アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
廊下の神従者
-
×あなたの脳味噌いただきます/安矢
矢口副長官なんかすげぇな~~って思ってた安田と、彼の類い希なる頭脳に感心している矢口。安田には恋というよりも、矢口の奇妙さに惹かれて欲しい
×やめよう、すぐに確率を出すのは/志矢
志村にリア充街道を歩んでほしい先生は彼の告白を受け取らない。将来的にはくっつくであろう志矢。
志→→→→(←←)矢 くらい。
志村は計算高い人だとおもう訳です。
×見放す前に、黒目を見つめて/赤矢
お題:目隠しで赤坂さんと矢口。
「お前みたいな男には俺みたいな男がいいだろ?」と(目病み女に風邪引き男、みたいな)、矢口に言い寄る赤坂さんのイメージで。
矢口蘭堂に相対するにはマヂキチ度が足りない赤坂さんが、斜め前から彼を眺めているのが好きです。そして、そんな赤坂さんを追い抜き引っ張り、共に駆けようとする矢口も。
×錯覚していたのだ間違いはないと/志矢
お題、「わがままを言う」から。アンケートで募ったやつ。志村の作中でのわがままはやっぱり、あれですよね。
若干だけ赤→矢な風味がしますがこれは志村くんの主観だからであり、赤坂さんはあくまで矢口にはちょっとの嫉妬と憧れだけ。
あなたの脳味噌いただきます
混んでいる、という表現を通り越していも洗い状態の東京の駅。見知った線に乗り換え、職場に向かう途中、混みはまったく途切れない。数日前まで、この付近でかの作戦がたてられ、人どころか野良犬でさえも引っ込んでいたような有り様だったというのに。東京は、都市というのは、不思議だ。不死鳥のごとく日々再生と荒廃を繰り返す。
即席に人を生むように、地下から人があふれでるのを、安田は生温い心地で見ていた。ヤシオリ作戦が終息してからまだ一週間も経っていない。作戦後にばたりと倒れた安田は休養もかねて二泊の外出許可をもらった。
無論、作戦が終わったからと言って安田の仕事がなくなるわけではない。むしろ、人の八倍もの遺伝子の活用法、除染作業についての諸諸、冷却された状態は万全か、など調べなければならぬことは増えたかもしれない。時間がある(少なくとも事件中より差し迫ってはいない)とはいえ、そう何日も休んではいられないのである。仮設住宅のほうに半日ほど引きこもって休めれば上々。森などのように妻子がいるわけでもない安田は、そう思った。
デスク作業と秘書官との打ち合わせを平行する矢口に声をかけた。おずおずと、とは行かないまでも、少しだけ控えめに。
だというのに矢口は、電車の切符をわざわざとってくれていたという。
「とんぼ返りになって休まらないかもしれないが、両親の顔を見てくると良い」
「宜しいのですか」
隣に控えていた志村の声も軽く受け流し、如才のない顔に笑みを浮かべる。
チームリーダーにふさわしい堂々とした彼が、安田の細っこい掌に切符を握らせた。
「………あ、りがとう、ございます」
喋りだしが遅れたのは、あまりにも緩やかな表情をする矢口に見惚れたからだ。志村はこれを隣で見ていて平気なのだろうか、いや平気でないからこんな過保護なのか。
多少混乱する頭で受けとった紙片は、今は、安田の長財布のなかに横たわっている。
それを使って乗ってきた電車を見送って、駅も出て、安田は現在の職場である巨災対(のメンバーが集められた名称は他のもの)に向かう。
損壊の面影の残る道を歩く。安田が普段はあまりしない、軽妙な足取りだった。
安田のような偏屈な研究者の、興味の対象足り得るものというのは、さほど多くない。対人間であればなおさらだ。なんでもない昼の商店街を通りすぎながら、思う。
