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【番外編・儀一】触れ合う治療
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僕は医者じゃないから、病気を根本から治してあげられない。
出来るのは、カウンセリングだ。話をして、何がストレスか、どうやったら楽に生きていけるか、一緒に悩んでそばにいること。病気そのものの治療ではなく、病気によって困ることの手伝いだ。
それ以上、僕に何か出来る術はないのか?
探した時に知ったのが『タッチセラピー』という考え方だ。
認知症患者や、自閉症、あるいは知的障害といったコミュニケーションに難のある人にマッサージを行い、オキシトシンというホルモンの分泌を促して社会性を養う一助にする、というものだ。
よく「ハグをすると1日のストレスがぶっ飛ぶ」とかいうが、原理は同じだ。安心出来る状態での皮膚接触、スキンシップには効能がある。
僕がこれから昭知くんにするマッサージは、つまり薬を落ち着いて飲めない状態の彼を、手肌の温もりで鎮静化しようという事。
汚れても大丈夫なように毛布をベッドに敷いて、いつでも戻せるように洗面器も持ってきて、ホッカイロを振って手指を温める。
涙と鼻水を流す昭知くんは、女の子座りで目を伏せ、時々胸を抑える。その手にそっと僕の手を重ねると、大人と子供みたいに大きさが異なる。すっぽりと包み込んで、ゆっくりと皮膚を温めた手肌で擦る。
折れてしまいそうな白い小指の先を優しく包み込み、じわり、じわりと骨に沿って撫で下ろす。爪の付け根、指の間の薄いひだ、すべてをもれなく確かめていく。
マッサージというと、皮膚の下にある筋肉をほぐすために力を込めるイメージだが、これは皮膚の表面をくまなくゆっくり触れる行為だ。力は込めない。
オキシトシンの分泌に関わる部位は背中とされている。それと、皮膚感覚の鋭い手と足に触れる。
「……っ、う……」
「いつでも吐いていいからね。大丈夫、大丈夫だよ」
手のひらのシワをなぞるように親指を当て、両手で包み込む。神経の多い手のひらは特にきめ細やかに、ゆっくりと触れていく。力んだように固まった関節が少しほぐれる。震えが、伝わってくる。
手全体がじんわりと温まったのを確認し、そっと握手すると、昭知くんはくる、と背中を向けて、上着を一枚脱ぐ。近くにあった緑色の怪獣のぬいぐるみを胸に抱いた。
昭知くんは、背中を撫でられるのが特に好きらしい。怖がらずに背を向けてくれる。理論とは離れた肉体感覚のところで、実感としてそれを求めているのだろうか。
華奢で、背骨が分かる。パン屋で働き出してから幾分肉がついたとはいえ、虚弱な背中だ。
首筋から肩へ、中心から外側へ。ゆっくり、触れられた感覚が分かるように撫でていく。背中は肌と肌との接触ではないため、少しだけ指に力を込めて、だけど絶対に優しく。
身体を近づけて、彼の太もものすぐ近くに膝を置く。肋骨より下に手を伸ばす時には一声かけて、細くかすかにくびれた腰の辺りを、そおっと撫でていく。
鼻水をすすり、は、あ、んうう、と何度も吐息を漏らし、背中はだんだん、柔らかく丸まっていく。
昭知くんが女の子っぽい顔つきと体格をしているからか、何かいやらしいことをしているような錯覚がする。ぐすぐす、はあはあと音もそれらしい。
タッチセラピーには受け手のメリットもそうだが、施術する側も皮膚で相手と長く接していくばくかの恩恵を得られる、というが、僕のこれは勘違いも甚だしい。
震えがおさまってきた。足の方をし終わったら、なんとか薬が飲めそうな気がする。
「昭知くん、次、足出せる?」
そっと耳打ちすると、昭知くんはこてん、と横に倒れ、重なったくるぶしを少しずらして、足の裏を差し出す。
靴下を脱がしながら、妙に色っぽい仕草だな、顔色は、と彼を伺い見ると、姿勢を変えたことで少し長い髪の毛が首を滑り落ちて、白いうなじの辺りが露わだ。
そこに歯型を見つけて、心臓が跳ねた。
……平静を装い、ホッカイロを握って、少し汗ばんだ足の裏や、足の甲に指を沿わす。
土踏まずのあたりや足裏の真ん中を指が通ると、くすぐったいのか足指をもぞもぞと動かす。泣いていた目は閉じて、リラックスした横顔に見える。意識が少し遠くなっているのか、怪獣のぬいぐるみの口元に自らの唇を寄せ、幼びたあどけない表情だ。
