかりました。」
「後でレポートを提出してもらいます。」
「…え!?」
黒木のびっくりした顔になんとも言えない満足を覚える。
「2つ目が大事です。」
一度言葉を切って、黒木をしっかりと見詰め返した。
「この講義は、いつか貴方が担当することになる可能性もありますが、絶対に私の真似はしないこと。貴方は、貴方の講義を。」
黒木は、口元を少し動かして、頭の中で言われたことを反芻しているようだったが、やがてきっぱりとした口調で、
「わかりました。約束します。」
と大げさなくらい重々しく頷いてみせた。
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