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人目避(よ)くらむ
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どうぞ、と言って食後のコーヒーを差し出すと、黒木はとても優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。」
その微笑みに、先週までは無かった憂いの色を見た気がして、心に僅かに波が立った。
ひょっとすると、先ほど黒木が小夜子と話していた時の印象通りなのかもしれない。
出会い、恋に落ちるまで、一瞬もあれば可能ではあると、思うからだ。
「野川先生は、食事の時はいつもほうじ茶ですよね。」
「え? …ええ。緑茶よりも、胃に優しいそうです。麦茶は、身体を冷やす効能があるとかで。」
なるほど、と相槌をうちながら、黒木はまたあのいたずらっ子の様な光を目に宿した。
「でも、コーヒーはお好きなんですね。」
クスクスと目尻を下げて笑われてしまった。
「…バレましたか。」
バツが悪い顔をして野川が言うと、黒木は楽しげに、あれだけストックがあれば分かります、と言って、また笑った。
「胃には良く無さそうですよね?」
優しくからかわれて、頰が熱くなった。
「私にも、譲れないものはあります。」
少し俯き加減で、おずおずと、しかしきっぱりと言ったのを見て、黒木は一段と楽しそうに、しかしあくまで優しく笑った。
結局、彼が一週間以上連絡を寄越さなかったのは、新しい論文のことで悩んでいたからだ、と弁当を食べながら説明してくれたから、ホッと一安心だ。
…こうしていると、とても楽しい。
野川は、まるで心が直に温まるような今という時間が、とても大切なひと時の様に感じられて、照れていながらも小さく声に出して笑った。
「でも、どうぞ程々に。貴方は、…大切な人ですから。」
柔らかく、それでいて真摯な眼差しに、どきりとした。
言う相手を、間違っているのかと思うくらい、甘い声に聞こえて、思わず瞳の奥を見つめ返した。
「…そういうセリフは、好きな人に言って下さい。」
率直に感想を言うと、困った様な切なげな瞳をして、そうですね、と呟く様に返事をした。
「何か…、あったんですか?」
問いながら、野川は確信をますます強くし、どう話そうかと考えあぐねる。
だが結局は直接確かめてみないと始まらない、思い切って聞いてみることにした。
「小夜子のこと、ですか?」
「え?」
黒木は、動揺した様に瞳を揺らして、野川を見つめ返した。どう言う意味か、こちらの意図を測りかねているようだ。
「彼女を見て、声も出せないくらいぼーっとしていたでしょう?」
野川の言葉に、黒木は、思い当たるところがあったのか、あゝ、と頷いた。
「あれは、ただ驚いただけですよ。」
ただ驚いただけであんなに長い時間声が出ないなどということが、この黒木に限ってあるだろうか? 自分ならともかく。
疑わしく思ってそう尋ねてみるも、黒木は、本当にただ驚いただけです、と複雑そうにちょっと笑うだけだった。
しかし、可憐な人とまで言っておいて、こちらとしてはとても納得できる言い訳ではない。
「小夜子の手前、明らさまには出来ませんが、貴方が彼女を気に入ってくださったなら、出来る限り協力します。」
黒木は、目を見開いてこちらを見た。その目が、切なげに揺らめいていたかと思うと、サッと背けられた。
「野川先生の、勘違いですよ。私は、小夜子さんをどういう方か知りませんし…、今迄、一目惚れというものをしたこともありません。」
「不躾とは百も承知です。すみません…。でも、彼女には幸せになってもらいたいんです。今でも、妹の様に大事に思う人ですから。」
こんな話は無神経で自分勝手で失礼だ。彼女にも、黒木にも。
勿論分かっている。分かってはいるが、なりふり構っていられない気持ちなのだ。
黒木が彼女を引き受けてくれるなら、こんなに安心なことはない。
それに、黒木みたいな男に本気で言い寄られたなら、小夜子もきっと彼を好きになる筈だ。
根拠はないが、そういう自信もあった。
「貴方だから。貴方なら彼女を任せられると思うから、思い切って言ったんです。それに、貴方が小夜子を意識している様に、見えたんですよ。」
黒木はどんな顔をしているだろうか?
