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そばにいる痛み
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はとちゃんの部屋は、なんだかがらんとしていた。
安っぽいぬいぐるみでいっぱいのベッドと、衣装タンスと、古びた鏡台。あとはせいぜい細長い花瓶くらい。
花瓶のそばに「おひる」と書かれた薬の小さな袋が置いてある。
本当に物が無くて、独居房、病室、監獄? そんな風に見える。
さっきの白妙さんの部屋とデザインこそ同じだが、あまりに何にも無い。テレビも椅子もカーペットも、何にも。
昼なのに締め切られたカーテンを開けてみると、窓には開かないようにつっかえ棒が嵌っていた。……なんで? 換気しないの?
はとちゃんは、部屋の鍵をかけた。扉の隙間からのぞく姉妹が見えなくなる。
マスクを外し、ようやくはとちゃんの表情が分かる。
無理やり笑っている、みたいな口元だった。
「…………ごめんね」
「な、なんで謝る……?」
それには答えずに、はとちゃんはベッドに腰掛けて、緑色でツノが生えてて唇が分厚い、不細工な怪獣のぬいぐるみをぎゅっと胸に抱いた。
「しゅうとさん、いそがしいのに、よんじゃった。管理人さんに、みんなに、ないしょだったのに、言っちゃった。だいじなのに、お花も、お年玉も、とられちゃった。ぜんぶ。……ぼくが、だめなせいだ。ぼくは……うう、ちがうの、こんな……ちがうの、あのね、あの、あの……」
隣に座ると、思ったよりはクッション性のあるベッドだった。ぬいぐるみをスカートの上で抱える横顔は、とても子供っぽく見える。
「……あの……き、きてくれて……ありがとう……」
ぬいぐるみに顔を埋もれさせて、絞り出すように呟いた。そっと抱きしめて、こめかみにキスをした。
「むしろ、俺が沢山謝らないと。ちゃんと管理人さんにあらかじめ、俺たち付き合ってますって言えたら良かったんだ。そしたら内緒になんてしなくて済んだ。あげないでって言われたのに、ついお年玉あげちゃったし。はあ、俺が自分勝手したツケがぜーんぶ、はとちゃんに行っちゃってたな。ごめんなあ……でもこうしてはとちゃんのお部屋に一緒に居れて、すごく嬉しいよ……こちらこそ呼んでくれてありがとうな……!」
ほおずりしながら一息に言うと、はとちゃんは、ほっとしたように笑った。
「なんにもないよぉ、ぼくのおへや。テレビも、ラジカセも、あったけど、えまくんがとっていっちゃうの。おおつぼさんが、何回ももどしてくれたけど、お仕ごとふえちゃうから、もうテレビいらないって言ったの」
それはつまり、テレビだってラジカセだって、本当は欲しいって思ってる、ってことだよな。
「……そんなに懲りない悪い奴なのかよ、エマって奴は?」
ううん、とはとちゃんは首を横に振った。
「わるいひとじゃないよ。ただ、がまんするのがにがてなの。ふだんはぼくにかまってくれるし、いっしょにあそんでくれるよ」
「仲良しなら物盗んでいい訳がねえんだよ。ちゃんと盗まないでって言ってる? はとちゃん、なんか笑って許しちゃいそうだ。はとちゃんが我慢する必要なんて、ないのに」
「……きのうは、泣いてへんになっちゃったからかなあ、えまくん、あやまってくれたの。おちこんでた。でも、でもね、ぼくもわるいんだあ。おへやに、かぎ、かけてなかったもん。もっと、だいじなものは、だいじにしなきゃだったんだ」
俺ははとちゃんの身体をきゅっと抱きとめて、首に鼻先を擦り付ける。よく見ると、確かに歯型らしきものが残っている。少し色っぽい。
「大丈夫だよ、はとちゃん。はとちゃんは優しいから、許してあげようあげようってするの、分かったから、俺。でもはとちゃん、たまには怒っていいんだよ。悲しいとか不安とか、そういう気持ち、俺が受け止めたげる。何したって俺ははとちゃんのこと、大好きだからさ」
……俺は、この人の泣ける場所になりたい。
何度も傷付けてしまった分、この人には傷付けられても構わないんだ、と思う。