除染が進んだお陰で野菜を売れるようになった八百屋の大将、パフスリーブのシャツを着た可憐な少女、お高そうな時計やブローチで身を飾る妙齢の女性。彼ら彼女らに、安田が特別な興味を持つことはないだろう。安田の関心の先には人間は無い。そりゃあゴジラを予言した彼の教授の思考などは多少惹かれるものがあるだろうけれど、それはあくまで、ゴジラの付属品としてである――――だから、安田にとって大切なのは、例えばゴジラのような刺激的なものだけのはずで。
そこに、紛れ込んだ。いつの間にか侵入していた。
人間として興味をそそられる相手。安田の横柄な態度にもなんの疑問も抱かず受け入れる、稀有な人。
辿り着いた立川の巨災対本部。偶然にも、そこに屯していたのは矢口蘭堂そのひとだけだった。なんの思し召しかというようなタイミングに、安田はドアを開けたとたん、目を点にした。
「どうした、安田さん」
「エ、エート……ただいま、戻りました」
「ああ、おかえりなさい」
ふわり、と笑う。それはどう見ても大の大人、おじさんと呼ばれる年の男がつくるはずの無い流麗な笑いで、安田は、吸い寄せられるように一歩、二歩と踏み出した。もう、半ば圧倒されていた。
人は、「人と人とが支えあってできている」のだ、なんて抜かす教師に 学生時代から ざれごとを、と思っていた(元は、人間が一人で立っている姿からできた象形文字であるので)。リアリストである安田は、しかし、蘭堂という一人の独立した人間を支える人々を見て、なんだか、間違ってなかったのかもしれない、と考え直した。
三代目だ三代目だ、とはやしたてたとき(泉が教えてくれたのだ)も、彼はたいして気にせずに、安田が楽しそうなのが楽しい、というような目で見てきた。
飲み会と称した巨災対でのビール会で、半分酔っていた安田が、へべれけの矢口にツンデレお願いしまーーす!!!なんてテンションに頼んで言ったら、「そんなのは知らないな もっと普通の頼みを言えばか!」って罵ってきたりもした。そのときは、驚いた。真面目そうな見た目と、茶化したことすらやってくれる、許容の深さに。
その時のように赤らんではいない、スッキリとした顔がもう半歩進んで顔を下ろせばくっつくような位置にある。
安田は、矢口の目の前に突っ立ったまま、あるいは矢口が何か言うのを待つ志村のように、彼を見つめた。この実直な人間に、安田が本格的に興趣を駆られていることは確かだった。
矢口は数分ほど、安田からの不躾な視線を赦した。永遠とも思われる時間。安田には、他のメンバーが帰ってきていないことがおかしかったが、矢口が好きにさせているのだから良いじゃないか、とも思っていた。
「………僕の顔は面白いのか?」
矢口が放った言葉にはなんの嫌悪感も見えない。ただ疑問だというようなそれ。安田はたまらなくなって、大きく笑いをが飛び立とうとするのがわかった。けれど、腹の底に張り付けて押さえて、ええまあ、と首肯する。
「そうか、………なら、いくらでも見ると良い。安田さんのことだ、何か意味があるんだろう」
「へ、」
「僕はあなたを尊敬している
…………そういった頭脳戦では負けてばかりだし、安田さんは僕が二人いても負けてしまうような思考回路を持っているし」
「だからってそんなにさらけ出していいんすか? 志村君に怒られない?」
「怒られる? どうして」
ああこの副長官、なんにもわかっちゃいない。彼自身の机にバラバラと資料をばらまけた矢口。彼いわく頭脳戦に長けた安田の脳は、矢口がなんにも気づけていないことを察知する。それを指摘するべきか本の少し迷って、こういうのは本人が言うべきだ、とやめ。
矢口の花のかんばせを鑑賞、研究、見きわめることに視力を尽くす。
いくら観ていても飽きないと思った。
すぐに袖原が入室してきたから、何分かの二人きりだったけれど。
安田は、一旦矢口から離れて、パソコンの前のパイプ椅子にぐでぇともたれる。そうして斜め前で仕事に従事する矢口を観察する。安田の自堕落な格好をとがめる者(例えば尾頭だとか)は外に出ていた。
先程の無防備に曝された顔とはうって変わって、矢口には隙がない。表面に『政治家』の薄い膜が張っているような。