言い募ってしまってから、気まずさに下げた視線を戻すことができない。少し落ち着かなければ、と深呼吸した。
「野川先生、…これは、誰にも言うつもりの無かったことですが…、思い切って打ち明けます。」
真剣な声を受け、黒木を再び見た。
その顔は意外にも穏やかに、微かな微笑を湛える。
「小夜子さんに出会う前から、私には、お会いする度心奪われるほど好きな人がいるんです。」
「…!?」
驚きに目を見張る。
「実は、小夜子さんにお会いした時、その人のことを考えてしまって。」
「それは、…お相手が小夜子と似ている、という事ですか?」
聞けば、そういうわけではないのですが…、と、歯切れの悪い答えが返ってきた。
その人のことを思っているのか、黒木は目を細める。そこに浮かぶ悲しみを、野川は見過ごすことができなかった。
「どんな方か気になります。貴方の様に眉目秀麗で才能ある人をこんな風に苦悩させるなんて。」
野川の疑問に黒木は、褒め過ぎですよ、と苦笑いを返しながら言った。
「百人一首の歌で言うなら、『住の江の…』でしょうか。」
?『住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目避くらむ』…。
ーー押し寄せる思いは、住の江の岸に次々と寄る波に似ている。よるといえば、夜、夢を見ている時でさえも、何故私は人目を避けるのだろうかーー
人目を憚る恋の歌だ。道ならぬ恋でも歌ったものだろう。
道ならぬ…?
そこまで考えて、ハッとした。
「野川先生が、何を仰りたいかは分かっています。」
痛みを庇う微笑みに、こちらが苦しくなる。
「でも、本人に伝えることができなくても、私は今、とても幸せです。」
そこで一度言葉を切った黒木は、まっすぐ野川の目を見た。
「好きな人を、見つめていられる場所にいますから。…誰にも相談できませんし、どこにも出口はありません。でも、それでもいいんです。」
「…そうですか。とても残念ですが…、そういうことなら。」
残念でならないが、それが本当のことならどうにもしようがない。
「すみません、事情も知らずに…無神経なことを言ってしまって。」
頭を下げる野川に、黒木は、謝らないでください、と柔らかく微笑んだ。
「嬉しく思いました。小夜子さんは貴方にとって、大切な人です。その方を私になら、と言ってくださったのですから。」
「黒木先生…。」
その時突然、優しい微笑みに吸い込まれそうな感じを覚えて、野川は動揺し、咄嗟に目を伏せた。
道ならぬ恋に苦しむ黒木の話に、自分の胸までが軋み痛んでいる。
恋愛とは、本当に儘ならぬものだ。
黒木の苦しみが移ったのか、訳も分からず気分が沈んでいた。
その事を見透かされてはいけないと思った。
彼のプライドを傷つける気がした。
「…本当は、分かっているんです。私が、彼女を突き放して、冷たくすればいい。彼女が伸ばす手を私が取らなければいいんです。」
「野川先生…。」
今更確かめる様に言って、何になるというのだろう。
でも、黒木には言い訳したくなってしまったのだ。
「そうすれば、貴方が‘可憐だ’と言ってくださった彼女ですから、きっと直ぐにでも新しい相手が見つかるでしょう。でも、…。」
色々なことが頭を巡り、言葉に詰まって溜め息を吐いた。
「人に冷たくするのは、苦手なんです。」
明日、何かの事故で、もう会えなくなってしまったら。
何かの事件に巻き込まれてしまったら。
人は儚いものだ。
うまく説明できなかったが、意味としてはそんな話をした。
「……。」
黒木は、たどたどしい話を、時々頷きながら
黙って聞いてくれた。
人に聞いてもらうと言うのは、何とも心が休まるものだ。
いや、きっと黒木の聞き上手のせいだろう。
野川はつい、ぼんやりと黒木を見つめた。
「野川先生…? あの…。」
「…言い訳を誰かに知っておいて貰えるというのは、良いものですね。これまでに区切りをつけて、前に進める気がしてきました。」
清々しい気持ちで微笑んで、
「またお願いします。」
軽い気持ちでそう言うと、逆手に取られた。
「本当に? では、また、きっと話してください。約束ですよ?」
にこやかだが、射るようにまっすぐ見つめられて、また目を泳がした。
「ええ、できるだけ…。」
肝心なところで濁すと、今はそれで良しとしましょう、と言って、黒木は困ったように笑った。
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