胸の中で押し込めた気持ちをぶちまけるはけ口みたいなものに、なりたい。
そのために、俺はここに来た。
「……おこってないよ?」
「嘘。気付いてないとか、怒ったら駄目だって思ってるとか、してるよ。そうじゃなきゃ、具合悪くて涙が止まらない、なんて起こらないだろ?」
「……わるくち、言ったらだめだもん」
「駄目じゃない。何でも聞かせてよ、ね?」
ムッとしたような表情が、切なげな伏せ目に変わる。少し黙って、それから少しずつ、愚痴をこぼし始めた。
最初はエマという子に再三に渡って物を盗られたり、気持ち悪いってなじられたり、お風呂をのぞかれそうになったり、と個人に対する愚痴だった。
次第に、もっと大きなものに対する怒りや悲しみに変わっていった。
それは、無力な自分へのいらだちだった。
父や母、学校に通わせてくれた親戚、病院、職場、あるいはこの場所、色んなものに迷惑ばかりかけて、ちっとも恩返しが出来ないのが悔しくて、消えてしまいたくなる。
自分が恥ずかしいできそこないだから、素敵なお花にちゃんと向き合うことすら、ままならない。それでますます恥ずかしい。
怖い。お花がなくなっていたらどうしよう、支えを失って落ちて砕けてしまったみたい、そばにいて、助けて、どうか。
泣きじゃくりながら、震えながら、そんなことを喋って、泣き疲れたのかそもそも昨晩眠れていなかったのか、次第に俺に寄りかかって、何も言わなくなった。
ベッドに寝かせて、そばで手を握っていた。
そういえば、いつものパニックの薬も無しに落ち着いたな、いや朝から飲んでたのかな、最後まで俺への不満はひとつも言ってくれなかった、とか思っていたら、扉がノックされた。
鍵を開けると、疲れた顔の大男と、太った男の子が立っていた。
大男は背丈は190近くはあるだろうか、よく鍛えられていて、ラグビーとかの選手みたいだと思った。でも目の下のクマが酷い。
太った子は、険しい顔に出っ張って弛んだ腹をしている。背は低い。いや、隣がデカいだけかもしれない。小さいジャイアンみたいな感じがする。
大男が少し屈んで、一礼する。
「……おっと、これはこれは、もうお越しになってましたか。初めまして、総管理人の大坪儀一と申します。……こちらで、間違いありませんか」
太った子が、箱を差し出す。蓋をずらすと、花と共にあの時のプリクラが入っていた。
「ああ……はい、そうです……すいません今はとちゃん寝たとこで、代わりに受け取っておきます。狭川柊人と申します、わざわざどうも……」
大坪さんと握手して、もう一人にも手を差し出したら、険しい顔がもっと険しくなる。
「円満くん。自己紹介しな」
「……横野円満です。…………よろしく」
この子が、例の。
全然歓迎されてる感じではないが、とりあえず手は握ってくれた。と思ったら、急にパパッと駆け出して、階段を上がっていった。上の方から、地団駄を踏んでいるような、ジタバタした足音がする。
大坪さんが困ったようにフォローを入れる。
「ああうん、円満くんあなたに、というかあなたを手に入れた昭知くんに、嫉妬している風なんですよ。花やお金を盗んだのも、多分うらやましいんでしょう。彼も親からあまり愛されなかったから。……そうだな、管理人室で二人を呼んで、と思ったけど、中でお話しますね。昭知くん無しで話すのは、フェアじゃない。彼についての話ですから」
そう言って大坪さんは共用スペースから椅子を二つ持ち、部屋の中に入れた。同じ椅子なのに、大坪さんが腰掛けると妙に小さく頼りなげに見えた。
天井の方から音はするが、とりあえずはとちゃんはぬいぐるみを枕にしてすうすう寝息を立てている。
思わず音に見上げると、大坪さんが微笑む。
「……これでも良くなってきたんです。自分が一番じゃなきゃ気が済まないタイプで、男の管理人に食ってかかったり、かつては管理人に刃物を突き刺してしまったこともあります。……ま、僕なんですけどね。図体が大きいせいか、ちょっとお腹に傷つく位で済みました」
は? 刃物?
