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②心も知らず
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現実は、そこから逃げようとすればするほど目の前を塞ぐものなのかも知れない。
会わなければ消えるかも知れないと淡く期待してみたが、一向にその気配はなかった。
いよいよこの気持ちを認めざるを得なくなってきたか。
いや、次会った時にどう感じるかはまだ解らないだろう…。
この一週間余り、こうやってグズグズと苦しい言い訳ばかりしている。
自分の往生際が意外に悪い事を、ここに至るまで黒木は知らなかった。
半年あった準備期間。あっという間に二ヶ月半が過ぎて、明日から冬休みに入る。この後もきっと今まで以上に飛ぶように流れていく。
その間こんな悩みを持ち続けていることは研究の邪魔でしかない。
理解はしているが、目で姿を探し、耳で声を求め、心で名を呼ぶのだ。
休み前の最後の平日、今日こそはもう少し新しい論文のプランを詰めようと、国会図書館だの国文研だのをハシゴした黒木は、思った以上に収穫も成果も得られず、戻ってきた駐車場でハンドルに顔を伏せた。
ひどく疲れている。
ここは初出勤で野川とともに降り立った駐車場だが、その時と今を比べて、重い溜め息を吐かずにいられなかった。
疲れの理由はなんとなくわかっている。
ここ数日、野川の顔を見ていないせい、なのだろう。
「野川先生…。」
無意識に呼んで、驚きに目を見開いた。顔がカッと熱くなると同時に胸がぎゅうっと痛んで、眉を寄せる。
顔を伏せておいて良かった、とホッとしたその時だった。
“コンコン”
運転席のドアウィンドーを遠慮がちにノックする音がして、ギクリとした。
目をやると、そこには笑顔で手を振る三崎がいる。
驚きつつも、慌てて窓を下ろし、お疲れ様です、と頭を下げた。
「お疲れ様。大丈夫? どこか具合でも?」
「いえ、大丈夫です。」
思わず苦笑してしまった。
こんな風に車の中で突っ伏していたら、心配もかけるだろう、と反省しながら。
「黒木さん、申し訳ないんだけど、これ、野川さんに渡してくれませんか?」
貸す約束なんだけど渡して来るの忘れちゃって…、とにこやかに言うその手には、書店のカバーがかかったA5サイズの本。
「私が、ですか?」
この一週間避けてきた人だし、思わず名前を呼んでしまった動揺もまだ治まっていないと言うのに。
「私はもう出ないといけなくてね。いや申し訳ない。野川さんもこの本急いでいたみたいだし、今直ぐなら、室にいると思うから。」
三崎も珍しく慌てているようで、じゃあよろしく、と本を押し付け、早々に二つ隣に停まっていた紺のレガシーに乗り込み行ってしまった。
手元に残された本を見つめて、何とも言えない気持ちになる。
今一番会いたくて、一番会いたくない人に、突然会いに行かざるを得ない状態に追いやられ、心が二つに引き裂かれるような思いがした。
とにかくコートを羽織り、鞄と、改めて本を手にして、溜め息を一つ。
時刻は、午後7時半になろうかというところだ。
結局、今直ぐならいると言われたことだし、この用を、来週以降に持ち越すのも、今日結局このまま会えないのも辛いため、……。
ぐっと顔を顰め目を閉じて、押し寄せる胸の痛みに耐える。
そうだ。会いたい。今、直ぐに。
会ってどうなるものでもない。その先に道はない。
けれど。
もう、抵抗しようと足掻くのも馬鹿馬鹿しくなるくらい、自分は。
急いで降り、車をロックするのももどかしく、研究室へ階段を駆け上がった。
目的のドアの前で、拳を上げると、ごくりと喉を鳴らし、思い切ってノックした。
「…はい、どうぞ。」
中から野川の声がして、速まっていた心臓の鼓動が更に速くなった。
ガチャリ、と音がして開いたドア。
しかし、そこから覗いた、薄桃がかった白い肌と、目を引くボルドーの色に、黒木は、唖然として言葉を失った。
頭が真っ白になって、体中の血液が冷えていくようだった。
「あら? 」
相手も少し驚いた様子で動きを止めた。
「小夜子?」
奥から、この女性のものであろう名を親しげに呼ぶ、野川の声がする。
「ねぇ、由仁さん、すごいハンサムのお客様よ。」
鈴が鳴るような声で、野川の事を‘由仁さん’と呼んだその人は、今晩は、と軽く会釈して、まるで少女のように飾らない笑顔でこちらを見上げた。
ぎこちなく、ゆっくりとした動きで頭を下げる。
その華奢で小柄な身体に、ボルドーのVネックのニットワンピースがとても似合っている。カジュアル過ぎないのは、品のある膝下丈でウエストにきちんとしたベルトがあるせいだろう。
ライトグレーのコートをもう羽織っているということは、帰るところ、なのだろうか。
まるで、現実から逃げるように、目の前の可愛いらしい人をじっと観察した。
そして、その大き過ぎた衝撃に、黒木は尚も立ち尽くし、しばらく声を出せなかった。
ただ、ぐらぐらと襲い来る目眩を堪えるように、焦げた胸の重みを支えるように、足に力を込めた。
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