アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
早坂の願い
-
奈良土産を携えて珍しく自分からやって来たと思えば、何とも言えない暗鬱としたオーラを纏っている。
一先ず身体の診察を粛々と終わらせてから、わざとらしく溜息をついてやった。
「可も無く不可も無くだな。」
胃の調子は、とは言わないで眉間に皺を刻む。
そうか、と言ってホッとしたように表情を緩める様子を苦く見つめた。
これと言った根拠もない胸騒ぎ。
いや、自分なりに根拠はある、か…。
あの、前回来た時話していた新人の存在が、あれ以来気掛かりで仕方がなかった。
「お前、こないだ話してた新人と何かあったろ?」
唐突な質問に、無表情のまま、忙しく瞬く。
ビンゴかよ…。
これは野川本人も知らない…いや、多分自分しか知らない癖だ。
動揺した時に無意識に小さな瞬きを繰り返す。
「何も無いよ。」
「俺に嘘つくな。無駄だ。」
ピシャリと言って黙らせた。
しかしこうなったら、もう何を聞いても絶対に何でもないとしか言わない。
さて、どう料理する。
「どんな奴なんだ? まだ聞いてなかっただろ?」
少し表情を和らげて優しく聞いてみた。
野川は、予想外の質問に少々面食らった様子だ。
この調子で安心してどんどん話してくれれば良いが。
「んー、…一言で言うとしたら…、眩しい人、かな…。」
真剣にそう言って、何を思い出したのか、伏せた目を微か細める。
何て顔だ、と早坂は余りの驚きに思わず目を瞠った。
それじゃまるで恋ではないか、と。
「…何だ? 若いのにもうそんなにキテんのかよ?」
慌てて驚きを引っ込めて、頭に手をやり冗談を言った。
バカ言うな、と野川がいつもの様に穏やかに笑う。
…道理で新人が気にかかったわけだ。
「そんな眩しい程イケメンなのかよ? 俺よりもか?」
「ああ、…それは確実だな。でも、‘眩しい’はそれだけが理由じゃないよ。」
苦笑まじりに言うと、また温かい視線を遠くに飛ばす。
思い出すと、そんなに柔らかい表情になるほど…。
親友が初めて見せた顔に、心底狼狽えていながらもどこか喜んでいる自分もいた。
小夜子に申し訳ない、と思いながら…。
しかし、医者の立場からすれば苦笑している場合でもない。
今後、目の前の患者が症状をどんどん悪化させるのが目に見えるようで、辛くなった。
野川の話だけによれば、新人は優秀で、性格もよく、非の打ち所がない好青年。10も離れている様には見えない程、器も大きそうだ。
長い付き合いの親友の感覚は、誰より信頼している。
…しかしやっぱり、会って、顔を見て話してみないと何とも言えないだろう。
…恋に近い目線ならば尚更の事。
「きっと、すぐに追いつかれて、追い越されるよ。」
嫌なことをあんまり穏やかに嬉しそうに言うものだから、ウゲ、と返した。
「イヤなこと言うなよ。」
「才能があって、努力を惜しまない人なんだから、仕方ない。」
「お前より努力してるってのか?」
学生時代から、本の虫、勉強の虫のお前より?
そう言ってやると、野川は柔らかい声で笑った。
「そうは言わないけど。…私は、凡人だから。そういうものだよ。」
あっけらかんと笑ってそんな風に言われると、何だかこちらが切なくなるようで。
「ひょっとして、一緒にやることにしたのか?」
こちらの心配を他所に、野川は、ああ、などと憎らしい程軽やかに返事をした。
「あの時は嫌で仕方がなかったけど…、もし駄目になったとしても、あの人がその分少しでも前に進めるなら、今はそれで良いと思ってるよ。」
あの人。
ともすれば、何か痛みを堪えるような健気な言い様に、思わず顔を顰めた。
ただし、新人のためかよ、という心配だけは、口にしなくても聞こえたらしい。
「もちろん、私が一緒にやりたいと思ったからだよ。」
結局は全部自分の勝手な推測と想像でしかないが、野川のことはかなり理解しているつもりだ。
どこまでも優しい今の苦笑に、嘘は無いと信じられる。
ある程度はホッとして、肩の力を抜いた。
ただ、ここへ来た時その身に纏っていた陰気臭いオーラを、忘れたわけではない。
「で? その新人に何かされたのか?」
藪から棒に問うてみる。
「何かって、例えば何だよ。」
苦笑いを返してくる様子は、そこまでいつもと変わらないが、油断はできない。
何せ隠すのが上手い相手なのだ。
じっと見つめていると、居心地悪そうに重い口を開いた。
「何も無いよ、本当に。上手くやってる。…少なくとも、お互いに上手くやろうと努力してる。そう信じられているよ。」
心配要らない、そう続けて、憂い顔で力なく微笑んだ。
そんなに好意を持ってる人間と、好きな仕事を一緒にやっているのに、何故そんなに弱っているんだ。
本当は何があったんだ。
…聞きたいことは後から後から湧いてくるが、今日はここまでか。
「わかった。何かあったらすぐに言うって約束したら、俺も少しは安心してやるよ。」
「ああ。わかったよ。」
この曖昧な笑顔。
この顔は嫌いだ。野川の、まるでお守りの様な仮面の笑顔。
…その日野川は、痛みがあった訳でも無いし、体の調子は悪くなかった。
少し食欲が低下していて眠りも浅いと言う(言わせた)から、自律神経を整えながら胃腸にも効く漢方薬を一種類だけ処方した。
「ったく、何が『ああ。わかったよ。』だ。」
そんな約束、今まで守ったこともないくせに。
「何かあったら、親父に言いつけてやる。」
野川が帰った後、独りブツクサ文句を吐く。
元々野川の主治医だった父親、早坂医院の前院長。
大仏みたいな顔をして、患者に嘘をつかせない天性の内科・小児科医。
あの嘘つきな野川の、一番の天敵で、最強の味方だ。
引退しているものの時々ここへもやってくるのだが、頼みの父親は何故か、あの子の主治医はお前の方が良い、と言って聞かない。
人の気も知らないでよく言うよ、と眉を顰めた。
あんなやり方は到底真似出来ない。
だからこそ自分は、あの手この手を磨いてくるしかなかったのだ。
「はァァァ…。」
「あら、大きな溜息。野川さんが来た日は、あなたのルーティンよね。」
今日の全てが終わった頃、愛妻が温かいほうじ茶を持ってやって来た。
「おお、ありがとう、深雪。」
いいえ、と優しく笑う。ナースとしてそばにいてくれるこの存在が、いつも自分を支え、癒してくれる。
本人は知らないが、学生時代から男を惹きつける親友。
だから、懐かれていることに驚きはしなかったが、まさか野川自ら好きになってしまうとは…。
相手は相当の人格者らしい。それに、可愛い人とも言ってたから、弟気質なのかも知れない。
「…。」
恋の相手が男か女かは、もうこの際どちらでも良い…。
それは、親友らしからぬ考えだろうか。
席を立ち、唐突に、深雪を抱きしめた。
「急にどうしたの?」
と驚きながらも、優しく自分を受け止めてくれる。
いつも、大切な物から先に手放そうとする親友にも、こんな風に支えてくれる存在ができれば良いのにと、いっそ泣きたい様な気持ちで、切に願った。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
27 / 86