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2-12 哀しみではなく痛み
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「泣くなよ、」
触れるか、触れないか。
壊れ物を扱うように一哉は僕を腕の中にいれた。
久しぶりに彼を近くに感じて、抱きしめられているわけではないのにあたたかい、と思った。
余計に涙があふれる。
あの頃は、本当にしあわせだった。
何も知らなかった頃。
僕の世界はピアノと一哉で出来ていて。
”あの日”ではない日のことで、僕が泣くのは初めてだ。
悲しいのとはちがう、胸の奥にどろりどろり熱すぎる何かが流れ落ちて、痛い。
あの頃は、本当にしあわせだった。
だからこそ、こんなにも。
「…今日応援、ありがとな。フリースローんとき、声、届いたよ」
「え、」
「イチ、がんばれって。入ったのはお前のおかげかもな」
「ちが、」
そうか、「イチ」。きっと一哉のコートネームなんだ。さっきも彼のチームメイトがそう呼んでいた。
でもちがうの、僕が呼んだのは一哉じゃないの。いっちーなの。
だって僕が、一哉のコートネームなんて知っているはずがないでしょう。
けれど僕はうまく言葉にできない。
「"匠"、お前もピアノ頑張れよ」
「っ」
一哉はそう言って、僕が何度も頷くのを見て安心したのか、チームメイトの方に走って行った。
僕はその場に呆然として立っていることしかできなかった。
涙が止まらない。
初めて呼ばれた僕の名前が、特別な響きを持って聞こえた。
どうして僕の心はこんなにも揺さぶられてしまうのだろう。
ピアノに逃げるように溺れていた中学生の僕は、
一哉が引っ張りあげてくれた。
一哉に揺さぶられる高校生の僕は、
どうしたら救われるのだろう。
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