安田は、それが剥がれる瞬間を目にした。目にしてしまった。その事で、矢口に対して失望落胆するなんてことは全くなかった。
むしろ、もっと知ってみたい、と思った。
こんなにも、こんなにも毎日が嬉しくて、あの未曾有の大災害が通り過ぎても、こうして、生きていることが。意味もなく、いや ささやかながら意味がある。幸せなことだろう。
考えることも成長することも――例えばそう、あの神の遣いについての研究とか――たくさんある。のに、なんでまだもっと多くを求めてるんだろう。
結局その自問の答えは出ないままに、安田はタイピングを再開した。タッチタイピングで動かす指のスピードが加速していく、感覚が気持ち良い。ふと、矢口のほうに視線を向けると、彼は、炯々とした眸を閃かせ、安田に向け、目を細めた。
バクバクと心臓が高鳴る。煩わしくまとわりつく人間なんかに、こんなにも、と唸る。
あんたを教えてくれ! そう叫び出さなかっただけ、誉めてもらいたい。
やめよう、すぐに確率を出すのは
たった今までパソコンの前で作業をしていた先生の、目蓋の縁には疲れたように皺がより、その儚さを助長する。
巨災対での仕事の整理も佳境を迎え、やっと手にいれた二人きりの時間。人払いをしてくれた泉は部屋の外の廊下で飲み物でも用意しているだろう。
僕は覚悟を決め、心臓が口から飛び出そうな勢いで、対面するデスクに座る先生に呼び掛けた。
熱烈な告白だった。
自分のすべてを懸けて、応えてくださるなら命すら落としてもいいと思いながら。
それを、この人は。
「時間が解決する、ですか」
「ああ。………きみは雰囲気や吊り橋効果なんてものに流される質ではないから、それはきちんと本心なんだろう。だが、双方幸せになるには、あまりにも」
諭すように―――実際、前途洋々な若者のわがままを受け入れ、そして流そうとしていたのだろう―――案外長いまつげを伏せ、僕に言う。
「………苦しいんです」
「……………それもまた、時がたてば忘れるさ。僕は、君に永い苦しみを味あわせるなんてことを、望まないよ」
「……どうして」
キッと、先生をねめつける。普段そんなことをすれば罪悪感に皮膚を引きちぎられるような思いをするが、今日ばかりは自分が正しいと思った。
僕は、未来を語る先生のことが好きだ。未だ見ぬ理想を見据えてまっすぐに歩くスーツの背中の頼もしいのが何よりも好きだ。だけど、それを僕相手にも行使するなんて。自分への失望を手のひらに食い込む爪の熱さに感じながら、声を捻り出す。
「現在が苦しいのに、現在の僕には、そんなものが解決だなんて言えません、思えません」
「………志村」
困ったように僕を見る先生は、その実困ってなどいないのだ。
どういう経緯を辿ったとしても、最終的には僕が折れてくれると傲慢にも思っている。
その認識の甘さに、優しさに、僕は耐えきれないほどの怒りと嗜虐心と情けなさと、若者らしいと言われるような劣等感を胸に溜めた。
パソコンの画面では、さきほどダウンロードしたばかりのファイルがペカペカと存在を誇張している。それはまるで、先生の愛を乞う自分のようだ。
机で先生との距離があると言っても、さして問題はなく、掠めとるようにキスを奪うことはできた。それほど障害物のない二つの長テーブルが隣り合っておかれているだけだったから。けれど、そうはせずに、僕は先生が付けた赤黒いネクタイから、どんどんと上に視線を向けていく。シャツが開襟され見えた首筋の隆起や、きれいにカーブした顎、薄い唇。
「先生、ぼくは、いつまでも言い続けますよ。時間が流れれば僕の気持ちまで流されるなんて思わないでください。忘れないように、ずっと言い続けて見せますからね」
最後にたどり着いた、控えめながら存在感のある、光る瞳に視線を固定した。