頭の中は混乱している。
徳永刑事の話は聞いた。本人が今さっき、友人との関係を恋人だと告げた。それは分かっていても、ありありと残された淫らな行為の証拠を前にして、動揺している。
病院で性衝動についての認知や行動の学習、性行為の禁止、を指導されているはず。彼は女性恐怖という形でそれをあるいみ実践していた。
これまで男性から性行為をされそうになっても拒否をしたり……錯乱するほどの、拒絶があった。女装癖はあっても男性を性的に好きなのではない、女性になりたい感覚はなく、むしろ男性らしくありたくないようだ、と判断されてきた。
いろいろな前提が、覆った。
……それでも、少し安堵がある。
相手への好意があっての行為だから。
ある種の因果応報でいいように乱暴されたのではなく、彼は生まれて初めて、愛する人と心を通わせたのだ、と思うから。
そうでなければ、きっと贈り物ひとつ失ってこんなに動揺しない。
指の間までくまなく触れて、靴下を履かせる。この靴下は、確か彼に買って貰った物だったか。
「ん……おわり……?」
「おしまい。薬、飲めそう? 食べ物も、食べられそうなら少しお腹に入れた方がいいね」
「やだ……もっと……ぎゅっとして……」
身体を近づけ僕を見上げ、小さな子供のようにねだる。髪の毛が歯型を覆い隠す。
「……多分、いつものリサイクルショップだから、明日、円満くんと買い戻しに行くよ。大丈夫、今ここにないだけで、戻ってくる。お薬飲んで落ち着こう。飲みやすいように白湯を入れるから」
使わないで済んだ洗面器を拾い、毛布を丸めてベッドから降りると、後ろから腰の辺りをきゅっと抱かれた。おでこがすりすり背中で動いている。
「や、いっちゃ、やだ」
「じゃあ一緒に行こう。大丈夫、気が済むまでそうしてていいよ」
部屋を出ると、共用部のテーブルで柴さんと白妙さんがパスタを食べていた。白妙さんは湯上りの濡れ髪のままずっと喋って、柴さんは打ちたい時だけ相槌を打っている。柴さんは心配そうに僕たちを見た。
「お、大丈夫か? ……抱っこちゃんになってっけど」
「注射は回避出来ましたかね」
ヤカンを沸かし、沸騰する前に火を止め、マグカップに注ぐ。昭知くんは抗不安薬の粒を舌に乗せ、それを飲む。
抗不安薬には抗鬱・抗躁薬などと比べ即効性があるが依存性もあるので、回数と量は減らせるものなら減らしたい。
「何? はとちゃん、具合悪いの?」
白妙さんの口元はミートソースで真っ赤だ。
「円満の奴にまーた盗まれてよ」
「それは、よくないね。僕も路上行って帰ってきたら、テレビとか、盗まれてて困っちゃうよ。円満はずる賢いから、盗む相手は選ぶんだ。ひどいよ」
円満くんは確かに相手を選ぶ。自分より弱そうだと判断した男からしか盗まない。柴さんの物は盗まないのはそういう認識だ。また、姉妹の部屋には入らないし、女の管理人には食ってかからない。
彼には彼なりのルールがある。その歪みを社会のそれに近づける場が、病院でも医療少年院でも刑務所でもない、社会の片隅にあるここの存在意義だろう。
「……郷田さんに、円満くんの様子どうか聞きに行きたいけど……」
きゅっと引っ付かれて、とりあえず椅子に腰かけると、膝に乗られた。同じ建物の一階二階で通話も変だが、郷田さんに電話した。
二階でモリモリとパスタを食べながらも、悪い事をした、という反省をしているようだ。
『あまるていあ』には平穏無事などない。
ならば起こった出来事から、学んで、変わっていくことが大事だ。失敗しながら、ゆっくりとでも成長してほしい。それを僕は、すぐそばで支えたい。
22時。
睡眠薬が出ている人には服用して貰い、各々共用部から部屋への移動を促す。
郷田さんは申し送りを作成次第、業務を終えて帰ることになる。今日も宿直は僕。
昭知くんはしがみついてくるのはやめたが、依然として僕のそばから離れない。
結局、パスタは食べなかった。僕の部屋にあったゼリー飲料を取らせて、夕食後の薬を飲ませた。戻す様子はない。
仕方なく彼の隣で申し送りをメールすると、案の定、上からの電話がかかってきた。
事態の詳しい説明。特に昭知くんが恋人を作ったという事についての情報を求められた。
やはり「別れさせろ」の一点張りだ。
脳裏に、歯型の痕がゆらめく。
意志の弱い昭知くんが食い物にされているんじゃないのか?
