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しのぶれど
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その日昼食を摂るため、キャンパスからほど近い定食屋に立ち寄った黒木は、見知った姿を見つけて、あっ、と声を上げた。
「お疲れ様です、三崎先生。」
「あゝ、お疲れ様です。」
にこやかに微笑みながら、今日はお一人ですか、とこちらの背後を気にするのを見て、思わず苦笑した。
「いつも一緒という訳では。」
三崎に勧められるままに、相席になった。
直ぐに店員がやって来て水を置くと、その場で日替わり定食をオーダーした。
「あの、チケットをありがとうございました。」
唐突過ぎただろうかと思ったが、三崎は気に留める様子もない。
「家内は出身が京都なんです。で、その妹の夫が、文化博物館の職員でね。」
全く良い人とご縁があったものです、そう言って微苦笑する。
こちらもありがたい思いで微笑みを返した。
「やっぱり、貴方を誘いましたか。」
「え?」
「私も誘われたんだけど、断ったんです。その時、代わりに貴方を誘えば、って勧めておいたから。」
「そうでしたか…。でも、私は誘われたわけではないんですよ。別々に行こうと、思われていたみたいで…。」
最初に誘っていたのが三崎だったというだけでなく、こちらに話が来たのも三崎に言われたからで。…いや、その前に自分は、誘われてすらもいないか。
思わぬところでダメージを喰らって、目を伏せる。
ふと、溜め息混じりに笑われた気配を感じて、顔を上げた。
「そんなにわかりやすくて、どうするの。」
少し目を細めた呆れ顔が、こちらの動揺をやんわりと受け止める。
「! あの、いえ…。」
この気持ちを知られて…?
気まずくてなかなか言葉も出ない黒木に、三崎は、大丈夫、と勇気付けるように言った。
「そうそう気づくものではないから。それより、私なんて、中世文学の専門家である三崎先生に是非随行したい、なんて言って誘われたんだよ? その誘い文句はつまらな過ぎて惹かれなかったし、予定が合わないことにして、断っちゃったんです。」
三崎は、肩を竦めてにっこりと笑んだ。
心の読めない人だと戸惑うのは、いつものことだが。
「随行、ですか。」
「楽しくなさそうでしょう? 私も彼も。」
本当に仕方ない人だよね、そう言ってクスクスと笑う三崎を、唖然と眺める。
「私はね、彼に少なからず友情を感じているんですよ。歳も近いし、もう長い付き合いになるし、とても尊敬できる良い人だし。でも、こんな感じで、全く脈ナシ。」
随行したい、というのは確かに、友人を誘う言葉として適切とは言い難い。
優しく言って、ははっ、と笑う三崎に、純粋に友人を思いやる心を垣間見た気がして、黒木は、ずっと心に引っかかっていたことを、思い切ってぶつけてみることにした。
「ひょっとして年末、私に本を託したのは、わざとだったんじゃありませんか?」
「わざと? …というと?」
食えない笑顔を前に、心を落ち着かせようと深呼吸した。
「ご来客中だと、三崎先生はご存知だったのでは?」
「もちろん、知っていましたよ、彼女が来ていることは。」
悪びれもせず言ってのける様子に、嫌な感じはしなかった。寧ろ、
「お待たせしましたー。」
思考を遮る様に日替わり定食が二つ、目の前に置かれた。
うまそうだなー、などと呑気に香りを楽しみ目を細める相手に、勝てそうな気はしない。
黒木は、箸を2膳取って片方を手渡しながら、三崎にはこの気持ちを認める覚悟をするしかなかった。
いただきます、と二人手を合わせ、鯖の味噌煮に箸をつけ始めたところで、何かを思い出した様に三崎が眉を寄せた。
「不毛でしょう、だって。」
珍しく苛立たしげに言うと、バツ悪そうに笑う。
「もちろん野川さんにその気があるなら邪魔しないけど…って、完全に余計なお世話だね。」