そうすると、さきほどまで一ミリも動じていなかった先生の視線が、コンマちょっとだけ、動いた気がした。そうだ、このまま少しずつ動かしてさえやれば、先生の言う『時間が経った後』には先生はきっと、僕の手の中にある。
見放す前に、黒目を見つめて
もう秋はどこにもなく、見回すとそこはすっかり冬なのだった。俺は熱く白く丸い息を吐くと、矢口邸の門扉をたたく。
門の構えは圧倒的なまでに立派だ。高さはおよそ7メートル、幅は30メートルといったところだろうか。悪党もなにも寄せ付けない、ような。長い長い門の、鉄柵と、俺の眼には見えない、赤い光線で護られたそこに、場違いなほどちんまりと、取り付けられたドアフォン。
それを押してみれば、何度か見たことのある使用人が画面越しに、柵の向こうへ入るのを許可した。
前に来たのは確か、矢口がまだ少年の様相をしていたときのことだ。だというのに顔を覚えられていたこと、「赤坂さま、久方ぶりで」と言われたことにすこしばかりの暖かさを感じながら、寒い門の前から豪壮を極めた庭に、入り込んでいった。
庭に入ってすぐ見えた使用人の後ろについて、俺は並木道を進み、やがて古風な作りの豪邸の本角にたどりつく。使用人が扉を開けた屋敷は、冬夜の闇におぼめいていた。その輪郭は定かではない。それは灰色をくるみ、まるで露がそこに結晶しているかのように、立っていた。
「ぼっちゃまは茶室にお待ちでございます」
俗気がぬけ、さっぱりと洗練された趣のあるロビーを抜け、中庭を通り、渡り廊下を歩く。洋風の、薔薇咲き誇る園から、次第に由緒正しい日本庭園へと、外の様子が変わっていく。かすかに霧が出ている。
霧は秋の季語だ。春の霧を霞、夜の霞を朧と言うんですよと、才覚にすぐれた少年が言っていたのはいつだったか。季節によって表現が変わる日本語は、まるで矢口そのもののようだと、それを感じたのは、朧が出ていた頃だった、恐らく。
手入れの行き届いていない、安い下宿で生きてきた俺にとって、矢口邸の奥にある小さな――といっても、俺が棲んでいた部屋の二倍はある――茶室の畳は、未知のものだ。小さな扉を潜ってそこに浸入り、正座をすると、中で待っていた着物姿の蘭堂は笑った。
くす、くす。くすり。
矢口の着ていたのは、稽古用らしく縫紋の入ったお召しであった。袴は紬、綺麗な錆浅葱の角帯は綴織りで、山水模様が入っていた。袖口からのぞく長襦袢は、ぼかしのさっぱりしたもので、紺色が白い肌によく映える。
「秀樹さん、いいことをしましょう」
そう言った蘭堂が、茶碗を置いて俺に差し出したのは、真っ黒い、炭のような布。刃物でも持つかのように掲げた両方の手をこちらに向け、目を閉じるものだから、蘭堂が何をしたいのかが手に取るようにわかってしまった。
下座に座る蘭堂のうしろに回ると、落ち着いた朽葉色の袴が目に入った。その脇から少しだけ見える帯の色合せに、少年らしさと大人びた心が見えかくれしている。それに、らしくもなく興奮している自分が居た。
蘭堂と、この妖しい会瀬を始めたのは、それからだ。
蘭堂は育ちが良いから、不機嫌でいる事が最大の恥だと知っているし、誰のことでも褒めるし、そのための語彙がある。そして、悪口も黙って聴くが絶対に同意しない誠実さと狡猾さ、なにより秘密を守る堅実さがある。
ずっと学ぶことだけを考えてきた俺と渡り合えるほど博学だし、それが顔に出て、欠点が全くない。そんな蘭堂に目隠しをかけ、耳を舐めて、ときに首を絞めて貶める。それが赦されている快感は、どんな女を相手にしても、得られるものではない。
たてられた抹茶の香りがひどく、蘊奥に響いて。
痺れているのは、きっと、足だけではなかった。
回想もほどほどに、足を止める。
天然の樹木を切った板だけで(釘なども使わずに)できた廊下に蔓延っていた、湿った空気が、ぱりりと乾いていくような感覚に、矢口がいる場所へと到着したのだとわかった。
からりと小さな戸を開け、不思議と麻のにおいのする中へと、滑るように入る。俺が来た気配に、少しだけまぶたをあげた蘭堂が、こちらを見る。