何サラッとガチでヤバい事言ってるんだ、この人!?
「はぁ!? ええ、お、追い出さないんですか……!?」
「行き先は路上か刑務所か、ですよ。臭い物には蓋をすればいいかもしれないですが、問題が解決する訳ではないです。ここで、『あまるていあ』でなんとかかんとかやっていくのが、彼にとっての最善だと思います」
絶句していると、大坪さんはバッグからファイルを取り出して、紙に目を通した。
「……まず、僕の立場というか、考え方を伝えておきますね。僕はお二人の関係については否定しませんし、昭知くんの意志を尊重します。助言はしても、押し付けはしません。ただ……上がね。病院の指導も恋愛厳禁という態度ですし、まあ渋い顔するんです。こうして話を伺うのも、上の指示で」
「……すみません、勝手に、先走るみたいに関係を進めてしまって」
「えっと……どう聞いたらいいんですかね? 昭知くんとお風呂入ったことあります?」
ある。
……外で無理やり犯した後だ。
背中がなんだか冷え冷えする。
「……あります。はとちゃんのお腹の傷のこととか、過去に……色々あったこととかは、聞いてます」
大坪さんは、おお、と驚いたように紙に何か書き加えている。
「すごいですね。彼、相当あなたに気を許してる。お腹の傷もそうですけど、トラウマが薄れてきてるのかも……」
「……ん、お風呂、駄目だったんですか?」
「そのはずです。僕もごく最近ですよ、一緒に入るなんて。ご両親の話は、どの程度耳に入ってます?」
「お父さんがあの傷を付けて心中して亡くなられて、お母さんは精神的に触れちゃって入院してる、って」
「……昭知くん、お母さんから虐待されてたんです」
「……!?」
そんな、まさか、そんなことは一言も。
「警察の……徳永刑事の話では、お風呂場にカメラを持ち込んで、色々……酷い写真が出てきたんだそうです。まともに入浴出来るようになったのは、成人してからです」
色々? 色々って何?
あれ、確か風呂場って、そうだ、あの時、
『おふろばからにげだした』って。
逃げ出すってことは、
……襲われていた、ってこと……か……?
すやすや眠るはとちゃんを見つめる。
この世の地獄を吸引しまくるブラックホールかよ、なんでそんな目にばっかり遭わなきゃならなかった。貧乏くじしか入ってない箱から延々と引かされてるみたいだ。
脱力感のような、全身が虚脱するような感覚がする。
「……しんどいですよね」
見透かすように、大坪さんは言う。
「昭知くんは、しんどい体験を凄くしてきた子だと思います。そういう子って、接する側も辛い気持ちになりがちです。狭川さんは、この道のプロでもなんでもない、ただ、彼の近くにいただけです。あなたが辛くなったら、いつでも関係を終わらせていい。昭知くんの症状が揺れたとしても、我々が支えますから」
毅然とした、仕事人の佇まい。
この人は信頼の置ける人だ、と感じる。
「……きっかけとか、過程とかは、とても褒められたもんじゃないと思うんですけど、今の俺は……はとちゃんを支えたいって、この人のために何なら出来る、って考えてるんです。ただ恋するだけならもっと楽なところに行きますよ、そりゃ。でも、俺……たぶん、本気なんです。偶然だとしても、もう出逢ってしまったからには、離れたくなくて……」
大坪さんは何度も、うなずくように首を振った。とても、嬉しそうに見えた。
「安心しました。昭知くんの救護をして下さった縁ですから、誠実な方なんだろうとは思っていたんです。まあ、歯型が付いてるのを見つけた時は流石に焦りましたが」
「ああっ、すいません、本当にごめんなさい、俺は全然いい人ではないんです……!」
この誤解、解きたいけど解いたらガチで終わる予感がする。本当に申し訳ない。頭を下げて首を横に振る。
「はは、謙遜なさらず。ま、上には悪いことを企てている様子はない、ただ相手が同性であるだけの普通の恋愛だ、と伝えておきますから。連絡先を交換しておきましょうか。なんでもご相談下さい。朝方と夕方が勤務時間中です。変則的ですけど」
「……今、昼ですよね?」
「いやあ、勤務外の残業で申請してますけど、なかなか払って貰えませんよ。今回はあなたという動かぬ証拠がありますし、いけるといいんですが」
うわあ、なんかブラックだな。
入居者に刺されても残業して住み込みして、とか、この人は鉄人なのでは……?
