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この胸の痛みは
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野川は、何とも息苦しい鈍い痛みに襲われて、バーカウンターで、苦い酒を噛み締めながら溜め息を吐いた。
“天然温泉 飛鳥路”は、清明国文学科教員の気に入りの宿だ。奈良で宿泊する時は、交代でここを利用する。
小ぢんまりしているが、人財を大切にした真心の良宿であった。
いま一度溜め息を吐いて、グラスにジッと視線を落とす。
黒木は、今日は朝からずっと深い思考に落ちている風で、それはもう、少し話しかけるのも躊躇うほどだった。
そのくせ、親睦会では必然その場の主役の座に上がらされ、奈良女学院の教員たちとはいかにも楽しげに話していた。
気配り上手で、話し上手で、素直で…。いつもと同じ輝く人。
自分は遠巻きに眺めていた。余り眩しかったから。
何が面白く無いと言って、主役を彼が持って行ってくれた事は、寧ろ自分には有り難い事だったし、助かった。
…そうでは無くて。
どうしても引っかかっているのは、この話を引き受けた時に彼が一瞬見せた、沈んだ横顔だった。
以前なら手離しで喜んでいそうな出張の話を、迷惑にでも思っていそうな顔で。
「……。」
静かにもう一度溜め息を吐き目を伏せる。
何がいけなかったのかよく分からない。そもそもこちらの気のせいかも知れない。
気のせい? …いや、残念ながらあれは…。
共同研究は、どうやらこの一本きりになりそうだった。
「野川先生、こちらにいらしたんですか。」
不意に背後から響いたいつもと変わらぬトーンの声に、心乱され、野川の瞳が小さく瞬いた。
「…ええ。」
いろんな感情が暴れ回る胸中を置いて、微笑み振り返る。
そうして、呆れた。…その色男ぶりに。
湯上がりの浴衣姿が艶やかな黒木は、このフロアでもやはり主役らしかった。
「それは、何ですか?」
「ジンです。」
バーテンダーに、同じものを、とオーダーして、当然の様に隣に座った。
「飲むんですか?」
夕食の時も考え事をしている様だったし、温泉に入る時間もこうして微妙にずらされ、なのに、一緒に飲みたい素振りをするとは。
「えっ…、ええ。あの、もし、先生がお嫌でなければ…。」
彼が、初めて大学に来た日も、そんな事を言っていたことを思い出し、すると何故かぎゅっと潰れる様な痛みが、胸を駆け抜けた。
「私は構いませんが…。」
余裕そうに苦笑を浮かべて、苦痛を逃す。
黒木は、ジッとこちらを見ている様だ。ジンのロックを受け取り、一口飲んでからも、また。
「…野川先生、あの…、今日は、すみませんでした。何だか緊張しっ放しで、色々と余裕が無くて…。」
素直に謝罪を口にして、こちらを窺う。まるで子供が叱られた時の様な、いじらしいあざとさを見て、たちまち複雑な心境になった。
…もともとこちらが怒っていたわけでは無い。
彼のいつもの優しく柔らかい声が、ただ懐かしく、心を安らかにしていく。
それはこの上なく不本意な事だったが、それで全て解決したかの様に、もう心は凪いでしまった。代わりに目頭に熱が集まる。
こんなに他人に振り回されるとは。
やはり共同研究なんて今回限りにしよう、と決意を新たにしつつ、やんわりと微笑んだ。
「今日は大変でしたね。あちらの大学は、助手や助教に貴方と同年代以下の若い女性も多かったですし。」
面白がるようにそう言うと、黒木は渋い顔をした。
「野川先生だって囲まれていたじゃありませんか。お陰で私は…、…と、とにかく、飲むのも食べるのもそっちのけでした。…色んな意味で。」
せっかくのお料理が…、と黒木が惜しそうにボヤくのを見て、思わず吹き出した。
「そうですね。でもいつもあんな感じですよ。」
野川先生はいつも囲まれているんですね…、と黒木が湿った視線を寄越し、それに苦い笑みを返した。
「佐藤先生が、お料理がとても美味しいからゆっくり味わってください、って仰っていたのに、私たちは全然そんな余裕ありませんでしたよね?」
「そうですか? では佐藤先生に、黒木先生がそう仰っていたと報告しておきましょう。」
「えっ! いや、それはまずいですよ。」
二人、一頻り言い合って笑う。
こうしていると、あの時の深刻そうな横顔はやはり気のせいだったと思いたくなるが。
「黒木先生、…共同研究は、一度組んだからと言ってずっと一緒にやっていく必要はないと思うんです。」
「えっ…?」
不意に沈んだ声音に、黒木が目を見開いて向き直った。
「まずは一本を全力で書き上げて、後のことは、その後考えましょう。」
「の、野川先生…? どうして急に、そんなことを。」
意外なことに、黒木は突然の言葉に対して本気で動揺している様だ。
「私はただ…、やめたくなっても、貴方からは言い出し辛いのではと思っただけです。」
やめたいなんて、そんなこと! と思わず大声を出してしまい、黒木は、我に帰って小声になった。
「…思ったことはありません。これからも思いません。」
黒木は真剣にこちらを真っ直ぐに見つめて、キッパリと言った。
では何故あの時。
「それなら良いんですが。」
肝心なことを聞けないで、また曖昧に微笑んだ。
同時に胸の痛みがぶり返す。
「野川先生…、私は貴方から見れば、素人もいいところです。」
「素人だなんて、そんなことありません。面接の時の『伊勢物語』に関する論文は、本当によく出来ていました。」
額田王だってよく書けていましたし、と言うと、首を左右に振った。
「貴方の足を引っ張る様なことになってはいけませんし、最近、プレッシャーが凄くて…。他にも色々と悩みがありますし…。」
そう言って溜め息を吐くのを見て、さらに胸が重く痛む。
他にもというのは、例の住の江の人に関する事ですか? …そう聞けたら、胸がスッキリするのだろうか。
しかし、何故か今日は聞けなかった。
そして、聞きたくもなかった。
「貴方の考えは、よく分かりました。でも、…私の足を引っ張るとか、そんなことを気にする必要はありません。貴方と組むと決めた以上、論文がどう転んでも貴方だけの責任にはなり得ないのですから。」
「野川先生…、」
「共同研究に明確な締切はありません。だから貴方は、…今は個人の実績を積むことを一番に考えてください。」
そう言うと、黒木は眉を寄せ、目を伏せた。
「ええ…。でも、…何故、突然こんな話になったか、きっかけを聞かせてはいただけませんか。」
「きっかけというのは、特にありません。引き受けた時から考えていたことです。」
いつもの嘘は、いつも以上にスムーズに口から滑り落ちていった。
黒木は、少し眉を上げたが、すぐにまた目を伏せてグラスを見つめる。
「…そうですか。分かりました。」
「そろそろ戻ります。貴方は、どうなさいますか?」
「私は…、…もう少し、飲んでいきます。」
二人話せば治まるかに思えた胸の痛みは、却って増すばかり。
それなら苦しい胸を誤魔化すより、一人になってしまえば良い。
カウンターの向こう側にも、ごちそう様でした、と声をかけた。
「では、お先に。」
「ええ。お休みなさい。」
にっこりと微笑んで背を向けると、一層ズキリと胸が疼いた。
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