畳に映る影は、あの頃よりずっと大きなそれであるのに、居振る舞いは全く変わらない。不思議を通り越しておそろしい。こんな男に似合うのは、自分くらいのものだと、何度思っただろう。
「来てくれたんですか」
「………お前が呼びつけたんだろう」
「ええ。……遊んで、くださいね?」
こてん、と首をかしげる。蘭堂のしぐさはいちいち稚児めいている。
「秀樹さん、座って」
もう子供でもないのに、我が儘を言うその顔が憎らしい。
俺は、蘭堂の正面に立ち、左足を引いて、そのまま腰を落とす。正座のかたちに腰を下ろすと、矢口は、目線が合ったことが嬉しいのか、色無地の袖で、綻んだ口許を隠した。
「………ずいぶん、いいのを着ているな」
「父の遺したのが、着れるようになったんです。どうですか」
「どうって」
蘭堂とは対照的に、俺の格好は普段政務で着ている背広だ。
茶会、などというと着物のイメージがあるが、男の場合は背広でもいいのだという。ただし、派手なものではなく無地のもの。 また、懐紙と扇子は必ず持参しなさいと、訥々と、俺に語り聞かせたのは、蘭堂の父である。
「あなたが喜ぶだろうと思ったんですよ。違いますか」
藍媚茶の羽織が、襖から入るすきま風に揺られる。その表情がかの父にあまりにもそっくりで、どんな表情をすればいいものか、一瞬、わからなくなった。
茶道での主は、自分ではない。空間の中で大切なものは他人であり、道具であり自然であり、とにかく、自分というのは極力控えるのが茶道における着物だ。露地に調和するよう、部屋の中や道具を引き立たせるような。そういう点では、蘭堂の選んだのは正しい形であろう。蘭堂の着るものは、全てが全て一級品だった。同じく静謐な美しさの部屋には似合っている。荒々しさの欠片もない箪笥の細工や、きれいに慣らされた畳、僅かの日差し。そこにポツリとおかれた蘭堂の格好は、まさに非のうちどころのない組み合わせに見えた。
だが、それを云うのはなぜだか憚られて、俺は首を振る。代わりに出たのは、蘭堂の勘繰りに対する否定だった。
「俺はあの人とそういう関係ではない………と、いくら言ったら解るんだ」
「……ほんとうに?」
「ああ。誓って」
俺は何に誓っているのか。神に?仏に? それとも、亡き、彼の父にだろうか。自分すら、誓いの方向がわかっていない戯れ言だったが、蘭堂はいくらか満足したように「そうですか」と言って、俺にあの布を差し出す。三本の指で畳の上を滑らせるように、畳まれた黒を。
「遊びましょう、秀樹さん」
掛け軸の鶴、それの白が蘭堂の後ろでひらめく。部屋の隅には桐の箱がいくつか。恐らく茶の道具だ。それを傍目に、俺は立ち上がる。座ったときとは逆の動きで、ゆっくりと。ぎりぎりまで時間を伸ばしてやるほうが、蘭堂は気持ちを昂らせた。
蘭堂の後ろに立て膝をついて座ると、蘭堂が履く足袋が目に入る。真白のそれは、汚れなど微塵も寄せ付けないようにほんの一部だけが互い違いに組み合っている。
左手に持った布を蘭堂の後ろから通して、頭部を一周させる。布の上からまぶたの鳴動が感じられた。砂に包まれた丘陵のような暖かさに、砂丘をたどる自分の指が蠍であると、夢想する。空想する。蘭堂の、引き締まった目元の筋肉を少しずつほぐし、俺は、毒を注入していく。真っ暗に目隠しをされたまま、しゃんと、背筋を伸ばしたまま正座を崩さない蘭堂の背姿。そこに欲情を覚えないというのは無茶がありすぎた。
俺の荒い息に気づいた蘭堂が、口をふるりと震わせて笑う。
「良いですよ、秀樹さん、痕を、つけても」
「…………ビジネスでの“つきあい”はしばらくないのか」
蘭堂の袂に手を入れ小さな突起をなぞる。
ふんわりと優しく、程よい張りのある上質な生肌の感触が返ってくる。牡丹唐草の地模様が織られた色無地は、高級品らしく手の甲へ涼やかな印象を残した。