米田姉妹の妹、都萌絵さんが悪い男に騙されて風俗でいいように働かされて、10代で望まぬ妊娠をしてしまったように。
彼に好意があっても、そんなの重要じゃない、やめさせなきゃ。
狭川という相手の男を呼べ、すぐにだ。
どうせ、悪い奴だ。騙されてる。
狭川柊人を呼び出し話を詳しく聞く、という点で合意する。
……上からすれば、ここに住む利用者は金の卵を生む鶏だ。
生活保護や障害年金といった、ある意味で固い収入を持つ、そして責任能力の弱い人間の財布を握る。その上、補助金なんかも国から引き出す。
貧困ビジネスなんていうものの、一端だ。
他に行き場のない存在の、味方と見せかけた下衆な商売。
……心配してるんじゃない。
保護という名の束縛だ。
鶏が鶏小屋から逃げて傷付き、商品価値が下がるのを憂いてるんだ。本来なら、傷付いたとしても、そこに彼らの意志があるなら、それを支えてあげるべきなのに。
親切にしてくれた良心的な人さえ、遠ざけてしまうなんて、僕には飲みがたい意見だ。
……電話が長引き、もう日付が変わった。
昭知くんは眠そうじゃない。
僕は眠い。
「……もう部屋に行って寝よう?」
いやいや、と首を横に振る。
「……なるほど、折衷案を取ろう。僕は昭知くんのそばで寝るから。ね? それと……電話借りていいかな? 狭川さんとお話しなきゃいけないんだ」
なんだか嫌そうな、怖いような微妙な表情で首をかしげている。
思わず、首筋に手が伸びる。
さっきマッサージした時は髪の毛で分からなかったけれど、かすかに凹凸が残る。
「……ここ、歯型がついてる」
きょとん、として、自分で首筋に触れ、昭知くんは赤面した。とろん、とした瞳で何度も噛み痕を愛おしげに撫で、
「……ああ、しゅうとさん……これなら……だれにも、ぬすまれないねぇ……」
うっとりと呟く。
もう一度部屋へ移動するのを促すと、すんなりと上手くいった。
……また電話で、今夜も睡眠時間が押せ押せになりそうだ。
倒れないと休めないだろうが、倒れてやるつもりはない。
なにせ、頑丈が取り柄だ。
「いっしょに、おふろ、入りませんか?」
「……遅くなるけど、いいの?」
「うん。おしごと、おわるのまってる。いつも、ありがとうございます」
あれから、昭知くんは時々、僕とお風呂に入るのをせがむようになった。これまでなら考えられない進歩だ。
……白いお腹に浮かぶ猟奇的なまでの痕は、何度見ても痛々しい。
昭知くんは、僕のお腹にちょこっと残った刺し傷を、撫でてくる。
勲章のように誇ることはなくとも、それでも傷付きながらもがいてきた事を、優しく褒め称えてくれるみたいだ。
お互いの身体を洗いあって、大きめの湯船に2人して浸かった。
「……また、おしゃべり、きいてくれる?」
「いいよ。本当に、昭知くんは彼の事が好きなんだねえ」
「うん……大好きなの……」
昭知くんは、何故だかのろけ話をお風呂でばかり話すのだ。彼なりの内緒話のやり方なのだろうか。
お湯に浸かって桃色になった昭知くんの頬が柔らかくほころぶ。首筋にあった歯型は消えた。ほんのりと尖った喉仏が、びばのんのーん、と呟いて上下する。
微笑ましいような、複雑なような、親心のような何かが胸の中で揺れる。
「あのねえ、しゅうとさんはねえ、」
なんだか湯気に混じって、いくつものハートマークが浮かんでいるみたいだ、と思った。
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