はとちゃんは俺たちが話し終わっても起きず、結局2時間ほど眠った。
天井の音は止んでいた。もしかしたら大坪さんが相手をしに行ったのかもしれない。
逆に、窓からさっきの姉妹の妹の方がこちらを伺っているのを見つけて、なるほどこのつっかえ棒はせめてものプライバシー保護か、なんだこの環境クソかよ、と呆れた。
目が合って窓越しにきゃいきゃい笑われて、しゃっとカーテンを閉めた。
起き抜け、俺がそばで手を握っているのを見つけて、はとちゃんはまどろむように微笑んだ。
「……お花、戻ってきたよ」
箱を差し出すと、はとちゃんはむくっと起きて箱を受け取り、赤子でも抱いてるみたいに愛おしげに箱を撫で、そっと中身をのぞいた。
「よかったぁ……。えへへ、にかいももらえたみたいだね。とく、しちゃった」
そう言う瞳は、また潤んでいる。
「はとちゃん……お風呂苦手だったんだね。嫌だったら、嫌って言って、いいんだよ? ああ、いや、あの時は本当に……酷い事されて、言えなくなっちゃってたのかな? もうあんな事絶対しない……ごめん、ごめんな、どうしたら償えるかな」
「……ぼくのためにしたんでしょ? なにかわるいこと、した? おふろ、ぼく、しゅうとさんと入れて、うれしかったよ。やさしくからだ、あらってくれた。また、入りたい」
そんなピュアな笑顔で、俺を見ないでくれ。
信じられている事が、こんなに辛い。大坪さんの言う通りだよ、しんどいよ。
自分の邪悪さが、彼の尊さみたいなものに、浮き彫りにされる。
「ああ……えっとな、うん、またお風呂には入るとしてな、あんな……血が出たり、服を割いたり、外でするような、危ない……はとちゃんの気持ちも身体も無視するような事は、本当に……しちゃいけない、悪い事で」
「ぼくのために、わるいことしてくれたんだねえ。とってもとっても、しゅうとさんはやさしい。しゅうとさん、さいきん、ぼくにごめんって、いっぱい言うよね。ぼくはねえ、ぜーんぶ、ゆるす! ね? ……ゆるされないのは、つらいからねえ」
「……!」
丸い瞳の中の悲しい闇に、吸い込まれた。
はとちゃんを抱きしめて、キスをする。
挟まれた箱が、かすかにきしんだように音を立てた。
たぶん、なんてぼやけた覚悟じゃない。
償いは、あなたを幸せにすることだ。
誓いを新たに立てよう、こんな自分が、なんてためらいは胸の奥にしまおう。
こんなところで生きることを余儀なくされている現実を、変えたい。
……一緒に暮らせないのかな。
じゃないな、
同棲しよ。決めた。
結婚出来ないのがなんだ、男同士が、障害が犯罪歴がなんだ。
俺はこの人をどうしようもなく、愛してる。
この人から愛されることを、欲してる。
それでいい。いいんだ。
「……しあわせ、だなぁ」
濡れた唇が、ほっと呟く。
「こんなもんじゃないよ、はとちゃん」
そっと身体をぬいぐるみだらけのベッドに寝そべらせながら返すと、はとちゃんは箱をぬいぐるみの隙間にそっと挟んで、空いた手を俺の背中に回した。
「……もう、こんなにたくさんなのに」
座るにはまあいいけれど、抱くにはちょっと心許ないかな、と思いながら、ベッドに両膝を乗せた。
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