やはりそうか、と一人納得する。
あの時は、動転し過ぎて思い至らなかったが、後から考えれば考えるほど、あの時の野川は明らかな不思議顔だった。
…気持ちはわかると思い苦笑を返す。
「でも、もうやめるつもりだという様なことを仰っていましたよ。」
三崎は目を丸くした。
野川に無断で出過ぎたことを言ってしまって、一瞬冷やりとしたが、
「…そう。それは良かった。」
と感慨深く頷く様子を見て、その友情を確かなものだと感じて、大丈夫だろうと思い直した。
「私に行かせたのは、何故ですか?」
「ん? 言ったでしょう? 急いでたんですよ。家族3人で食事に行く予定があって。クリスマスの週末だもの。」
肝心なこちらの聞きたい事ははぐらかしておきながら、その言葉は、不思議なことに明け透けにみえた。
胸の内にまだ表明しない気持ちがあるにせよ。
「なるほど。」
余り気のない相槌をうち、黒木は目を伏せる。
きっとその時にはもう、恋心を見透かされていたのだろう。とすると、自分でも曖昧だった気持ちを一体いつ…。
「黒木さん、箸が止まってるよ?」
ハッと顔を上げると、何とも優しげな表情で見つめる三崎がいた。
「さっきも言ったけど、あんまり分かりやすいのは考えものだよ? まぁ、そこは貴方の良いところでもあるんでしょうけどね。」
「…いえ…。…気をつけます。」
少し驚いて、素直だね、と直ぐに面白そうに笑う。
分かりづらい人だという印象は変わらない。
しかし意味は違っても同じ野川を大切に思う者同士として、いつの間にか三崎を信じている自分がいた。
…しばらく黙り込み、二人食事に専念していたところ、ふと、三崎が顔を上げた。
「そう言えば、3月頭に、東京文化女子大の國廣名誉教授が、著作の出版記念パーティーをされるそうだけど、何か聞いてる?」
「いえ、特には。」
東文女子の國廣名誉教授というと、かなり有名な日本語音声学の専門家だ。学科に在籍している時、教科書としてその著作には何度もお世話になった。
「野川さんが招待されていると思うから、必ずついて行って下さい。…勉強にもなるし。」
…気のせいかも知れないが、一瞬、その目が険しくなった様に見えた。
「承知しました。必ずそうします。」
力強く応えると、三崎は安心したとでも言う様に吐息をこぼして目を細めた。
「では、お先に。」
あっ、と思った時には、伝票を攫われていた。
しまった。追いかけようにも、まだ少し残った食事を放り出せるわけもない。
「ご、ご馳走様ですっ…。」
慌てて背中を追いかけるように掛けた言葉に、三崎は軽く手を上げて見せたが、会計を済ませた後、振り返りもせず店を出て行ってしまった。
「はぁぁ…。」
大人と子供…。
三崎と自分についてぼんやりとそんな言葉が頭に浮かんで、黒木は吐息した。
そんなにわかりやすくてどうするの、というのはきっと、周りに悟られない様にしろ、という忠告だろう。そしてそれは、他でもない野川のためだ。
京都行きを誘われなかったのには少しショックを受けはしたが、あの日随分長く研究室の前で頭も手も上げたり下げたりしていた野川の後ろ姿は、きっと…。
思い出すと、愛しさが胸を塞いだ。
可愛いくて、いじらしくて、直ぐにでも後ろから抱き締めたくて、なかなか声をかけられなかった。
確かにあの時の自分の表情を誰かに見られていたら、一目瞭然と気付かれてしまっただろう。
京都行きを控えていることもあるし、感情を顔に出さない様に、衝動をさらりと…何とか封じ込められる様に、パーティーを良い訓練の場と捉えようと、黒木はぐっと腹に力を入れた。
しかし、そうやってまた分かりやすく肩に力が入ってしまったことに脱力して、他にも客がいる中、連れがいなくなった定食屋で、思わず溜め息混じりに苦笑いを漏らして項垂れたのだった。
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