また、両面織りのために、首の後ろから裏地を見てみれば、そこにも竹縞の地紋が織られていた。
上品で綺麗な絹の光沢を存分に感じて、しかし、やはり蘭堂の肌には敵わぬと思う。同じ性別、三十路の男にそんな感想を抱くとは、俺も大概だった。
「ええ。そうだとしても、なにも問題はありませんよ」
「痕ひとつくらいで別れるような人間は撰んでいないと?」
すると蘭堂の口許が不思議そうに歪む。何を言っているんだろうこの人は、というようだった。蘭堂は気持ちが口に出やすい……見た目だけの話だが。
「人を選ぶなんて。ぼくはそんなことはしませんよ」
誰に対しても平等に分け隔てなく、自分よりも国民を優先する蘭堂だからこその、聖人のお手本のような返答。それに思わず、頭がくらりとする。
「ふふ、くすぐったい」
蘭堂はなおも、くすくす笑いを漏らしていた。その間も胸をまさぐる手を止めてやらないものだから、蘭堂の体は興奮しながらも、喋り口は冷静という、おかしな状態になっている。
「……ん、……秀樹、さん」
「なんだ」
「愛してます、よ」
優婉なふくらみに手を沿わせたまま、固まる。俺に想いを投げる蘭堂は、平静な息を保ったままだ。俺はどうしようもなく動揺する心を悟られぬよう、さらりと折り目立った髪に埋没した細い布の、その結び目を意味もなく見つめる。
「それを……誰にでも言ってるんだろ」
「だから、何です?」
当然のように宣う様は、どうしてこんなにも潔く美しいのか。
そうだ。愛した。愛してしまった。俺は、その聖人のごとく気高い魂を、愛したのだ。けれど、そんなところこそが疎ましくてたまらない。愛しているからこそ、憎い。この上なく憎いのに、愛しくてしょうがない。
「…………お前は、そういうやつだ」
端然と形が整った蘭堂の頬に、指を滑らせる。俺の節の出た手指に、蘭堂が白魚のような手を重ねた。目隠しをされて手慰みにされる蘭堂がそちらからなにかことを起こすのは、始めてのことではない。愛憎を抱えている俺を、俺の、指を、撫ぜる。かわいそうでみていられないという風に。
艷やかなきぬずれの音がして、あのころの俺を突き動かした細部が、あらわになる。軟らかからず、堅からず。この全く矛盾した二つの要素が織り込まれたような、蘭堂の躯に足を割りいれた。
「……目隠しは? 取ってほしいのか」
「いつも言うんですね。取らなくて良いですよ。なにも見えない方が、もっとあなたを感じられる」
茶室に忍び寄る湿り気を、機を織り吸い込んだように、蘭堂が笑う。父の性質を、母の容貌をそのまま持っている身体は、生きた人形として賞賛されても良いほどたわやかだった。
蘭堂の声は、俺の欲は、夕闇の中に融け去っていく。
錯覚していたのだ間違いはないと
詰まらなそうに小さく、息をついた、電話越しの色男。志村は、それを聞き逃さ無かった。
「あいつはすがることを知らない男だ」と電話口で、何度も言ったことのある口馴染んだ言葉を無理矢理吐き出したような赤坂に、副長官はぼくを頼ってくださいますが、と煽ってみた折のことだ。
人間から一番遠いところにある、矢口蘭堂という存在を、人格を、総てくるめて皮肉るように、赤坂は鼻で笑った。
どんなに矢口に近づいても、あいつは誰にも心の一番弱いところなんて見せはしないさと。
そこに、隠しようもない矢口への慈しみがぬるりと顔を出す。
志村は、一人だといえ、副長官室で、舌打ちを打ちたくなるなど思ってもみなかった。
外出より帰ってきた矢口に電話を手渡したのはそのすぐあとだ。志村は、これ以上話すことにならなくて良かったと安堵する自分に気付いたが、気づかないふりをした。赤坂と、ごくプライベートな会話をしているであろう矢口のスーツの背中は、随分遠く見えた。
やめてください、できないならつれていってください、そう志村が矢口に言ったのは、おそらく放射線を一番に浴び後遺症が残る可能性も半分を切ることはないであろうヤシオリ作戦、そのときの前日である。
