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人はいつか死ぬ。
誰にでも平等に訪れる終焉はすぐそこに──
いくら足掻こうと理性は絶対に本能には勝てない。
時間をかけて少しずつ理性を打ち砕き、その隙間から本能を誘い出す。快楽という、本能の核を引きずり出し、底のない地獄に突き落とす。どんなに激しく振り払おうが次から次へと容赦なく襲ってくるその、暴力的なまでの快楽を伴う屈辱的なセックスを眼前の人としてきた。
それでもその時の、至極愉しそうに笑みを浮かべるあの人と、今、退屈そうに真っ白なベッドにもたれかかっているこの人は違う。形姿(なり)が同じにすぎない。
「また残してるんですか」
手を付けられることなく綺麗に盛られたままの、本来なら腹に収まるべきそれ。置かれた位置とわずかな摩擦すら起こしていない接触面も、皿に盛られたまま放られた食料も、何を映しているのか判らない眸(ぼう)同様に冷えきっている。
「食べたくないものは食べない」
本当はその体が、もう食料を受け付けられなくなっていることも、この先長くは保たないだろうこともわかっている。昔より深くなった眼窩が、痩け削げた頬が、痛々しいほど浮き出た骨が、そのことを知らしめる。
身体という器を有する人間は、その器を内から浸食する魔には抗えない。いくら足掻いても、本能を隠す理性がその内の本能には絶対に勝てないように。
「いい歳して子供みたいなこと言って」
この人だって、己のことなのだからその──あとは死を待つだけの──身体について誰よりもよく解っている。何も手を付けられることのなかった食料が冷めていくことも、何も取り込まない器が熱を失っていくことも当然のことなのだから。例外は、ない。
墨をぶちまけたくなるほど白くて、唾を吐き捨てたくなるほど奇麗なこんな場所は、あの人には似合わない。あの人に似合うのは、仄暗いあの世界だけだ。暗い空間で妖しく照らされた人間に淡々と、縄を這わせ、絡め取り、吊り上げ、絶頂に追いやるあの空間こそ、あの人のいるべき場所であり、あの人の日常なのだ。あの人と同じ形姿をしたこの人のいるべき場所はない。
その身に病気という不全が降りかからなければ決して来ることはなかったはずの異質なこの空間は非日常だ。器がここあろうと、あの人はこんなところにはいない。どんなに“日常”的な場所にいるとしても、“非日常”を日常とする俺たちはここには存在しない。
非日常にいないのならば、日常の会話は変わらない。変える必要など、どこにもないのだから。それは眼前にいるのが、あの人ではなくこの人だとしても同じこと。
明日から見舞いに来なくていいよ。というか来るな。暇潰しにもならない。
眼前の人から発せられた、変える必要などなかったはずの、変えられてしまった会話。即座にそれは日常を“日常”に変容させる。その瞬間に鋭い痛みとして脳髄に突き付けられたのは、ここが、病院であるという現実。かつて、愉しそうに顔を歪ませていたあの人が、病に冒されこの人と成り果て、どちらの世界からも消えてしまう日が、遠からずやってくるという、──頑なまでに理解を拒んできた──終焉。
「やっとくたばるんですね」
あの人も、この人も、自身が弱っていく様を俺に見られたくないのだ。空腹に耐え、いつかそれすらも感じなくなり、日々薄れていく意識の中で己の鼓動だけが弱まっていくのを認識しながら、彼の人はひとりでその生を終わらせようとしている。日常からも、“日常”からも失せようとしている。
「きみを酷く抱く人間に会わなくてよくなるんだから、清々するだろ」
何十年という長い年月ずっと続けてきたその歩みを、彼の人は止めるのだ。
「そうですね。やっと解放されます」
それを止めることは、誰にもできない。いや、違う。誰にもさせないのだ。彼の人は自身の最期の、枯れ朽ちる様を誰にも見せるつもりがないのだ。
「こんな時くらい笑ったらどうなの」
堅固な理性をぶち壊し、抗えない本能を剥き出しにさせたこの男は他人の無様な姿を暴いたとしても、自身のそれは決して誰にも暴かせない。無様で惨めったらしい姿を誰にも晒すことなく、どの世界からもいなくなる。
「その眼は節穴なんですか。わらってるじゃないですか」
弱ったみすぼらしい風体を見せつけられずに済む。滑稽そうに見下ろされる屈辱を味わわずに済む。
「東雲」
ただ、ほんの少し身近な人間が消えるだけだ。
おまえ、泣いてるよ。
人はいつか死ぬ。
誰にでも平等に訪れる終焉は今ここに──
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