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亀裂.8
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「……しかも結構高いだろ、これ」
そう言って離れた手を追うように振り返れば、いつも通りの表情で、自分をまっすぐに射抜く武川がいる。
…………なんでいるんだよ。
さっきまで、目すら合わせなかったくせに。
そう思いながらも。
その手が触れたことに、今、目があったことに。
どうしようもなく安心している自分がいた。
「……まぁ、あんな短時間で下がるわけねぇか。おい、椿屋、保健室いくぞ」
「……はぁ?」
「病人は寝るのが仕事だ」
いうが早いか、俺を担いで歩き出す。
「は?!おい!」
事態を飲み込めず、目を白黒させる伸也にも御構い無しだ。
「……病人って、怪我から発熱してるだけだろ、別に体調が悪いわけじゃねえ」
「…………」
「まだ仕事があんだよ」
「…………」
「大体まだ始まったばっかじゃねぇか」
「…………」
「おい、聞いてんのか」
何を言っても帰ってこない反応に、揺らがない腕に。
無性に胸がざわつく。
それが苛立ちなのか、それとも別の何かなのか。
それすら分からないことがまた、気にくわない。
そうする間にも、武川は黙々と歩き続け、あっという間に保健室が近付いてくる。
そうすると、武川はポケットを探り、鍵を取り出した。
「……鍵?」
「ああ、今日は保健医も外で待機してるからな。ここは貸切だ。だから何も考えずとっとと休め」
いうが早いか、保健室の内鍵をかけ、俺をベッドに転がし、その横にどかりと腰を下ろす。
「てめぇは、体育祭にでなくていいのかよ」
「自分の種目が近くなったら行く」
そう言って、瞬きもせずに俺をじっと見つめた。
……逃げないように見張りでもするつもりか。
あきらめて大人しく布団を被れば、いつのまに用意していたのか、額に冷えピタを押し付けられる。
そうして額に触れた手は、そのまま優しく左の頬をなぞった。
「…………痛むか」
「べつに、そんなヤワじゃねぇ」
むしろ、目の前にいる武川の方が、余程痛そうな顔をしている。
そんな顔をするくらいなら、初めからやらなければいい。
そう思う一方で。
わかって、いた。
…………こいつは、俺のために叩いたのだということ。
自分の感情を後ろに押しのけて、そうして行動した結果がこれなのだろうと。
けど、だったら、どうしろというのか。
そんなことがわかったところで、自分が今とるべき行動はちっともわからない。
ムカムカする胸中を隠すように、ギュッとシーツを握りしめた。
「なぁ」
「……あ?」
「お前はいつも、大袈裟だとか、平気だとか、ヤワじゃねぇとか、そんな言葉で片付けるけどな」
「…………」
「そういうことじゃねぇだろ」
「…………」
「守るものの多さとか、持ってるものの多さとか、そういうことでもねぇんだよ、そんな理屈でどうにかなるもんでもねぇだろ、普通」
「………普通、な」
いうのは簡単で、けれどあまりにも抽象的な言葉だ。
こいつのーーー他の奴らの言う"普通"と俺の"普通"は、重なりはしないのだ、どこまでも。
内心につられるように途方に暮れたような声が出て、それにつられるように、目の前の男は途方に暮れたような顔をした。
「……本当にお前は、危なっかしい。なぁ、お前本当に平気か?そんな考え方で、そんな振る舞い方をして。
……いや、お前にとっては平気なんだろうな。
でも俺にはとてもそうは見えねぇんだよ」
「…………それは」
「俺が決めることじゃねぇっていうんだろ。ああそうだ、俺が決めることじゃねぇよ。だけど、他人だからこそわかることもあるだろ」
そう言われれば、反論することはできなかった。
事実、他人に言われて初めて気付いたことは、少なからず存在する。
「溜め込んでること、きっと気楽に話せるようなことじゃねぇんだろうけど、吐いて楽になることもあるだろ。
だから、…………俺じゃなくてもいい、兎に角お前は頼ることを、自分を大切にすることを覚えろ」
そう言って、何故か傷付いたように目をそらして、武川は黙り込んだ。
「………………はぁ」
沈黙が舞い降りる保健室に、自分の溜息は思いの外響いた。
武川がこちらを向くのを見ながら、思ったままを口にする。
「そうだな。いうつもりも無かったし、進んで口にしてぇことでもねぇ。したところで、相手も困るだろうしな。
…………けど、もし誰かに言うとするなら」
「………………なら?」
躊躇って一度詰まった言葉を促すように、僅かに緊張を含んだ強い視線がこちらを射抜く。
「…………テメェ、がいい」
口から溢れた言葉が気まずくて、視線を逸らした。
それでも武川が食い入るようにこちらを見つめているのがわかって、今度は寝返りをうって、背を向けた。
「…………俺で、いいのか……?」
背中に投げかけられる声は、どこか呆けたような声色で。
聞いているこっちの調子が狂うっての。
「………………お前のせいだ」
「……は?」
「お前のせいで、最近もうわけわかんねぇんだよ。
…………だから、お前が、責任とれ」
なんて子供じみたことを言っているのか。
自分が情けなくていっそ笑えてくる。
でも事実、もし誰かに全てを打ち明けるとするなら、相手がこいつだろうことは、皮肉にも想像に難くない。
しかもそれももう、遠い未来の話ではない気までしてくるのだから、どうしようもない。
そこまで考えて、もう耐えきれずに目を瞑った。
目を閉じてしまえば、いたたまれない気持ちも、気まずさもどこか遠のいて、怠さが蘇ってくる。
そのまま迫ってくる鉛のような眠気に身を委ねれば。
「…………ああ、とるよ。……いつでも、いつまでも待ってる」
最後に、あいつがそう呟くのが聞こえた。
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