志村は矢口を一番近くで――これは、彼の友人足る泉にも勝ち得ることだ――見てきたのだから、きっと自分も行けるものだと思っていたのだ。それは、賢く堅実な志村らしくもない期待と呼べるものだった。そうだろうと矢口が一時的に棲んでいる仮設住宅の扉を叩いてみれば、帰ってきたのは実につれない、淡々とした返事。
「君を連れていくことはしない」
「………………なぜ、ですか」
戸を開き、志村を招き入れたときの(未だシャツ姿の)矢口のかんばせは今や透明に佇む水海のようで、小さな折り畳みテーブルに出された茶は志村の喉を通らなかった。
出来ない、ではなく、しない、と言ったことからも、もう取りつく島など地平線の彼方にあるのだと解りきっている。それでも、明星、日本で一番危険な場所になるであろうところに矢口を放り込むことを、そこに志村自身がいないことを、受け入れられず。
しっかりと正座をした志村と対象に、自室のためかあぐらを崩した矢口へ詰め寄った。彼の私物だろうテーブルクロスがずるりとずれるのも気にしない。
「……副長官の仕事に、ついていくことこそ、僕のいる意味です」
「いや、それは、君が背負うべきじゃない……志村、君には迎えるべき未来がある」
「それはっ、あなたも同じことだ!」
「この作戦が無事に終わっても、終わらなくても。僕はそのうち、この政界からは追い出されるだろう?」
「そ……んな、」
「………君は僕の仕事を一番に見ている。最近では巨災対の皆とも上手くやっているじゃないか。だから、ここに残っていて、もしもの時には、僕の代わりに」
具体的な指令を出すわけでも、頼む、と請うわけでもない。一拍置いてから言われた言葉に、逆に、矢口の意思の堅さと、これは絶対のことなのだ、というそれが浮き彫りにされた。志村は細面の全体に苦渋を滲ませ、長い足を窮屈に折り曲げ正座に直す。
仮設住宅の小振りの窓へ宵の光が射し込む。何度神の咆哮に焼ききれようとも空に浮かんだ薄曇を通り越しては、矢口の背へ降り注いだ。ものの無い部屋は暗く寒いはずであるのに、その光が矢口を包んでいるだけで、ここがいっとう素晴らしい桃源郷であるかのように思えてくる。その事に志村は、恐怖を覚えた。それはつまり、矢口がいなくなったとき、この世の楽園が奪い去られてしまうということだと。
「僕に、選択の余地の無いのくらい、解ってくれていると思っていたんだが」
揺すぶるように、苦笑いをほころばせた矢口に、志村はついに屈する。わかっていますと。内心のぐるぐる煮えたぎる熱量に蓋をし続けながら。
矢口は、もう遅いからと、彼の部屋への夜の間の滞在を許したが、矢口の部屋に居続ければ今に、身も世もない我が儘がもっと溢れそうで、志村は沈鬱な気分で辞退した。
説得というのは、送り手が受け手に、“何らかの選択の自由がある状況のもとで”言葉を伝達することによって、受け手の信念、態度、行動を変えようとすること、もしくはその過程、である―――というのを加味してみれば、志村の期待など塵芥にも等しかった。矢口が最後に指揮を執ろうとしているのは、彼にとって決定事項。つまり、志村が行ったのは、説得ではなくみっともない懇願だった。我が儘だった。
自分に振り分けられた部屋にたどり着くまでの味気の無い道路に、空っぽな気持ちを捨て置くようにした。道端に咲く可憐な秋桜も、志村の心は慰めてくれない。
矢口の事が好きすぎてたまらなくて、訳も分からないほどの感情の奔流が志村を苦しめる。
叫びたいほどに乞う彼が居なくなるなど、考えたくもなかった。我が儘を他人に投げつけたのなんて、子供の頃以来だ。そこまで引き戻してさえ、矢口を繋ぎ止めたいのだと、優秀な頭脳はわかってしまって、自室のドアを開ける頃には、志村のすべらかな頬と尖った顎は、海の味のするみずに浸かっていた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
1 / 1